
近年、世界の美術界では新たな「声」が求められています。ベトナム・ハノイを拠点に活動するキュレーター、レ・トゥアン・ウエン(Le Thuan Uyen)さんも、そうした「声」の持ち主です。ベトナムで最も美術について深く考察し、献身的に活動する現代美術のキュレーターの一人として知られているウエンさん。瀬戸内国際芸術祭2025や、国際交流基金主催の美術プロジェクト 「Condition Report」などでの経験が、ウエンさんの仕事、そして進化するアートシーンの見方にどのような影響を与えたのか、お話を伺いました。

「ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、アジアの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。
文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。
偶然から始まったキュレーターとしての歩み
2015年から2018年にかけて、日本と東南アジアのキュレーターが協働で行う美術プロジェクト「Condition Report」が国際交流基金アジアセンター主催で開催されました。 このプロジェクトに参加したことで、キュレーションという仕事が持つさまざまな側面を深く理解できたとウエンさんは言います。
「視野が広がりましたね。キュレーターに求められる挑戦や取り組む姿勢、時間はもちろんのこと、自分自身への理解が深まり、私に何ができるのかが分かりました」
ウエンさんの言葉からは、若者の声を共鳴させ、持続可能な文化システムを形作るうえで、「Condition Report」のような異文化間の取り組みがいかに重要な役割を果たしているかが伝わってきます。
ウエンさんが芸術の世界に足を踏み入れたのは、英国で政治学を学んでいた頃のことです。もともとは政府機関への就職を希望していましたが、ロンドンにある複合文化施設、バービカン・センターで開催されたバウハウス展を見たことが転機になりました。
「自分自身がすっかり変わってしまったんです。ああいった抽象的な表現は見たことがありませんでした。あの体験が、まったく新しい可能性への扉を開いてくれました」
若く好奇心旺盛だったウエンさんは、新しいことに挑戦しようと2012年にバービカン・センターのインターンシップに参加。やがてクリエイティブな才能を持つ人たちを支えるネットワークの一員になるべく 、クリエイティブ産業の修士号を取得しました。その後、2014年初めにベトナムへ帰国しますが、当時のベトナムのアートシーンは英国や日本、近隣のインドネシアなどと比べてもまだアンダーグラウンド的で、発展段階にあることに気づきます。ウエンさんは「ニャサン・コレクティブ」の周辺で活発に活動するサークルに参加する一方で、アーティストでキュレーターのチャン・ルーンさんに5年間師事。その間、ルーンさんからさまざまなアーティストグループを紹介してもらいながら、ベトナムの芸術がどのように進化してきたのかについて学びました。
ウエンさんにキュレーターになることを勧めたのは、他ならぬアーティストたちだったといいます。ベトナムにはキュレーターが非常に少なく、長い道のりを一緒に歩いてくれる存在が必要だったのでしょう
とウエンさんは振り返ります。ベトナムの美術界は規模が小さく、さまざまな役割の境界があいまいだったこともあり、その頃にはすでにキュレーターの仕事に部分的に携わり始めていたのです。

ウエンさんを変えた「Condition Report」での経験
当時、ウエンさん自身は、仲間の「キュレーターになってほしい」という仲間の声に耳を傾けるつもりはなかったそうです。しかし、「Condition Report」への参加は貴重な学びの機会になると考え、2015年、国際交流基金のベトナム日本文化交流センターに申請書を提出します。
「東南アジアとは何か」を共通テーマとするこのプロジェクトは、6つのパートで構成され、ウエンさんにとって変化をもたらす「触媒」となりました。各国の若手キュレーターとともに日本各地の美術館やアートスペースを視察するなど、作品の展示方法や流通のさまざまなモデルに触れるまたとない機会となったのです。
「プロジェクトには日本と東南アジア各国から多くのキュレーターが参加していました。あれほどの数のキュレーターと交流したのは、あの時が初めてです」
この日本での美術調査を通じて、ウエンさんはキュレーターとしての野心や価値観を明確に自覚しました。
「キュレーターの仕事はベトナムのアーティストを支えるだけにとどまらない。真剣に取り組むべきものだと認識したのです」
「Condition Report」が重視する「柔軟性」「協働」「文脈の認識」もまた、ウエンさんにとって大きな意味を持っていました。キュレーターがさまざまな制度的枠組みの中でどのように仕事をしているのかを学び、アジア各国のキュレーターとの共通点を知ったことで、異なるアートシーンの発展過程を理解したのです。
「ベトナムでは、アーティストとキュレーターが密接にかかわり、キュレーターがプロデューサーの役割を兼ねることもあります。でも日本のアートシーンはより成熟していて、キュレーターの役割が明確で、専門性も高いと感じました」

「Condition Report」の第一回美術調査 で日本を訪れた若手キュレーターたち(2016年)
「Condition Report」で築いたネットワーク
プログラムの次の段階では、各参加者が2人のメンターと組みました。一人は日本人キュレーター、もう1人は東南アジアのキュレーターです。ウエンさんのメンターは、飯田志保子さんとインドネシアで活動するアデ・ダルマワンさん。この2人のもとで学んだことで、ウエンさんは全く異なるキュレーション手法に触れることができました。
「飯田さんはとても整理された思考を持ち、冷静かつ内省的です。一方でダルマワンさんは反応がとても早く、感覚が鋭敏でした。制度的なことに詳しくないアーティストと仕事をする術を持ち、柔軟性にも富んでいました」
ウエンさんは、インドネシア・ジャカルタに約1か月滞在し、他のメンバーと寝食を共にしながら、作品制作のサポート、関連イベントの準備などを行いました。この野心的な取り組みを通じて、キュレーションの仕事には体制と信頼関係が不可欠であることを学びます。
「何らかの体制があることは重要です。また、アーティストとのかかわりを通じて、信頼関係の大切さも知りました。どれだけ緻密に計画を立てても、信頼関係がなければ必ず失敗します」

ジャカルタでの協働展「シンディカット・チャンプルサリ」オープン直後の週末に活動する「Waf Lab」のメンバー(2016年)
ウエンさんは、東南アジアや日本の専門家と持続的な関係を築けたことが、「Condition Report」で得た最も大きな成果の一つだったと振り返ります。
「プロジェクトを通じて親しい友人が何人もできました。その関係はプロジェクトが終わった後も続いていて、マレーシア、日本、タイのキュレーターたちとは、今でも互いに支え合っています 」
ベトナムはかつて文化的に閉鎖的でしたが、異文化交流によってウエンさんの視野は広がりました。ウエンさんがまだ幼かった1990年代初頭のベトナムは、経済改革が始まったばかりで、国が大きな変貌を遂げようとしていた時期でした。
そのころ、ベトナムはまだ世界に対して固く心を閉ざしていました
とウエンさんは当時を振り返ります。今回プロジェクトに参加して他国の人と接したことで視野が広がり、偏見がなくなったと言います。物理的にも精神的にも、より鋭敏で現実的な感覚を身に付けることができたと思います

第一回グループ別調査旅行でジャカルタを訪問
ベトナムの美術に対する認識を変えたい
ウエンさんはかつて、いわゆる”institution”(機関/組織)というものは官僚的で、実験的な芸術の妨げになると考えていました。しかし「Condition Report」に参加したことで、「institution」に対する認識は大きく変わりました。アートシーンの発展において組織が果たす役割を知ったのです。
「方程式に定数が必要なように、アートシーンにも仕組みや制度が必要だと思うようになりました。アーティストが新しい表現を試みる自由な空間も必要ですが、作品や活動が社会とつながり、継続的な対話が生まれる場―つまり“ナラティブ(物語)”を保つための基盤―も欠かせないのです」
民間組織やコレクター、企業の資金提供によって「institution」の存在感が増すなど、ベトナムのアートシーンが大きく変化しつつある今こそ、こうした視点を持つことは重要です。ウエンさんは、アートシーンの変化を多面的に受け止めながらも、その流れをより良い方向へ導くためには、自ら積極的に関わっていくことが大切だと考えています。

瀬戸内国際芸術祭2025で示した新たなナラティブ
2025年、ウエンさんは瀬戸内国際芸術祭のベトナム現代美術展にキュレーターとして参加。既存のナラティブを超える作品を展示しました。
「日本でベトナムの美術作品を展示する機会は非常に限られているうえ、展示される作品の多くはベトナム戦争など特定のテーマに関するものです」
ベトナム現代美術展では、ウエンさんと同世代の若手アーティストが参加し、展示を通じて、ベトナムのアーティストたちの歴史への向き合い方が世代とともに変化していることを示しました。ウエンさんは、「戦争の傷跡と戦う国」というイメージは、自身が育った現実のベトナムとは違うと語ります。
「私たちの世代も戦争の記憶を受け継いでいますが、それは私たち自身の体験ではありません。私たちはインターネットが登場した時期に成長期を過ごし、ベトナムが近代的な独立国家としての体制が整ってきた頃に大人になりました。つまり私もベトナムと同じ時期に“成人”を迎えたと考えることがよくあります。」
日本とベトナムが共鳴する文化的基盤
瀬戸内国際芸術祭2025の準備を進めるなかで、ウエンさんは日本とベトナムの間に意外な文化的つながりがあることに気づきます。
「表面的な違いはあるものの、 どちらの国も東洋の美学と哲学に根差した価値観を持っています。また、家庭や社会における序列意識などは、私たちが使う言語の中にも表れています」
ウエンさんの歩みは、体系的な文化交流プログラムが個々の実践者、さらには地域のアーティスト・コミュニティーに大きな影響を与え得ることを示しています。「Condition Report」は、文化的対話や地域の発展において芸術が果たす役割を理解するための、実践的な学びの場であり、枠組みでもありました。ウエンさんの経験から、こうした文化交流プログラムが、参加者の文脈への理解や協働への姿勢に、持続的な変化をもたらすことが分かります。
異文化交流を通じて培われた共感的な好奇心は、ウエンさんのキュレーター活動において欠かせない要素です。進化するベトナムのアートシーンと世界をつなごうとするウエンさんの姿は、質の高い文化交流プログラムが個人の成長を促し、文化の境界を越えて広く芸術界の発展に寄与することを、まさに体現しています。


レ・トゥアン・ウエン(Le Thuan Uyen)
ハノイを拠点に活動するインディペンデント・キュレーター。ベトナムの現代美術作品の収集、展示、議論を行う民間団体The Outpostのアーティスティック・ディレクターを務める。2014年以降、多くのアーティストや団体とのコラボレーションにより、ニャサン・コレクティブ(Nhà Sàn Collective)、サン・アート(Sàn Art)、The Factory Contemporary Arts Centre などの運営管理や企画を支援。国際交流基金の「Condition Report」(ジャカルタで開かれた協働展「シンディカット・チャンプルサリ(Sindikat Campursari)」に参画)、瀬戸内国際芸術祭2025の「共鳴のコレオグラフィー」(新しい世代のアーティストの作品を通じて現代のベトナム社会を映し出す展示)など、幅広いプロジェクトにキュレーターとして参加している。








