単独性――シンギュラリティ――を求めて世界を旅する ――オン・ケンセン インタビュー

Interview / Asia Hundreds

日本とアジア

内野:DABでは、アジアの若いダンサーたちを招へいしました。今おっしゃったのと同じように、日本のダンスという異なる文脈、方法論とインターアクトすることで機会を与えるということですね。

ケンセン:そうです。日本のダンサーを通して、異なる文脈を想像する。文字通り、既存の枠組み[箱の中]を超えて考えるということです。

内野:日本との関わりは20年、30年になりますか?

ケンセン:30年ですね。

内野:あなたから見て、いまの日本の舞台芸術はどうなっていると思われますか?

ケンセン:ちょっとした経験談から始めましょう。DABに参加するアーティストと成田空港からここ横浜に来る間、おしゃべりをしました。「私が最初に日本に来たのは1988年だったんだ。生まれてた?」彼女は言いました。「生まれてませんよ」。「いつ生まれたんだっけ?」「1992年ですよ」。それで気づいたんですよ。もうすぐ、1992年とか1997年とか、つまり、私が日本で重要な作品を上演した年に生まれたアーティストとも仕事をすることになるって。この30年間の変化ということでは、かつては年長のアーティストとの関係が重要だった。北京、ソウル、東京をつなぐというような思考回路で、そういうときに関係したアーティストはアジアの文化、当時でいえば東アジアの文化という共通項を探していた。
私が1991年に国際交流基金のアセアン文化センター(旧アジアセンター)の招へいで来日したときには、インドネシアやフィリピンについては、年長のアーティストと関わることが重要でした。それが今は、もっと若い世代に注目が移っている。たとえば、シンガポールでは私が主宰を務めているシアターワークスでは多田淳之介さんを呼んで、都市部在住の若いアーティストとダンスのパフォーマンスをつくることになっています。20歳代のアーティストも、TPAMの努力もあって、どんどんアジアに出て行っています。それで、アジアについての見方も変わってきているのではないでしょうか。

インタビューの様子の写真
写真:鈴木穣蔵

その前のアジアといえば、もっと上の世代の交流でした。これは大きな変化です。確かに今、日本は経済的な問題もあり自信を失っています。アジアの他の地域の隆盛や野望ということもあるでしょう。でも私に言わせれば、日本には深さがある。日本は芸術についてきわめて独自な考えを培ってきた。日本との交わりで私はそのことを学びました。つまり、日本にはそういう自然状態で放置された枝のようなものがあって、その枝を磨いて輝かせなければならない。それが場合によっては100万円の価値を持つ。
つまり、どこの世界に10,000ドルもする小さな扇を使って舞台をやる国がありますか?こういう単独性(シンギュラリティ)がある。中国の音楽を吸収して、独特の仕方で、つまり単独的(シンギュラー)なやり方で発展させる。日本人には、自分の興味があることと特別でディープな関係を築くことへの自信があった。その自信が、今は批判されているように見えますね。長所というより短所だとみられるようになってきている。そこが今の日本文化の可能性の領域からも抜け落ちつつある。

内野:特効薬はありますか?

ケンセン:もちろん、ナショナリストや右翼の政党がすでにいろいろやっていますよね。ですからバランスは大切です。健全であることが大事です。たとえば、英国を再発明するということで、トニー・ブレアが何年も前に英国であることに誇りを取り戻す政策を実施しました。これはサッチャー政権以来の暗黒の時代を経過して、自信を取り返すという意味で、バランスをとるために重要だったのです。と同時に、この政策自体は植民地主義的傾向を持ちました。植民地主義的というのは、現代では資本主義が最たるものですね。ですから、権力をけん制することは大事ですが、同時にバランスをとらなければならない。安倍政権がいろいろやっているのに対し、よりヒューマンなアプローチが対置される必要がある。

内野:リベラルな思考ということでしょうか?確かに、ヨーロッパやスペインでは新しいリベラルな運動が生まれてきていますが、どちらかというと、昔のリベラルが復活してきているというふうにも見えます。新しいリベラルを支える思想哲学が必要だと思います。バランスということでいうなら、安倍政権のやり方に対し、それとは別に、日本のアーティストは、あなたがいうような道筋で、新たな美学を構築できるということですか?

ケンセン:コスモポリタニズムが私にとって大事な考え方です。というのは、それはつまり、自身の文化に逆らうということを意味するからです。寺山修司や土方巽も、彼らが活動していた当時の日本で起きていたことに逆らっていた。こういう活動に刺激を受けることが大切です。いつも自身の関わりについて批判的であること、自分を批判できること、それが重要です。自己反省性(reflexivity)ですね。若い人には、なかなかこの自己反省性を持つことは難しいと普通は思います。しかし、若いからといってそんなことはない、と口にする日本のアーティストに何人も出会ってきました。ですから私は、そういう若者をサポートし、反逆とコスモポリタニズムを実践する場所を与えたいと思うんです。

インタビューの様子の写真
写真:鈴木穣蔵

ダンスアーカイブボックスについて

内野:最近、日本の若いアーティストたちが、過去というか伝統に今までとは異なる道筋で興味を持つということがでてきています。その意味でも、今回、TPAM 2016でも行われたDABのプロジェクトが興味深いのは、参加した日本の振付家/ダンサーが、過去の自分の作品に再び向き合うという機会を得たことです。東京、シンガポール、そしてTPAMと継続してきました。

ケンセン:アーティストも思想家も、モダニティ、つまり近代性のポテンシャリティ、すなわち可能性に十分焦点を当てて来なかったということがあります。というのも、伝統というとすぐに何百年もさかのぼってしまうからです。しかし、モダニティの可能性というのは、大野一雄や寺山修司などが切り開いたのであって、それもまたモダニティなのです。つまり、少しだけでいいから戻ろうよ、と私は言っているのです。数百年、百年でもなく、10年、30年、あるいは50年、戻ってみよう、と。
私が思うに、第二次世界大戦前後で世界は大きく変わった。そのこともあってか、私個人は第二次大戦前とは関係が取りにくいんですね。だから、伝統との関係というのも、数百年前ではなく、もっと近い伝統との関係になる。DABはそのことと関わり、直近の過去を振り返るということになった。アジアでは、世代は10年ではなく5年で交代すると、前から私は言っています。ですから、たとえば、「ここに矢内原美邦さんが10年前につくった作品があります。それが今とどう関われるか考えてください」となるわけです。
もちろん、DABはとても特殊なアーカイブへのアプローチだと思っています。そのパラメーターというかルールは、ひどく単独的(シンギュラー)なアプローチなので、アーカイブ一般に当てはまるルールではありません。「作品をDVD化してください」とかそういうんじゃなくて、「この作品をつくるときに何にインスパイアされたのか、なにが引き金になったのか」ということにこだわる。黒田育世さんの場合、『落ちあっている(Meeting-Melting)』をつくっているとき、彼女の胎内には子供がいることがわかっていた。と同時に父親を亡くすという経験もした。これって、単なる作品創造の伏線ではなく、ノーテーションしたところで創造などには絶対つながらないような心理的なオーラみたいなものです。DABでは、そういう一種の振動のようなものが入力され、伝わっていく可能性がある。
同時に自己反省性ということも重要視しています。アーティストが特定の過去の自作品を想起し、ボックスをつくる。それはデジタル・アーカイブであってもなんでもいい。そこに創作過程の時空が詰め込まれて外に向かって投射される―ちょうど海を流れてきた瓶のメッセージを受けとり反応するように。別の振付家がボックスに応答するというのが重要な枠組みだったと思います。違うアーティストが反応する箇所としない箇所、この部分は残すとか、これはなくしてしまうとか、そういう応答を可能にすると思います。

インタビューに答えるケンセンさんの写真
写真:鈴木穣蔵

ですからDABは結果としての作品づくりにこだわるべきではない。こうすれば作品になるといった要素が重要なのではなく、今後のバックボーンになるようなもの、そのための一種の透明性の方が重要だと思った。単独性(シンギュラリティ)ということでいうなら、ある特定の単独性(シンギュラリティ)―最初のダンスが創造された時と空間―に戻り、10年、20年後に別の振付家による応答を可能にする私なりのアプローチだった。
そしてその単独性(シンギュラリティ)は可能な限り透明なものにしなければならない。単独性(シンギュラリティ)は、他者(人)に対して説明責任がある。だから箱の中身は、物理的に可視化されているのです。ですから、すべてが透明でないままに吸収されて新作として公開されてしまうと、DABのプロセスそのものを否定することになる。

内野:日本からの参加者、そしてボックスを受け取った南アジアのアーティストの間にはどういう化学反応があったのでしょうか?

ケンセン:ボックスの応答者は、なんと言いますか、当初やや身構えた感じがありましたね。ボックスは文化や文化に内在する政治性を超えてしまうはずですが、南アジアの振付家側からは、なぜ日本のボックスに応答しなければならないんだという疑義が出たり、応答の発表があった際、ボックスが破壊されてしまったという意見が出たり。私の意図としては、日本やインドを超えて、どこまでオープンなところに出られるかということだったのです。日本とインド、ふたつのダンスシーンが――日本のは閉塞的なのに対して、インドのは南アジアやインドのディアスポラによって形成されているため異種混合的で――どう出会うかに興味があったのです。というのも、ボックスは穴を穿ち、境界を壊そうとします。ボックスがさらに境界をつくっても仕方がない。
最初の段階では、日本のアーティスト同士だったので、ボックスをお互いに交換し、それはそれでよかったのですが、今度はただ渡すということになって、不安がっていました。しかし、実際にシンガポールに来たときには、その不安は消えて、要するにこれはコピーレフト(版権を放棄する)ことだと気づいてくれた。つまり、ボックスを未知へと投げ出すということです。そのことで、プロセスに関わった多数の人間もまた、放置する、成り行きに任せることの重要性に気づいた。普通の考え方ではアーティストとその作品ということになるわけですが、いったん作品がつくられたら、それはそれ独自の可能性を胚胎し、もはやその制作者に帰属するものではなくなる。

内野:ただそれは難しいですよね。特に日本のアーティストには、法的な意味でなく、感情的な意味で、自作品へのオーナーシップ(所有権)意識が強いと思います。

インタビュー中の内野氏の写真
写真:鈴木穣蔵

ケンセン:でもコントロールできないんですよ。たとえば、大野一雄の『ラ・アルヘンチーナ頌』が世界を巡回していて、どこでもいいですが、たとえばラトビアのリガの新聞にそのイメージが載る。それを見たアーティストが彼/彼女自身の作品をつくってしまう。こうして芸術作品はそれ自身の生をいき始めるひとつの例ですよね。

内野:それはその通りですが、それはいつでも起きているといえば起きている。DABが興味深いのは、影響を与える、受けるというプロセスそのものが可視化され、ある特定のボックスへの応答といった制約もあるなかで、行われたことです。このプロジェクトは今後どうなっていくと思いますか?

ケンセン:もっと別のところへとつながっていくといいと思います。旅をするというか。このまま継続していって、たとえば、ボックスを使う第2弾があってもいい。ドイツとかデンマークとか米国とか。起源からどんどん離れていっていい。そうなって初めて、別のフレームを用意する必要が生じるかもしれません。単なる応答だけではなくて、新作もつくってほしいよね、とか。

2016年のシンガポール芸術祭

内野:最後に、もう一度SIFAに話を戻しますが、15年のテーマは「ポスト帝国」でした。16年はどうなりますか?

ケンセン:「可能性/潜勢力(potentialities)」ですね。

内野:なるほど!

インタビューの様子の写真
写真:鈴木穣蔵

ケンセン:2014年はまず、過去100年の芸術諸ジャンルのレガシーを見てゆく「89+」というプロジェクトから始めました。1989年は、世界のデジタル化が始まった年でもあり、それ以降に生まれた若者の声を聞こう、とハンス・ウルリッヒ・オブリストと企画しました。さらに、「ポスト帝国」ということで、独占資本主義の検討をする。ネオリベ的なプロセス、つまり現在的権力のプロセスの検討です。次に来るのは、潜勢力ということです。つまり、『落ちあっている(Meeting-Melting)』のように、内在しているのに休眠状態にあるかもしれないものにアプローチする。DABもある意味、そういう時限爆弾のようなプロジェクトだったのです。肯定的に爆発するか否定的に爆発するか、誰にも読めない。
今年の「ジ・オープン」では、特定のジャンルを辿るより、個人の潜在力を見出そうとしています。オープニングに、新疆ウイグル自治区のウルムチ出身のロッカーのPerhat Kaliqを招へいします。彼は、確か2014年だったと思いますが、タレント・コンペティションで優勝し、今は「中国の声」ともいえる存在になっています。中国政府とは異なり、多くの人は、新疆ウイグル自治区やウルムチがテロリストの地域としか認識していないわけではないいうことを、私たちは示したいのです。そこには「何か」があると。その「何か」とは潜勢力です。それが危険性を帯びるものかどうか知るすべはないですが、潜勢力として考えると、過去を未来形で、あらゆるモダニティを未来として考えることができます。というのも、アジアのほとんどのところでは、モダンはあっという間になくなってしまったからです。グローバルな文脈がポストモダンに移行したために、モダンは早くに終わらざるをえなかった。

内野:ここで興味深いのは、西洋ではモダニティは基本的には否定的に見られているわけですが、あなたはアジアのモダンに肯定性を見いだそうとしていることですね。

ケンセン:そのとおりです。それからまた、DABでやったようなことを、自分の制作の部分に取り入れられないか考えています。多孔質で多文化的な演劇作品が、「閉鎖的」で近代的な作品の源を変化させるような。今は、野田秀樹さんの『三代目、りちゃあど』に取り組んでいて、実はあまり評価しない人もいるのですが、私は共感するところが大きいです。

内野:それはSIFAのためですか?

ケンセン:そうですが、まず2016年4月に静岡で初演します。それから9月にシンガポールで上演し、11~12月に東京芸術劇場でも2週間上演されます。

内野:それは大変楽しみですね。今日は長時間、どうもありがとうございました。

ケンセンさんと内野氏の写真
写真:鈴木穣蔵

【2016年2月13日、横浜赤レンガ倉庫にて】

聞き手・文:内野 儀(うちの・ただし)
1957年京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。学術博士(2001年)。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は日米現代演劇、パフォーマンス研究。著書に『メロドラマの逆襲』(勁草書房、1996年)、『メロドラマからパフォーマンスへ』(東京大学出版会、2001年)、『Crucible Bodies』(Seagull Books、2009年)、『「J演劇」の場所』(東京大学出版会、2016年)等。セゾン文化財団評議員、神奈川芸術文化財団理事、アーツカウンシル東京ボード委員、ZUNI Icosahedron Artistic Advisory Committee委員。表象文化論学会理事。