1956年の重要性
今年〔2016年〕は、日本とフィリピンの国交正常化60周年にあたります。日本と、その軍が行った占領と戦争犯罪の数々を赦免し、日本の犯した過去の過ちの清算として、フィリピンが日本から戦争賠償金を受け取った。この協定は、フィリピンでは一般にこうしたものとして語られます。ですが私は、この1956年のフィリピンと日本の結びつきを別の角度から見ることを提案します。この年に起きたもうひとつの出来事――ホセ・リサール*7 とその著書を取り上げた法案438が、上院を通過したという出来事――と併せて考えてみるのです。
*7 ホセ・リサール(1861-96)は、スペインの植民地支配に抗して自由主義改革と平等を訴え戦った作家、活動家。主著は、1887年の小説『ノリ・メ・タンヘレ〔我に触るな〕』と1891年の続編『反逆・暴力・革命――エル・フィリブステリスモ』。どちらも、スペイン・カトリック教会による専制政治と植民地政府がフィリピン国民の苦情を聞き入れなかったことを問題化している。これらの著作は、フィリピン独立の気運を醸成した。そのためリサールは逮捕され、1896年12月30日処刑された。リサールの死は殉教とみなされ、その後数十年にわたってフィリピン人たちを植民地支配に抗する抵抗運動へと駆り立てつづけた。こうして彼は、国民的英雄として広く知られるようになったのである。
リサール法案としても知られる法案438には、フィリピンのすべての教育機関の教育課程でこの作家とその小説を学ぶことを義務化するという趣旨が明記されています。さっそく「いったいどうしてそれがフィリピン・日本の関係と関わっているのか?」と疑問に思われたでしょう。お答えするために、1941年に横浜での亡命生活を終えて帰国した後、リカルテが行ったあのスピーチにもう一度立ち戻ってみましょう。
過去40年間にわたるアメリカの植民地教育――アメリカのいう「善意に満ちた同化策」*8 と民主的指導――が、1896年のフィリピン革命で起きたことやそこで活躍した英雄たちについて、いかにフィリピンの若者たちを忘却や誤解へと導いたのかを嘆きつつ、リカルテはこう言っています。
*8 善意に満ちた同化策宣言は、アメリカ第25代大統領ウィリアム・マッキンリーによって1898年12月21日に出され、1899年1月4日にフィリピンで公示された。フィリピン革命の際にアメリカがスペインを破った直後に出されたこの宣言には、フィリピンにまで統治権を拡大したいというアメリカの意図が滲んでいた。
君たちの親の世代が成し遂げた英雄的な偉業の、「真の解釈を語ることのできる」この機会を、私は長い間待ち望んでいました……実はアメリカは、リンカーンやワシントンといった人物の生涯を通して過去を記憶するように教育してきました。われわれの心から、極東のわが国の偉大な英雄たちの輝かしい偉業の数々を消し去るためです……自国の〔つまり、アメリカのではなく〕英雄と犠牲者たちを讃えましょう……これは誰にとっても明らかなことであるし、つねに行われるべきことです。*9 〔強調「」は引用者〕
*9 Artemio Ricarte, Sa Mga Kabataang Filipino [To the Filipino Youth], Manila, 1942.
1956年、法案438の制定をめぐって政府、教会、国民を巻き込んだ白熱の議論が交わされましたが、その際にアメリカ教育の「悪」影響についてのリカルテのこの見解や、自国の英雄たち対する言及が、ふたたび注目されたのでした。リカルテを支持する人たちは、スペインに抗する革命の英雄たちに彼が高い評価を与え、若者に対するアメリカ教育の影響を批判したことに共鳴しました。他方、反対する人たちは、日本の占領に抗して戦ったフィリピン=アメリカ軍は、ともに自国の英雄であり犠牲者であり、今日でも彼らを高く評価するべきだと主張しました。
たとえばデコロソ・ロサレス上院議員(1907-87)は、リサール法案は日本との戦いで結束したフィリピン人たちを著しく分断するものだ、と批判しました。「これよりほんの数年前に、われわれは大勢のフィリピンのカトリック教徒とともに、大切なものすべてを賭して、侵略する日本兵と戦うことにしました。……この英雄たちの95%は、『ノリ・メ・タンヘレ〔我に触るな〕』も『反逆・暴力・革命――エル・フィリブステリスモ』も読んでいないでしょう」*10 と彼は言います。つまりリサールや彼のイデオロギーがなくても、フィリピン人たちは自らの命を危険にさらして、自国のために日本と戦ったのだということを彼は主張したのです。
*10 原典は、以下を参照。Reynaldo Ileto, "El debate sobre el 'Proyecto de Ley Rizal' de 1956 y la influencia de los tres imperios en Filipinas (The 'Rizal Bill' Debate of 1956 and the Specters of Three Empires in the Philippines)," in Maria Dolores Elizalde and Josep Delgado (eds.), Filipinas: Un Pais entre Dos Imperios [The Philippines: A Nation between Two Empires] (Barcelona: Edicions Bellaterra), 60.
ところがこの発言にはさらなる含意もあります。抗日の闘争がフィリピン人を団結させ愛国心を芽生えさせる絶好の契機になったのだから、アメリカはフィリピン人の自由と独立のためのパートナー、盟友にほかならない、ということです。リサール法案は、このパートナーシップ自体を傷つけるものであり、それゆえこれと対立するものだったのです。
ホセ・ラウレル上院議員(祖父エングラシオと一緒に写真に写っていた人物)やクラロ・レクト(1890-1960)といったリサール法案の賛同者たちは、日本占領時代を、それ以前にフィリピンで起きた闘争――スペインによる植民地支配に抗する戦いと、その後のアメリカによる占領に抗する戦い――と関連づけることによって、より大きな時間の枠組みのなかに位置づけようと奮闘したのでした。
ラウレルとレクトは、スペイン植民地時代(1565-1898)の末期に生まれました。ですから、フィリピン革命でも、それに続くフィリピン=アメリカ戦争でも、兵士として戦うにはまだ若すぎました。しかし彼らの家族はどちらの戦争にも深く巻き込まれていきました。「日本との戦争において、いったい何のためにフィリピン人は死んでいったのか?」とラウレルとレクトは問いました。リサールの思想を深く理解していくにつれて、そのこたえが見えてきました。彼の思想が、1890年代と1940年代の共通点を導き出すことを可能にしたのです。
ラウレルとレクト、さらにはリカルテにとって、アメリカはスペインに抗するフィリピンの革命に「割って入り」、フィリピン人が厳しい奮闘の末に勝ち取りつつあった「自力の」独立を妨害したのでした。独立どころか、この干渉とこれにつづく「善意に満ちた同化(Benevolent Assimilation)」宣言は、ただ単にフィリピンをアメリカの統治権下に置くというものでした。フィリピン人の革命は「未完」に終わり、フィリピン=アメリカ「同盟」は、それゆえ、誤った基盤の上に打ち立てられたものだったのです。
さらに、1950年代半ばに活躍した著名なフィリピンの政治家たちの多くは、日本に抗するフィリピン=アメリカのゲリラ運動に携った経歴をもっていましたが、ラウレルとレクトが彼らと異なっているのは、繰り返しになりますが、二人が日本と深く関わっていたということです。ラウレルは、日本傀儡政権時代のフィリピン共和国(1943-45)の大統領で、レクトは外務大臣でした。ですから、彼らは自らの地位を利用してフィリピンの若者の再教育を推し進め、リサールやその他のフィリピン革命の英雄たちの闘争を再開させることができたのです。
ラウレル上院議員は、1956年にリサール法案を擁護するスピーチを行いますが、そのなかで彼は、1943年に歴史教育について自らが述べた見解を、一言半句変えずに繰り返したのです。
今日、歴史上のどの時代にも増して、自由とナショナリズムの理想に再び想いを寄せる必要があります。わが国の英雄は、ダゴホイやラプラプからリサール、デル・ピラール、ボニファシオ、マビニにいたるまで、この理想のために生き、そして死んだのでした。このナショナリストたちの言葉は、われわれの歴史に不滅の栄誉を刻印しました。*11
*11 Ileto, "El debate sobre el 'Proyecto de Ley Rizal' de 1956," 64l.
リサール法案をめぐるこの論争で最終的に明らかになったのは、法案賛成派はスペインに抗するリサールの闘争の歴史を、1872年のゴンブルサ事件*12 から1898年の独立宣言までのものとして捉えている、ということです。対して、法案反対派は、スペイン「および」日本との戦争におけるフィリピン=アメリカのパートナーシップが、フィリピンを1946年の独立へと導いたのだという歴史解釈をしました。
*12 ゴンブルサ〔GOMBURZA〕は、マリアーノ・ゴメス、ホセ・ブルゴス、ハシント・サモラの三神父のラストネームを組み合わせた合成語。この三神父が、1872年にカビテで起こった反乱の首謀者として、同年2月17日に国家転覆罪のかどで処刑された事件のことを指す。
ですから、われわれは1956年に成立したこの日比国交正常化の歴史的な重要性をより深く理解するために、リサール法案が通過し、アメリカに対する間接的な批判がなされていたという「もうひとつの」歴史が、フィリピン=アメリカの強力なパートナーシップについて共有されてきた支配的な歴史よりも、ほんの束の間優勢に立っていたということを踏まえて、この協定と、現在もなお続く歴史の記憶をめぐる戦争とを結びつけて考えなければなりません。
にもかかわらず、この支配的な言説は、いまだに優勢です。次に取り上げる発言に、そのことがはっきりと表れています。2003年10月にアメリカの前大統領ジョージ・W・ブッシュがフィリピン議会の前で行ったスピーチからの抜粋です。ブッシュはイラク侵略においてフィリピン政府からの支援を要求しつつ、比米同盟の復活を呼びかけたのです。
フィリピン国民のみなさまの偉大な物語の一部を担っていることは、アメリカの誇りです。両国の兵士は協力して、フィリピンを植民地支配から解放しました。われわれは手を取り合って、侵略、占領された島々を奪還したのです。バターン、コレヒドール、レイテ、ルソンの名は、ともに戦い、ともに敗れ、ともに勝利した、われわれの過去の記憶を呼び起こします。あの戦闘を戦った軍人たちは、いまもここにいます。私はあなたがたの勇気と勲功に敬意を表します……アメリカとフィリピンは、誇るべき歴史をともにしています。そしてわれわれは、ふたつの国が分かち合うことのできる強力な結束によって結ばれており、ともに未来へと歩んでいるのです。*13
*13 Addresses and Remarks, 39 WCPD 1427 (October 18, 2003). United States 43rd President George W. Bush, "Remarks to the Philippine Congress" at the Joint Session of the Philippine Congress, Philippines House of Representatives (Manila, Philippines), October 18, 2003. 以下で閲覧可能。https://www.gpo.gov/fdsys/pkg/WCPD-2003-10-27/pdf/WCPD-2003-10-27-Pg1427.pdf
ブッシュはこのスピーチで、意図的に「日本」という語の使用を避けていますが、彼がイラク戦争において復活させようとしていたのは、明らかに日本と戦ったときの、この比米同盟にほかなりません。
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