「ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。
「もうひとつの日常」をつくる
谷地田 未緒(以下、谷地田):北澤さんの現在の活動につながる原点は、どこにあるのでしょうか?
北澤 潤(以下、北澤):最初は、筑波大学在学中に佐渡で行ったプロジェクトかもしれません。父の出身地である佐渡島の両津と新潟市は、カーフェリー航路を使って2時間半の距離にあります。このプロジェクトで、カーフェリーが行き来する2つの港を毎日移動して、小さい旗を10日間にわたってつくり続けました。佐渡側は古民家を拠点にして、新潟側は行政が管理している場所。そこに仮設の工房みたいなものを開いたんですね。毎日海を往復して、僕の大学の友達を呼んだり、近くに住む人や子供、たまたま通りかかった人と一緒に作業をして、最終的に324枚の旗をつくりました。そして最終日には、その旗をつないでカーフェリーを囲い、佐渡新潟間の海を1往復しました。隔たれた2つの地点と、それをつなぐ船を舞台にしたこのプロジェクトは、自分と他者のコミュニケーションについての問題意識からうまれ、新しいコミュニケーションの回路を自分自身でつくりだしながら、それを実社会に重ね合わせるというトライでした。
谷地田:大学では芸術を専攻しながら文化人類学も学んでいますね。それもプロジェクトには影響しているでしょうか?
北澤:筑波大は総合大学なので、芸術だけでなく別の学科の授業もとったりしていました。といっても長続きしたのは詩と文化人類学くらいです。文化人類学の授業では、フィールドワークの演習も行なっていました。新潟の燕市で合宿した際には、鉋(かんな)の刃物をつくっている職人のおじさんと関わったのですが、ごく短い期間で外からやって来た人間には、簡単に工房や仕事の現場を見せてくれません。本当に一歩も入れてもらえなかったのですが、最終日には距離が縮まり横で話を聞けるまでになりました。調査する内容以前に調査者とインフォーマントの関係性や距離感があるんですよね。人類学の手法を学びながら思っていたのは、フィールドワークの基本は、調査対象からその「向こう側」を見る作業なのだということです。
谷地田:あくまで観察であって、相手方の行動や考えに介入してはいけない。
北澤:ええ。でも文化人類学者がその土地に滞在する以上、現地に何かしらの影響を与えてしまうのも事実。一方、アートプロジェクトの場合はその土地で何かをつくることが前提としてあるので、直接的な影響を与えることやコミュニケーションそのものに自覚的になる必要がある。それも文化人類学の学びと地域でのアートプロジェクトの実践を往復しながらうまれた関心ですね。いまインドネシアに関わるなかでも、大学で学んだ人類学の視点があらためて浮上してきて織り混ざっているように思います。
谷地田:その興味は《病院の村》 (2008)や、《放課後の学校クラブ》 (2010-)、《リビングルーム》 (2010-2015)にも通じるものですね。
北澤:病院や学校、商店街といった場所に合わせて、それぞれ「村」「クラブ」、「居間」という場と共同体のようなものをつくってきましたが、例えば病院のもつ既存の日常と、その中に現れた「村」という「もうひとつの日常」がどう影響しあうのか、という視点が実は重要でした。
北澤:記録も残していますが、エスノグラフィ*1 に近いと思っています。いま思うと、人類学のフィールドワークの手法をアートプロジェクトとして置き換えようと模索していたのだと思います。
話をいったん佐渡に戻すと、父の故郷である佐渡島での僕は、プロジェクトを実行するまでは「北澤さんのところの子」ぐらいにしか認識されていませんでした。でも、カーフェリーを運航する汽船会社と交渉したり、旗をつくったり、なんだかよく分からないことをやって、さらに新聞に載ったりすると、周囲からの反応が大きく変わったんです。これまでの認識の枠組みからズレてくると言うか。そこで、自分はずっと「家族のなかの自分」「学校のなかの自分」というあらゆる枠組みのなかで規定されていて、そのことに抑圧を覚えていたということに気づきました。これはいま思うとやっぱり東京出身っていうのが大きい。都会ならではの孤独、というか。
*1 文化人類学や社会学における研究手法の一つ。集団や社会の特徴や日常的な行動様式を記述する行為やその調査書。
谷地田:東京に住んでいると、その感覚はとてもわかります。
北澤:僕が抱えていた問題意識は、自己と他者とのコミュニケーションというより、社会の「役割」によって規定された「共同体―コミュニティ」に対する違和感だったんですね。だからこそあえてコミュニティをつくろうと考えました。そのために村や島を1つの枠組みに採用したのが《病院の村》や、「水と土の芸術祭2009」での《浮島》 だったんです。
北澤:《浮島》では、12メートル×36メートルの平らな船を借りて、家や灯台などを制作し、友人づてに島民を募集したりして、場があり人がいる状況をつくりました。異質な存在だった浮島に、毎日通う人が現れたりして、日に日に「共同体ができてきた」と感じました。けれども、芸術祭と同じように、期間が終わればその枠組みは消えてしまいます。そこでもっと日常に寄り添ったかたちでプロジェクトをつくることが課題になってきました。
谷地田:たしかに北澤さんは、期間が限定されているいわゆる地域芸術祭にはあまり参加していないですね。
北澤:そうですね。地域芸術祭のなかで作品を発表する意義も感じていましたが、あくまでも日常に関心があって。特別な地域というよりも、当たり前に存在している場所や時間のなかでやってみたくて、自然と学校や商店街に関わっていきました。きっと、関わる場所や地域、その人たちに対して、もっと誠意のあることをやりたかったのだと思います。「続けること」や「寄り添うこと」を模索したくなったんです。
《放課後の学校クラブ》と《リビングルーム》は同じ頃に思いついたアイデアです。そもそも学校には授業などの課業の時間と、それが終わった放課後という2つの時間がある。《放課後の学校クラブ》は、学校の「〇〇クラブ」のように「放課後にもうひとつ学校をつくる」プロジェクトとしてスタートしました。
北澤:これは水戸でずっと活動していた大学の先輩と一緒に自主的に始めたもので、最初はある小学校の放課後の時間に主に学習支援をするNPOの活動に混ざりながら、2010年に始めました。1年間ほど続けた頃に東日本大震災があって、その学校では続けられなくなってしまいましたが、現在は水戸市立浜田小学校を拠点に、関わるメンバーも入れ替わりながら、かれこれ7年間続いています。
谷地田:自分で種をまいた活動が、自ずと育っていったんですね。それは《リビングルーム》も同じですね。
北澤:「継続」ってことを考えていくと、やはり自分がいなくてもある程度運営できるようにならないといけないんですよ。そうなるためのプロセスはすごく難しくて、本当に少しずつ進んでいった感じです。
《リビングルーム》もそうで、最初は埼玉県北本市の事業の一環として始まりました。数年して、市の事業を離れて、地域で関わってくれているメンバーと組織をつくりながら自主的な活動になっていきました。もともと最初から明確に《リビングルーム》のアイデアがあったわけではなくて、一年間くらいかけて現地に通うなかで、北本団地という場所に足を踏み入れたのがきっかけになっています。団地って、郊外にありながら何というか「村感」がすごくあるんです。それまで団地の暮らしに触れたことがなかったのもあって、ここでプロジェクトをはじめたらすごく面白くなる予感がありました。《浮島》と違うのは、他の場所からいろいろなものを持ってきて造作するのではなく、地域にあるものをうまく活用するというルール。そこから団地内の空き店舗を使い、地域のなかで家具や日用品を集めて「居間」をつくって、物々交換で内装を変えていくというシステムが生まれました。
谷地田:既存のコミュニティに異質な人が入ってきたのが《病院の村》や《浮島》だとすると、《リビングルーム》以降は、住民自らが新しい空間をつくる方向に変化したと言えるかもしれません。先ほど震災の話が出ましたが、東日本大震災後、北澤さんは被災地で《マイタウンマーケット》 (2011-)というプロジェクトを行なっています。
北澤:震災直後は、ワークショップ実施のためにブータンを訪ねていました。そのタイミングに日本を離れていたことへの葛藤がすごくあって、帰国直後に被災地へと出向き約4年間通い続けることになりました。
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