ディック・リー――皮肉と運命とフォークソング:音楽を通じて生み出されるアイデンティティと帰属意識

Interview / Asia Hundreds

福岡、そして日本とのつながり

滝口:『ワンダーボーイ・ストーリー』は、このアジアフォーカス・福岡国際映画祭がシンガポール国外での初上映となります。ここ福岡で大変リラックスしておられるようなのが印象的なのですが。

リー:私が初めてこの地にやってきたのは1990年代の初めのことです。その時、福岡市がアジアとのつながりを重視し、歓迎していると気づきました。「私達はアジア人、アジアの文化は共通だ」、こんな姿勢を肌で感じたのです。しかし、東京や大阪ではそうした感覚はあまりありませんでした。メディアも同様です。
福岡は本当にユニークです。1990年には既に「福岡アジアマンス」をスタートさせていました。今は「アジアンパーティ」と呼ばれていますが、この映画祭はずっとこのような動きの中心的な役割を担ってきました。

また、私は2003年に福岡アジア文化賞の芸術・文化賞を受賞しましたが、これには大変大きな意味がありました。私の仕事がこのような公的な機関に認められたのは初めてだったからです。ポピュラー音楽を芸術として評価してくださいました。その数年後、私はシンガポールの文化勲章を受章しましたが、まるでシンガポール政府が「日本が彼を認めるなら、我々もそうしよう」と言っているかのようでした。この福岡アジア文化賞がシンガポール政府の考え方を変化させたのです。それまでは極めてエリート意識が強く、オペラや交響曲といった、いわゆるハイカルチャーのみを認めていた政府が、より幅広いオーディエンスと繋がろうとする私の仕事をようやく評価するようになりました。

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アジア・フォーカス 福岡国際映画祭2017でのディック・リー

滝口:リーさんにとって、日本は特別な場所なのですね。1990年代には日本を拠点にしておられましたし、ファンも多くいらっしゃいます。あなたと日本の関わりについて、教えていただけますか。

リー:それは答えが長くなってしまう質問ですね。まず、私の父の個人的な話から始めさせてください。私の日本と日本人の第一印象は、このエピソードからもたらされたからです。まずは第二次世界大戦中、シンガポールが日本の植民地であった時代まで時間を戻さなければなりません。
日本によるシンガポール占領は他のアジアの国々における日本の植民地支配とはかなり異なる経験であり、非常に興味深い部分があります。軍事攻撃がおこなわれたのは2ヶ月余りと非常に短期間でしたので、統治者がイギリスから日本に変わった後もシンガポール人たちにとっては日常生活が続いたのです。もはや新たな攻撃はなく、この島に住む者全員が、新しい昭南島(占領後、シンガポールはこのように改名されました)政府のもとで日常生活を営もうとしていました。

戦時中、多くの人々が日本のために苦しい経験をすることとなりました。これは否定することはできません。私の父も良い経験をしたとは言えません。しかし、隣に住んでいた日本軍の大佐と親しくなったのです。この大佐は父の家族にとても親切にしてくれて、しだいに父と親しい付き合いをするようになりました。彼は27歳くらいで、東京大学で法律の学位を得た直後に軍の判事に任命され、シンガポールに赴任してきたのです。英軍が降伏したのは1942年2月で、彼の赴任は同年の5月頃でした。彼がシンガポールに到着した時には、情勢は落ち着きを見せ始めていました。

当時17歳くらいだった父は、この大佐について日記に記録していました。私はそれを『Rising Son』という題で演劇にしたのです。この作品は2014年に劇団シンガポール・レパートリー・シアターによって上演されました。登場人物は、父、父の妹、日本人大佐の3人だけです。
ある日、大佐が食料を届けるために父の家を訪れました。彼は余った食料を父の家族に提供してくれたのです。こうして交流が始まりました。彼の家を訪れた父は、この日本人が文学好きであることを知ります。彼はシェイクスピアや英国の詩についての本を沢山持っていて、父に貸してくれました。彼の部屋はまるで図書館のようだった、と父の日記にあります。彼は深い教養のある文化的な人物でしたから、父と共通する部分がありました。二人は、とても親しくなったのです。……どうも話がそれてしまっているようですね。

滝口:お気遣いなく。とても興味深いです。

リー:重要なのは、戦後父は日本文化にノスタルジアのようなものを持っていて、その環境で私は育った、ということです。父は日本人を悪党だの怪物呼ばわりはしなかった。彼の記憶はほぼ好ましいものだったと言えるでしょう。私は当初、彼の感情を理解しかね、「自分の住む土地を侵略した人々に対し、どうしたら好意的な記憶を持てるのだろう」と思いました。
しかし、父の日記を読むうちに、彼が私に話してくれたことを理解することができました。食料は配給制でしたし、物も十分にありませんでした。日用品は闇市で手に入れなければなりませんでした。しかし生活は続いており、父は仕事に出かけていく。全てが普通の状態でした。彼はただ、隣人と親しくなって、それがたまたま日本人の大佐であったわけです。

この大佐がやってきた時、父の妹は14歳でした。彼女はレイプを恐れて家の中に閉じこもっていました。4年間囚人のような状態で家の中にいたわけです。終戦が近くなった頃、彼女は既に18歳になっていました。この大佐は彼女が知る唯一の男性でした。そして彼は父の妹に好意を寄せ始めるのです。これが『Rising Son』のメインのプロットの一つです。
父とこの日本人大佐との関係は、多くの点でかなりデリケートなものでした。父は常に自問自答しなければならなかったのです。日本人大佐と友人であることをおおっぴらにできるのか? 彼と妹の関係をこのまま見守ることができるのか? それを認めることができるのか?

私達がシンガポールでこの作品を上演したとき、日本大使館から何名か観に来てくださいました。彼らは涙をながし、この作品を気に入ってくれました。おそらくそれは、私が何一つ美化しなかったからでしょう。私はただ、あの戦争にも2つの側面があったと伝えたのです。戦争を欲する人などいません。それに、多くの場合、日本軍の兵士達は高官からの指示に従っていたに過ぎないのだろうと私は思います。この大佐は教養があり、平和主義者でもありました。これは単純な話ではないのです。父が戦後にノスタルジアのようなものを持っていたのは、まさにそれが理由なのです。そしてそのことが、私の日本人に対する第一印象を形作りました。

滝口:その後、あなたが大人へと成長していく時期に、日本は敗戦から急速な復興を果たします。そして、今度は経済的に、東南アジアに再参入していきました。

リー:そうですね。日本は自国を見事に復興させました。私がティーンエイジャーだった時には、私達は皆あの大戦を忘れ、シンガポールではJポップの人気が高まり始めました。西城秀樹、中森明菜、少し後には少年隊といった日本人歌手が、相当の人気を博しました。これとは別に、日本に関して私が夢中になったものは、万博です。1970年に万博を見るために大阪に行ったのですが、この頃に日本のポップカルチャーが発展し始めたと私は考えています。

それから、私がロンドンに留学していた時に、大きなターニングポイントがありました。1979年のことだったと思います。イギリスでリリースされていたYMO、イエロー・マジック・オーケストラやサンディー&ザ・サンセッツのアルバムをHMVで見つけたのです。「すごいな、この日本人アーティスト。西洋でも、アジア人がアルバムをリリースできるんだ!」と思いました。そしてこのことが、私にいくらか希望をくれました。彼らが大人気だったとは言いません。しかし少なくとも彼らはあの地で知られた存在ではありました。アジア人である私が、アジア人のアーティストをロンドンで知る。大変な皮肉ですよね?

その後、1989年にもう一つのターニングポイントがありました。ことの起こりは少しさかのぼって1986年です。私は、とある人物から手紙を受け取りました。彼の名は篠崎弘、朝日新聞の音楽担当の記者でした。

滝口:『ぼくはマッド・チャイナマン:ディック・リーが奏でるシンガポールの明日』(岩波書店、1990年)という著書で、あなたのことを日本に紹介した方ですね。

リー:篠崎さんの関心は、私の音楽というよりもアジアの音楽全般にあったのだと思います。それでも当時リリースされていた私のアルバムは全て聞いてくれていました。彼はシンガポールまで私に会いに来てくださったのですが、これが私にとって、現代日本との最初の接触となりました。その後、1989年8月に私のアルバム『マッド・チャイナマン』がリリースされた時には、彼の知人全員にそのアルバムを送ってくれました。その中には著名なジャーナリストでありプロデューサーの中村とうようさんもいました。そのくらい、彼は私のアルバムを気に入ってくれたのです。実は、私はそんなことはまったく知らなかったのですが。

1989年12月、私は何件かのファクスを受け取りました。プロデューサーを名乗る男性からの、会合の依頼でした。ブロークン・イングリッシュで書かれていたので、私は冗談だと思い、1枚目はそのまま捨ててしまいました。しかし、彼はファクスを送信し続けてきました。3度目にはファクスではなく、直接私に電話をかけてきて、「私はあなたのアルバムをプロデュースしたい。そちらに伺って、あなたにお会いしたい。あなたのマネジメントをしたいという人がいるのですよ。私達はあなたのアルバムを大変気に入っている」と言ったのです。
それから彼は後に私のマネージャーとなる女性と共に、シンガポールにやってきました。この男性は久保田麻琴さん、サンディー&ザ・サンセッツのメンバーです。ロンドンで彼のアルバムに出会ってからちょうど10年後に、彼本人がやってきたわけです。なんだかすごくないですか? この日本との縁は運命だった、そのように導かれたのだという気がします。

それからまた不思議な偶然がありました。今ならお話しして差し支えないと思います。久保田さんが私に話を持ちかけてきた時、私はワーナーミュージック・シンガポールに所属していました。この会社の担当者が私を高く評価してくれて、1984年に契約をしたのです。以来彼と一緒にアルバムをレコーディングしていました。しかし、1989年になると、彼はワーナーミュージックから解雇されそうだと感じていました。私には何一つそうしたことは話さなかったのですけれど。そんな折、彼はワーナーミュージック・ジャパンが私に関心を持っていることを知ったのです。彼は即座に私の契約をシンガポールから日本に切り替える手続きをしてくれました。そしてこの取引が成立してほどなく、彼は解雇されました。もし、あの時彼がそうしてくれなかったら、私はシンガポールで身動きできない状態になっていたでしょう。

これもまた、運命の意外な展開でした。久保田麻琴さん、篠崎弘さん、中村とうようさん他、皆さんのサポートを受け、私は日本でのキャリアをスタートさせました。1990年、私は第19回東京音楽祭のために来日し、日本での公演のプロモーターと契約を結ぶことができました。初ツアーは、7月に全国4都市で行われたのですが、1日で完売となりました。その後、私は日本に拠点を移しました。
以上です。こういった経緯です。(笑)

ディック・リーさんの写真

滝口:壮大なストーリーですね。(笑)

リー:まったくです。でも、このようなことが起こったのは、父に日本兵の良き友人がいたことが遠因なのだと言えるでしょう。もし父が拷問されたり拘禁されたりしていたら、このような気持ちにはならなかったでしょう。この友人の優しさが、こんな風に深く私の人生に影響しているのです。

滝口:あなたが日本で人気を得たころには、あなたの音楽はシンガポールの音楽というより、「アジアの」音楽というコンテクストで論じられました。バブルの好景気にわいていた日本では、アジアはイメージされ、消費される対象となっていました。このように認識されることに違和感はなかったのでしょうか。

リー:この質問に答えるために、もう一つ歴史の話をさせてください。私のアルバムは、時期としては極めて良いタイミングで登場したのです。私の音楽が日本に紹介されたのは1980年代の終わりで、アメリカ国内ではジャパン・バッシングが起こっていました。日本製の自動車がデモで燃やされたりしました。覚えていらっしゃいますか。

時間をさらに遡ると、もう一つ皮肉なことがあります。私の考えでは、日本は第二次世界大戦後に自国を復興させる際、西洋を目指し始めたのです。アメリカは日本を爆撃した。アメリカが勝者だ。だから日本は、自国の文化に背を向け始めたのです。こうして、1950年代から60年代にかけて、日本人はロックンロールといったものに夢中になり、アメリカン・ファッションの日本版を作り上げた。それが後にシンガポールにもやってきたわけですが。いずれにしても、こうして『上を向いて歩こう』がビルボード・チャートで第1位となりました。アメリカで日本の歌が第1位となったのは、歴史上これが最初で最後です。1963年のことですね。日本人は西洋に目を向け、自身にこう言い聞かせた。「我々独自の文化は何の価値もない。この惨状を招いたのは我々なのだから。我々は素晴らしい西洋文化を模倣するのだ」と。これが結果として、この時期に日本の西洋化をもたらしました。
しかし、1980年代後半にその反動が現れます。アメリカ人が、アメリカの産業や資産を奪う日本人を不満に思うようになったのです。彼らは日本に攻撃的な態度を示し、それに応答する形で、日本人は自分自身に再び向きあうようになりました。そして、私がやってきた。

私の音楽は、あの時点では日本人の誰一人としてどの文化のものか特定することができないものでした。みんなが「この音楽は不思議。とても面白いし、現代的。シンガポールの音楽か……シンガポールって何?」と言っていたのです。当時、私と同世代の日本人で日本軍によるアジア各国の占領について詳しく知っている人はいませんでした。あの戦争と歴史に背を向けていたのです。これには少々困惑したと言わざるを得ません。アジア各地で起こった惨事について多少の知識はあったのかもしれませんが、学校できちんと学ぶことはなかったのです。都合の悪い記憶は、歴史の教科書から消し去られていました。ですから、特に当時20代から30代であった世代は、アジアについて何も知らなかった。彼らは、アジアには漁村しかない、と思っていました。

初めて日本でインタビューを受けた時、強いショックを受けました。インタビュアーたちが「あなたはシンガポールからいらしたのですね。アジア人ですね」と言ったのです。その後、彼らは私をアジア人と呼び続けました。私は「失礼ですが、私達は皆アジア人ですよ。あなたと私でニューヨークを歩いたら、見分けがつきませんよ」と答えました。しかし、ジャーナリストのほぼ全員が「いいえ、あなたはアジア人で、私達は日本人なのですよ」と言った。1989年、90年ごろはそんな感じだったのです。

彼らのコメントにも驚かされました。例えば、「シンガポールにポップ・ミュージックがあるとは知らなかった」、「シンガポールには高いビルがあるのですね!」、「シンガポールの少女はみんな、スチュワーデスにあこがれているというのは本当ですか?」といったものです。
私はシンガポール、あるいは「アジア」という地域一般が、このような低いイメージと結びついていると気づきました。そして、ジャーナリストでさえ、私達については非常に限られた知識しか持っていないのだと。私は彼らに「イエス」と答え続けなければなりませんでした。シンガポールにはポップ・ミュージックも高いビルもあります、と。

その後、日本ではいわゆるアジアブームが巻き起こりました。すべてが非常に短い間に起こり、社会の変化は著しいものでした。突然、多くの日本人が旅行者としてシンガポールを訪れるようになりました。日本の団体旅行客がアジアのあらゆる場所にやってきました。バリ、香港、バンコク。このブームに私が貢献した部分があったかもしれません。というのも、ガムラン音楽を日本のポップカルチャーに紹介したのは私ですから。日本人がアジアのさまざまな場所を闊歩するようになりました。一度訪れて、思ったよりも安全なのだということがわかると、リピーターになる人も多かったのです。

私の音楽は、日本国内での巨大なアジアブームにおいて一定の地位を占めていました。しかし私にはユニークな面もありました。英語で歌うからです。レコード販売店では、私のアルバムは3つの棚に置かれていました。まず海外部門。これは英語歌詞の、主として西洋のポップミュージックが対象です。それからワールドミュージック部門。私はなんといっても「アジア人」でしたから。また、私は日本のレコード会社に所属し、日本を拠点にしていましたので国内部門にも。みんな、私をどこに分類すべきかわからなかったのです。私は「アジア人」と呼ばれましたが、その言葉の意味ははっきりと定義されていませんでした。

滝口:当時の日本は、「アジア」という概念にどう対処するのか、地域の中で自国のアイデンティティをどう見出すのかという難問に直面していたように思えます。

リー:はい、日本は、アジアのどこに当てはまるのか、ということですね。