ディック・リー――皮肉と運命とフォークソング:音楽を通じて生み出されるアイデンティティと帰属意識

Interview / Asia Hundreds

音楽を通じたアイデンティティの探求

滝口:でも、シンガポールにも同様の苦労があったのではないでしょうか。建国のまさにその時点から、シンガポールはアイデンティティの構築という難題に取り組まざるを得ませんでした。この国の文化と言語政策は、自らが帰属していると感じるコミュニティ、そして国民という共同体を作りあげたいという、政府の願望を反映しています。

リー:多文化の併存も問題でした。私達は何者か、という途方もない問いが、今までずっと存在し続けています。私達は中国人か? インド人か? マレー人か? みんなシンガポール人だと言えるのか? 最近、マレー人女性が大統領に選出されましたが、その選挙の過程では多くの議論がおこなわれました。シンガポールでは、アイデンティティの問題は今もなお身近に存在する、差し迫った問題なのです。おそらく、シンガポールは建国から50年しか経っていないことが大きな理由でしょう。

しかし日本は違います。数千年の歴史がある。日本がしていたのは、日本人としてどちらの価値観が望ましいかという問いだったと、私は思います。例えば、ファッションにそれを見ることができます。1990年前後に現れた日本風スタイルの復活がその一例です。若者達が浴衣や着物を着始めました。日本独自の文化へ回帰したのです。
音楽にも同様の傾向を見ることができます。私の長年の友人である宮沢和史さんはその良い例です。彼は日本の伝統音楽に興味があり、伝統楽器を演奏する技術を持っています。また、日本の要素と日本以外のアジアの要素を結びつけることに大きな関心があります。この点については、おそらく私が彼に大きな影響を与えたのではないかと思います。彼はガムランを習い、それを自分の音楽に使いました。大ヒットした『島唄』(1993年)では、沖縄の要素を使いました。このように異文化を採り入れる多くの試みがなされていました。アジアと日本が結びついた作品は、あの当時おそらく最も面白いものだったと思います。

滝口:西洋文化に憧れ、その反動として独自の文化に再び戻る。興味深い現象ですね。『ワンダーボーイ・ストーリー』の中で印象的に使われているあなたの歌、「フライドライス・パラダイス」は、あなたが独自の曲作りのスタイルを確立していく過程で見つけた、シンガポール人らしさを象徴しています。これは、シンガポール料理の食堂を開いた一人の少女についての歌です。基本的に歌詞は英語です。しかしマレー語や中国語も混在し、多文化社会であるシンガポールを反映しています。映画の中であなたのお母さんも「とてもキュートね」と言っていましたが、この歌にあるシンガポール的な特徴が、あなたのキャリアの初期には大きなアピールポイントになったわけですね。

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ディック・リー『ワンダーボーイ・ストーリー』(スチル)(2017)
ディックの母親役のコンスタンス・ソン

リー:シンガポール人のアイデンティティを取り込もうとしたポップ・ミュージックは、私の曲が初めてだったからだと思います。マシュー・アンド・ザ・マンダリンズというローカルバンドが「シンガポール・カウボーイ」というヒットソングで私に続きましたが、それは3年ほど後のことでした。

滝口:ある意味では、その当時のシンガポール社会には、自らのアイデンティティを構築するための帰属感を求める、共通した願望があったように思えますね。政府もその目的のために多くの政策を導入していました。あなたのアプローチは政府の意図と共鳴していると思ったことはありませんか。

リー:いいえ。全く思いません。この映画にあるように、私の歌は放送禁止になりました。シングリッシュという、シンガポールなまりの英語を使っているからです。おそらく、1970年代には明確な方針といったものはなかったのではないでしょうか。私達は何者であるべきかが定かでなかったと言ってもいい。政府は単に、シングリッシュを下等な英語とみなし、それを許容すると公に下等な文法を認めたことになると思ったのです。だからメディアで放送することを禁止したわけです。私は困惑しました。自分を自分たらしめているものを恥じなければならないのかと問わなくてはならなかったからです。より国際的であるためにシンガポール人であることを諦めよ、と言われたかのようでした。政府がはっきりとそう言ったわけではありませんでしたが。

その後、1989年に、『マッド・チャイナマン』の1曲目で、私は再びシングリッシュを使おうとしました。「あれから何年か経ったのだから、もう受け入れられるのではないか」と思ったのです。そしてラップですね。私はシングリッシュを使う、シンガポール初のラッパーになったんです。でもこの時も放送禁止となりました。
「フライドライス・パラダイス」から15年後の1989年でも、政府はシングリッシュを快く思っていなかったのです。しかし、政府はこの歌をラジオやテレビで放送することを禁じましたが、メディアが私を支援してくれたため、禁止令は最終的には取り消されることになりました。

滝口:1970年代のシンガポールについては、公に議論されることがほとんどなかったように思います。空港で長髪の男性の入国が拒否されるといった、極端な政策についての逸話的な言及はありました。しかし、語られない話も多くありました。『ワンダーボーイ・ストーリー』で、あなたは隠されたシンガポールの歴史を明らかにしたのではないでしょうか。

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ディック・リー『ワンダーボーイ・ストーリー』(スチル)(2017)

リー:そうなのです。この映画に出てくる話は、私が経験したことです。そして、誰も語らないことなのです。1965年のシンガポール独立については多くが語られてきました。私達は2015年に「SG50」という旗印のもと、シンガポール建国50周年を祝いました。その祝賀ムードの中で語られたのは、1965年と、独立前の数年間の歴史です。
しかし、その後の長い期間に及ぶ、アイデンティティを探し求めた私達の苦悩についてはめったに語られません。私達はその時期を無視し続けており、記憶はすぐに失われてしまいます。1980年の初め頃、古くからある多くのショップハウスが壊された時期がありました。街並みが急速に様変わりし、私達の地域の記憶は、消し去られました。とても恐ろしいことです。

滝口:シンガポールは、既にアイデンティティを見つけたと思われますか。

リー:私自身を鏡として使わせてください。私は自分のアイデンティティを見つけたと思っています。音楽を通してそれを探し続けた歳月を経て、私はシンガポール人としての自分に、より自信を持てるようになりました。この映画のラストで、私自身が歌うシーンがあります。「ホーム」という、1998年のナショナル・デー・パレードのテーマ曲として私が作った歌です。
この歌は、私のシンガポールへの遺言とも言えるようなものだと思っています。シンガポール人全員が歌えるといっても過言ではなく、国歌と同じくらいよく知られた歌だとさえ言われます。みんなが、シンガポール人としての誇りを感じる歌なのです。歌から何かを感じるのです。これは、私達が何者であるかを知るための一つのステップです。それを、音楽を通しておこなっているのです。

『マッド・チャイナマン』を作った時、私は「ラサ・サヤン」などのフォークソング、民族音楽を使うという実験をしました。このアルバムにはフォークソングがたくさん使われています。しかし、シンガポールの曲は一つもありません。それぞれのフォークソングは、それぞれの国の曲。私達シンガポール人には、自分たちのフォークソングはなかったのです。
もちろん、私達は建国から50年の歴史しかない、非常に若い国です。それに多様な人種が併存する社会においては、言語が大きな問題となるでしょう。フォークソングは何語であるべきか? 中国語? もちろん、華人はシンガポールで最大の人種グループで、人口の75%ほどを占めます。しかし中国語で書かれた歌は、マレー人は歌わないでしょう。

「ホーム」は英語で書かれましたが、18年経った今でもみんなが歌っています。「ホーム」は私達のフォークソングになったのだと言えるかもしれません。私がこれまでの人生で最も誇りに思うのはこのことです。私はこういったものを書いてみたかったのです。私達の国のアイデンティティに貢献するような何かを。

滝口:『ワンダーボーイ・ストーリー』では、「フライドライス・パラダイス」の後にシーンが2016年へとジャンプします。そしてあなたご自身が「ホーム」を歌いますが、この歌にはシンガポール的だとはっきりわかる要素がありません。観客である私達は、この間に何があったのだろうと考えさせられることになります。

リー:この映画で扱ったのは、たったの3年間です。続編を作らないといけませんね! まだ1980年代と1990年代がありますしね。こちらも沢山のエピソードがありますよ。香港と日本で様々なことがありましたから。

滝口:ということは、あなたは映画の監督を続けるのですね?

リー:現在、2つのプロジェクトに取り組んでいます。両方とも依頼されたものです。つまり、『ワンダーボーイ・ストーリー』とは違い、私自身のプロジェクトではありません。片方のプロジェクトでは脚本を書いていて、もう一方では監督をする予定です。私がした仕事を気に入ってくださったのでしょうね。両方とも音楽の要素が少々ありますので、それがもう一つの理由かもしれません。後者は中国の映画です。

滝口:あなたは今でも国境を越えての仕事に強い関心がおありなのですね。

リー:ええ。今のところ、特に中国ですね。中華圏でさらに活動をしたいと思っています。中国語は話せないのですけれどね。しかし、結局、そんなことはあまり重要でありません。私は日本語を話すことができませんが、ここで仕事をしていますしね。我々はグローバルな世界に住み、仕事をしているということです。

滝口:日本に戻ってくる予定はありますか。

リー:日本でももっと仕事をしたいと思っています。日本は全てが始まった場所ですから。日本のおかげで、私はそれまでの仕事を辞めて、ミュージシャンとしての活動に専念することができました。紛れもなく、多くの恩恵を日本から受けています。それに日本のファンは最高です。今年の夏、約20年ぶりに日本でコンサートを開いたのです。
1990年に私のショウに来てくださった方々が、今年のコンサートにも来てくださいました。今度は子ども連れで!それに時々、反対のことも起こるのですよ。つまり、娘がファンなので、母親もファンになってくれる。素晴らしいことです。もっと日本に戻って来られたらいいのにと思います。それほど難しいことではないはずです。ピアノを用意してください。私に必要なのはそれだけです。ピアノが1台あれば、皆さんを2時間楽しませて差し上げますよ!

【2017年9月16日 福岡市キャナルシティ博多にて】

参考情報

ディック・リー公式Webサイト(英)

アジアン・シェイクスピア・インターカルチュラル・アーカイブ

ワンダーボーイ・ストーリー』予告編(英)


インタビュアー:滝口 健(たきぐち けん)
ドラマトゥルク、翻訳者。1999年から2016年までマレーシア、シンガポールに拠点を置き、シンガポール国立大学よりPhD取得。数多くの国際共同制作演劇作品に参加。アジアン・ドラマトゥルク・ネットワーク創設メンバー、オンライン演劇アーカイブ『アジアン・シェイクスピア・インターカルチュラル・アーカイブ』副代表。東京藝術大学非常勤講師。国際交流基金アジアセンター勤務。