「ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。
ずいぶんとうつろう物語だと感じた。『プラータナー』はタイに住む芸術家の物語だ。川を模したような、仄明るいブルーライトが床を照らすなか、主人公の「カオシン」の独白シーンから物語は始まる。べたりと床に座り、詩情のただよう言葉をぽつりぽつりと、あてもなく吐き捨てていく。けだるさ、あやうさ、やりきれなさ、なんと言ったらいいのだろう。形容しづらいぼやけた印象だ。独白は次に、線の細い女性へとバトンを渡す。身振り手振り揺らしながら、強い語調で言葉をぶつける様子はまるで演説のようだ。先ほどまでうつろに独白を続けていた「カオシン」も、この語気に呼応して生気を回復していくように見える。これから二人の対話が始まるかと思うや否や、舞台に立つ演者は代わり、さらなる独白のシーンが続いていく。冒頭の独白とは違う確かな語気で、強く自信ありげに、けれどその言葉を受け止める主体は舞台に存在しない。セリフに“あなたは”という枕詞をつけているにも関わらず、言葉は宙を彷徨っていく。そのうちシーンは移り変わり、「プシュッ」と缶のシンハービールを開ける音とともに、ガヤガヤと騒ぎ立てる若者たちの饗宴が始まる。奥に見える女性は弾ける若さを表現するような、スパンコールを散らした服装に身を包んでいる。舞台の照明に反射して、きらっ、きらっ、とこちらに存在を主張してくるが、立ち位置は集団から少し離れたところで、酩酊する青年をスマートフォンで撮影している。刺すような光が彼女に注目を誘うが、どこか狂熱から距離を置いているようにも見える。
ここまで冒頭のシーンをプロットしてみたが、シーンの移り変わりにロジックは見つけられない。薄暗い照明の演出も相まって、朝靄のような記憶の情景を、ただ思い浮かんだままに見せられているような感じさえする。物語の主旋律が掴みとれないため、どうしても演者に注目せざるを得ない。言うまでもなく役者の演技は、目の前の物語を理解する手がかりとなる。話される内容だけではなく、感情を乗せた(あるいは意図的に抑圧した)話され方や、身振り手振りを含めて、<いまここ>が一体いつどこで、喜劇なのか悲劇なのか、はたまた多層化する劇中劇であるのかを示す情報となり、それによって鑑賞者は舞台との距離感を測ろうとする。しかしこの物語は演出上、同じ役者が場面によって違う服装で、違う登場人物を演じることがある。役者と登場人物が一対一で対応しないため、登場人物に対する印象がなかなか定まらない。通常、生身の人間はどうしても印象を強要する。髪の長さや体格などから「あの人はこんな感じだろう」と、過去の人間関係と比べて勝手に理解しようとする。それは自然現象にも近しい習性だ。けれど先述の演出により、役者の演技に応答して得た物語の印象はあっさりと裏切られ、ただひたすらに流れ続ける。物語が、解釈から自由に逃れ続けているとも言える。
一方で、あるいはそのため、と言うべきか。大きな物語の中の小さな断片、つまりところどころで演者が放つ“セリフそのもの”に対して、妙に惹きつけられてしまう。舞台に向かって正面の壁には、一面スクリーンが張り出され、セリフのテキストが映し出される。先ほどの饗宴のシーンでは、酩酊した青年は集団に向かって
「愛なんて欲望を心に閉じこめようとするばかりで苛立たされるだけだ。だからおれは欲望のことを愛と呼ぶ!」
と言い放つ。文脈が読み取りきれないが、ふと目の前に飛び込んでくる詩的なテキストが、波紋を残すように想像力を喚起する。物語に入りきれないやるせなさのせいか、文字テキストへの没入に誘惑される。スクリーンに映し出された断片的なテキストによって、舞台が詩情を帯びていく。
時にライブ中継のように、舞台上で撮影している映像が、リアルタイムでスクリーンに映し出される場面もあった。切り取られた視点がスクリーン上に投影される中、舞台では役者の演技が継続して行われ、あちらこちらで物語が発生する。そのため同時に焦点を合わせることが叶わない。スクリーンには画面いっぱいに若い青年の顔が映し出され、舞台脇で男女が口づけを交わし合う。その横では、先ほどまで演技をしていた若者たちが体育座りになって舞台を眺め、ただ傍観しているだけなのか、それともこれも演技の範疇なのかわからずに、つい気になってしまう。自ずと視点の位置は中動態とも呼べる状態で舞台上を彷徨うが、視点の動きによって感覚が現実に引き戻され、<いまここ>にいる自らの身体をも意識してしまう。もし映画のように、物理的な平面上でのみ流れる物語であれば、ここまで視点をあちらこちらへと動かすことは無いだろう。娯楽における映像作品は、基本的に視点を誘導し、受動態を許容することによって没入を誘う。しかし『プラータナー』は、演劇空間において注意を誘うものが同時多発的に発生し、むしろ物語への没入を許さない。視点は物語と現実を往復し、没入と覚醒が繰り返される“うつろいの状態”が続いていく。主人公の「カオシン」が直面する“ままならなさ”を、<いまここ>でも体験しているかのようだ。そしてこのたゆたうような状態こそが、『プラータナー』の醍醐味だったのだと、筆者は後に気づくことになる。
例えば一部の後半では、舞台上で男女が体を絡め合うシーンがあった。ナレーションはセックスを示唆する“交わった”という言葉を連呼するが、絡み合う男女の表情はどこか険しい。男が女に馬乗りになったかと思えば、ポラロイドカメラで無理やり女の顔を撮ろうとする。女も負けじと男からカメラを奪い取り、激情しながら男の顔を執拗に撮り返す。時にお互いを叩き、暴力を交えながらもつれ合う様子は、まるで欲望のぶつけ合いだ。荒ぶる息遣いが耳元まで届く。躍動する身体から目が離せなくなる。舞台と観客席の境界線は溶け、物語と記憶が混ざり合い、“交わり”が現前に差し迫る。
この象徴的なシーンは、観劇後に参加した、鑑賞者同士でそれぞれの感想をシェアする「あなたのポストトーク」でも話題に挙がった。しかし筆者は気づかなかったが、他の観劇者によれば、このシーンではナレーションによって同時代に起きた社会事象が語られる演出があったという。社会では、首相が代わり、経済危機が起こり、憲法が施行される。過熱する男女とはまるで関係が無いように、副音声のようにただ訥々と語られていく。筆者は肉薄する男女のぶつかり合いにしか気づけなかったが、それらは確かに同時に“起こっていた”のだ。そして観劇後、自らとは違う視点によってそれを知らされることになる。
「あなたのポストトーク」では、示し合わせたかのように、誰一人として同じことを語る者がいなかった。ある者は政治を、ある者は恋愛を、ある者は暴力を、ある者は若さを語る。自分たちの生活に切迫するがゆえ、正解を求める議論に陥りがちなテーマだ。しかしこの場では、それぞれの「あなたの物語」に直面し、多様な解釈によって世界が開かれる体験に思わず前のめりになってしまう。観劇と同じくらい、あるいはそれ以上に臨場感のある体験だった。『プラータナー』は容易に没入を許さない演出によって、それぞれの視点が自由に彷徨う。絶えず物語と現実を往復するうちに、目の前のイメージは経験の記憶と混ざり合い、自分と物語のあいだに意味が生成され続ける。“うつろいの状態”は、能動性を引き出す呼び水だったのだろう。強要されない意味をつかみとるのは、自らのリアリティでしかない。まぎれもなくこれは「あなたの物語」なのだ。
筆者はこれまで両手で数えられるほどの演劇しか経験していないが、この一連の体験を通じて静かに可能性を感じた。一般的な娯楽は、わかりやすさのために意味を強要することが多い。ジェットコースターのように感情を扇情し、カタルシスを提供し、消費される物語。同じ作品を観た主体が「あのシーンが良かった」と語り合う様子は、まるで同じ視点の答え合わせのようだ。それ自体は何ら否定すべきものではない。しかし、未来の不確実性が高まり、多数派によって支持されてきた普遍的な物語の懐疑が蔓延する中、個別の物語への過度な同調意識は、共同体間の分断を加速させることにもなる。“ままならない”今の時代にはむしろ、物語の消費ではなく、それぞれの違う視点を物語へと紡ぎあげる「物語る体験」こそ求められているのではないか?この問いに一つの指針を示すのが、この『プラータナー』で行われた「あなたのポストトーク」であった。
「あなたのポストトーク」は、1時間弱のプログラム構成で行われた。大きく分けて「グラフィックレコーダーによる演劇の記録を見ながら、舞台から受けた印象を棚卸しする時間」と「3人が一つのグループになって、舞台から受けた印象について対話する時間」であった。「棚卸しする時間」では、視覚的に抽象化された情報を媒介に、まずはそれぞれの物語を語る言葉を見つけていく。「対話する時間」では、「聴く人」「書く人」「語る人」に役割を分担し、他者を交えたガイドによって、それぞれの言葉を「あなたの物語」に紡いでいく。おそらくここで「私の物語」ではなく、「あなたの物語」と表現したところがポイントであろう。「あなた」という二人称の言葉を使う時、そこには必ず二つ以上の主体が存在する。このプログラムでは、自分一人では気づき得なかった物語を、他者を媒介にすることによって紡ぎ直すことを行なった。
先ほど筆者はこの「あなたのポストトーク」について、観劇と同じくらい、あるいはそれ以上に臨場感のある体験だったと表現したが、これは何も誇張した表現ではない。<いまここ>に「私たちの物語」が生まれていると感じたのだ。「語る」行為は、自分以外の主体が「聴く」行為によって受け止められることでしか存在できない。また「語った」物語は、「書く人」の主観を通してさらに記録された物語となる。「聴く人」「書く人」「語る人」が存在するからこそ生まれる物語。このプロセスに着目するのであれば、ここで語られた物語、ともに紡ぎあげた物語こそは「私たちの物語」と表現できるのではないだろうか?個人では気づきえなかった視点の交錯によって、世界がどんどん開かれていく。自分と他者が響きあい、物語が立ち上がる。「私たち」はたった3人であったかもしれない。しかしこの3人こそが、「私たち」の最小単位だったのではないだろうか。二項対立を超えた三者の対話。<いまここ>から生まれた新しい物語が、それぞれの主体によって複線的に生きられた時、「私たちの物語」は「私」をつなぐ、未来の兆しになり得るのではないだろうか?
観劇が「観る」行為であったなら、「あなたのポストトーク」は「聴く」「書く」「語る」行為であった。他者の物語を聴くことによって、開かれた世界に想像を巡らせ、今度は自らの語りによって、開かれた世界に物語を立ち上げていく。その一連の循環運動を行うことによって、「あなたの物語」が「私たちの物語」となり、さらには「私の物語」として共鳴を続けていく。正解を探る議論が前提であれば、多様性は分断にもなり得てしまうが、“うつろいの状態”を許容する巧妙な演出によって、多様性は解放され、可能性へと変わる。そして「観る」「聴く」「書く」「語る」行為を通じて、いつの間にか自分自身も制作者になっている。消費者でもなく、鑑賞者でもなく、物語を立ち上げる能動的な制作者。それは決して、個人のみで獲得できる体験ではない。自由な彷徨いが、分断を加速させるのではなく、共に紡ぎあげるプロセスを通して「私たちの物語」へと昇華していく演劇体験。そのような体験こそが、今こそ求められているのではないだろうか。筆者は『プラータナー』の演劇体験を通じて、そう強く感じた。
【関連リンク】
響きあうアジア2019 『プラータナー:憑依のポートレート』特設ウェブサイト
https://www.pratthana.info/
関連書籍情報(原作小説『プラータナー:憑依のポートレート』、公演記録集『憑依のバンコク オレンジブック』)※『プラータナー』特設ウェブサイト内
https://www.pratthana.info/book/
私たちは、ほの暗い「広場」に集まり、すれ違う ――演劇『プラータナー』参加型企画「あなたのポストトーク」に寄せて(noteウェブサイト)
https://note.mu/precog/n/n009287d8d6cc