共同芸術監督として:フィジカル・シアターカンパニーであり、アーティスト集団であり、自前のスペースでワークショップや公演なども行う“B-Floor”。バンコクの舞台芸術シーンをリードするカンパニーの実態とは?
中村:B-Floorは、日本で一番有名なバンコクのフィジカル・シアターカンパニーかもしれません。野田秀樹さんの呼びかけで始動した快快(FAIFAI)とのコラボレーション・プロジェクト(2010年@東京芸術劇場)のほか、2018年、2019年と連続して上野ストアハウスに作品が招聘されています。
しかし、B-Floorのメンバーそれぞれの活動や成り立ちは日本には伝わっておらず、B-Floorというと、もう一人の共同芸術監督のカゲさん(ティーラワット・ムンウィライ。同じく『プラータナー』にも俳優として参加)の印象が強い。ジャーさんはB-Floorでどんな役割を担っていますか。
ジャー:B-Floorは、いろいろな背景を持ったアーティストのコレクティヴと言う方が適切かと思います。私自身は作品によって、自分が俳優として出ることもあります。プロデューサーをやることも、演出を手がけることも、またドラマトゥルグをやることもあり、作品に合わせて様々な役割を果たしています。そして各メンバーもその作品ごとに役割を交替で負っています。共同芸術監督としては、資金集め、マネジメント、運営もやっています。さらに他のアーティストとの連絡、コーディネートもやっていますし、スペースの管理や会場探しなどもです。
中村:共同芸術監督のアーティスティックな面での役割は?
ジャー:カンパニーの方針を毎年決めることにも、もちろん携わっています。現在自分たちのカンパニーはどの位置にいて、これからどの方向に向かって進むのか、修正すべきか、について毎年決めなければいけません。ただ、共同芸術監督がこう考えるから、全員が従うということではないのです。まず話さないと。どのプロジェクトでも、こういうプランがあるのだけど、賛同するか、参加するか、をメンバーと話し合って、協働できる方向性について話し合います。例えば、今年の話し合いでは、自分たちの作品をバンコクだけではなくタイ国内の地方の県などでもっと観てもらいたいと言う意見が出て、それを方針として考えています。
中村:B-Floorが特徴的なのが、もちろんカンパニー自体に共同芸術監督としてカゲさんとジャーさんが立っているのだけれども、他のメンバーもコミットメントが高く、世代を越えて対等な関係にあると感じています。カンパニーとしての意識が高いレベルで構築されていることです。誰か一人強い主宰者がいて、その人の価値観を具現化する協力者がいるということではなく、他の方々も、各自がアーティストとして作品を発表し、それぞれに高く評価されていますね。B-Floor名義の公演でも、プーペさん(ササピン・シリワーニット、同じく『プラータナー』に俳優として参加)の作品の場合もあるし、ジャーさんの作品の場合もある、ヴィジョンを共有した仲間同士で、お互いの創作環境を支え合う相互扶助ネットワークでありながら、創作の質としてのB-floorブランドがしっかり認知されているようなところが、カンパニーの在り方として非常にユニークだと思うんです。そのようなカンパニーが出来上がっていった経緯についてお伺いしたいと思います。まず、創設の背景はどういうものだったのでしょうか。
ジャー:B-Floorの正確な設立年は実は正確にわからないのです。設立のきっかけとなったのが、20年ほど前の、バンコクのパトワラディー・シアター*3 で開催されたバンコク・フリンジ・フェスティバルでした。そのときに、クレッセント・ムーン・シアター*4 とか、International WOW Company*5 とか、インディペンデント系のアーティストとか、いろいろな人たちが集まってB-Floorが生まれました。そこでひとつ楽しい演劇作品を創りたいということになりました。ノンリニアな形式を実験してみたかったのです。それがかなり成功を収めました。観客からの反応もすごく良かったですし、楽しいじゃないかということで再演を行い、さらにもう2、3作品上演したりして、カンパニーらしくなって来たという感じです。そこから創設時のメンバーがいなくなったのが2008年、2009年ですね。2005年から2006年にかけては新しいメンバーも入り、その後メンバーの出入りがあり、2008年にさてB-Floorのメンバーは誰だということになり、団体としての形を設定しなおしました。そこから現在にいたります。メンバーも増え、今は10人ですが、創立時からいるのはカゲと私の2人だけです。
*3 パトラワディー・シアター
俳優、演出家、作家、Patravadi Mejudhonによって、1992年に創設された野外劇場。小劇場やカフェ、レジデンススペースを併設し、現代演劇を牽引した拠点。2011年に閉館。それに先立ち、フアヒンにパトラウアディー高校を開校、舞台芸術を教える。小学校の授業も行っている。
*4 クレッセント・ムーン・シアター
1969年タマサート大学有志により結成。現在も活動を続ける老舗の現代演劇カンパニー。
*5 International WOW Company
1996年に結成されたタイ、インドネシア、日本、米国出身の俳優とダンサーのグループ。
中村:20年前のパトワラディー・シアターのフリンジ・フェスティバルというと、例えばピチェ・クランチェンさん*6 が活動を始めたのもフリンジ・フェスティバルだったのではないかと思うのですが、その後、タン・フクエンさん*7 がディレクターになりましたよね。いずれにしても今はないパトワラディー・シアターは、20年前に現代演劇を牽引していたプラットフォームだったのだろうと想像できますが、その時の舞台芸術シーンの盛り上がりはどんなものでしたか?
*6 ピチェ・クランチェン
伝統の心と知恵を保ちつつ、タイの古典舞踊の身体言語を現代の感性へとつなげている。純粋な芸術的パフォーマンスを創造するため、そしてタイ古典舞踊の強靭なバックグラウンドを持った若いプロフェッショナルなダンサーを育てるため、ピチェ・クランチェン・ダンスカンパニーを設立。
*7 タン・フクエン
コンテンポラリー・パフォーマンスおよび美術の分野で活動するインディペンデントのカルチュラル・ワーカー。バンコクを拠点にアジアとヨーロッパで多くのプロジェクトを手がけている。2018年より台北芸術祭のキュレーターをつとめる。
ジャー:当時はかなり演劇界も活気があった時期だと思います。1995年はシアター28*8 やクレッセント・ムーン・シアターが活発に活動していて、その他にも小規模な演劇グループが生まれるような時期でした。セーン・アルン芸術文化センター*9 やいろいろなフェスティバル、パトラワディー・シアターも演劇グループのためのプラットフォームでした。その後、アジア経済通貨危機(1997年)が起きてバブルが弾け、だんだんその流れが消えていってしまいました。大きな劇場の一部は消えてしまって、シアター28のメンバーも徐々に演劇以外の活動をやるようになりました。
*8 シアター28
1985年設立。その作品の大半が、西洋の戯曲の翻訳あるいは翻案上演。『Hamlet; the musical』、『Galileo and Man of La Mancha』など。団員に、Euthana Mukdasanit、Rassamee Phaoluangthongなど。
*9 セーン・アルン芸術センター
バンコクのPlan Toys building (Sathorn 10 road)の5階にある。1990年代、演劇界で盛んに活動を展開していたが、その後経済危機によって縮小。2019年には再び活性化し、ウィチャヤ・アータマートの『Siamese Femme Fatales』や今年9月にはB-Floorの新作(演出 カゲ・ムンウィライ、今年9月上演) である『Trance』といった作品を受け入れている。
売春婦やLGBT、差別や格差による抑圧・貧困問題を扱うB-Floor設立当時のバンコク小劇場シーンとは?
中村:そんな当時、B-Floorの原型が立ち上がってきたということですけれども、その際に発表した作品はどんな作品だったのですか。
ジャー:その時にカゲと私が最初に作った作品は、『ミダ』です。これはジャラーン・マノーペット*10 という歌手の曲から、インスピレーションを得て作ったものです。ある田舎の村に住んでいる美しい未亡人が、村の若い男性に性行為を教えており、彼女の家に行くと、いつでも性行為をすることができる、という内容だったのです。その頃、騙されて売春婦にされる女性たちのことがニュースになっていて、女性の身体は本当に女性のものなのかどうかを問いたかった。ストーリーはありますが、セリフは少ないパフォーマンスで、出演者は13人から15人ぐらいで、多かったです。
2作目は、『えー、ヒットラーが私のピンク色の子豚のぬいぐるみを盗んだ』です。これはカゲがメインとなって作ったもので、チャーリー・チャップリンの白黒の無声映画の中の動きを真似ています。
*10 ジャラーン・マノーペット
歌手、ソングライターで俳優。タイ北部出身のすぐれた民謡歌手の1人として高く評価された。タイ北部の方言を用いた歌を作った。その数は200以上。
中村:映像作品ですか?
ジャー:舞台作品です。
白黒のパントマイムの映画をイメージして、コマが進むと人の動きがけっこう飛ぶような感じがありますが、それを舞台の上で再現しました。映画でのチャップリンの動きを、舞台で再現する形で創りました。10人以上が出演しています。
中村:昔から多いのですね。
ジャー:みんな暇だったので。(笑)
中村:性行為や売春がテーマとなると、一般的には語るのがタブーになっているようなことではないかと思うのですが、内容面や社会との距離感はどんなものでしたか?
ジャー:その当時の作品の内容は、たしかに売春婦やLGBT、差別や格差による抑圧・貧困問題とか、わりと多様性に富んでいたのですね。当時の小演劇グループは、そういうものを好んで作っていて、それが演劇の世界では一般的なテーマでした。例えば、マカンポン・シアター*11 や、モーラドック・マイ[新しい遺産]*12 みたいな劇団や、私たちよりも先輩のシアター28も。彼らは外国の脚本やお話を舞台化したりもしていました。そういう作品は社会的なテーマを語っていましたね。特に社会から批判的な意見をもらったという記憶はありません。ただ観に来てくれていた観客が少数で限定された集団でした。その当時タイでは、舞台芸術や演劇がまだよく理解されていない状況だったと思います。
*11 マカンポン・シアター
民主化運動が盛んであった1970年代から演劇活動始動。様々な問題を抱えるコミュニティで、地域の問題に焦点を当てる。
*12 モーラドック・マイ[新しい遺産]
Chonprakan Junreungにより1997年に設立された劇団。バンコク中心部に拠点をおいていたが、現在はPratumthani地方へ移転し、舞台芸術を主に教えるホーム・スクールとして独自のプログラムを実施している。
中村:例えばヒットラーやチャップリンというと、「独裁者」という言葉をイメージします。それは具体的にタイの権力構造に状況に言及しているという風に受け取る人もいると思うのですが、そういった社会的メッセージに対して批判的な声はありましたか。
ジャー:自分が知る限りではなかったと思います。もしかしたら、気付いていなかったと言った方がいいのかもしれません。その当時はSNSのような、すぐに観客からのフィードバックが得られるものがなかったし、好き勝手言ってるよくわからない小集団だと思われていたのかもしれません。(笑)
中村:その当時、ジャーさんご自身は、社会の抑圧の中で表現が制限されていることへのフラストレーションがあってこういった政治的なテーマを語っていたのですか?
ジャー:そのことに自覚的であったのではなく、実は無意識のうちにタイ社会に抑圧されていたのではと、今になってそう思います。なぜかというと、当時タイでは貧困が社会問題となっていて、実際にお金が欲しくて自分の臓器を売って死んでしまうような人の話も聞くような時期だったので、私の作品では、工場で働いていて、病んで、資本主義から逃げようとする男の物語を作りました。自分の臓器を売って病院に行くシーンも、その作品に織り込みました。チャーリー・チャップリンの「モダン・タイムズ」でいうところの独裁者のような、工場主の帝国から逃げ出すみたいなプロットでした。当時、自分たちのいる状況を考えていくと自然とこのような社会的テーマに興味をもっていったのだと思います。自分たちで語ることのできるテーマでした。
中村:その後1997年にトムヤムクン経済危機があって、演劇シーンの流れが変わっていったということでしたが、その当時の状況について教えて下さい。
ジャー:はっきり変わったことがありました。トムヤムクンの前は、たとえばクレッセント・ムーンのような演劇のカンパニーは、会社員のようなある程度良い待遇がされていてスポンサーもいたのですね。月給制とか、稽古があるときは朝8時出勤で夕方5時までとか。でも、トムヤムクンの後はスポンサーが全くいなくなり、セーン・アルンのような劇場も閉じてしまって、そこで活動していたアーティストたちもフリーランスのような働きかたに変わっていきました。カンパニーは自分たちで資金を調達し運営しなければいけなくなりました。俳優たちは演劇を続けるために他の仕事をする、小規模グループと小作品がとても多くなり、大きなプロジェクトや作品はあまりなくなったと記憶しています。
中村:会社員のように待遇のよい劇団環境があったとは想像できないですね。B-Floor自体もそういう環境の中で創作していたのですか。
ジャー:B-Floorは月給制ではなくて、フリーランスの人が集まっているような感じでした。会社員のような待遇を受けているのは、クレッセント・ムーンのような一部のカンパニーです。そういうところは大きなカンパニーのスポンサーが付いていました。パトラワディー・シアターも月給制でした。