「ベトナム進化形~ベトナム映画に何が起こっているのか?」現地レポート

Report/第26回アジアフォーカス・福岡国際映画祭

検閲とクリエイティビティ ―芸術映画―

ハインやズンなど、主に商業映画の製作者が南のホーチミンを拠点とする一方、北のハノイではインディペンデントな制作体制のもと、芸術性の高い映画を作る映画人が存在する。なかでもファン・ダン・ジーは、ハノイの映画学校を卒業後、政府機関の映画局に勤務していた異色の映画監督だ。在勤5年のあいだ、彼はベトナム映画の歴史や現状を直に把握しつつ、検閲対象となる作品の傾向と対策など、検閲制度そのものに対する理解を深めていったという。

ファン・ダン・ジー:検閲といった決まりごとが法律の中で定まっているからこそ、自分たちの理知が試されるような映画製作が可能になるのだと思っています。たとえば、性的もしくは暴力的な描写があった場合、その場面は映画局の検閲委員会によってカットされます。しかし、作品のポスプロを海外で行えば、検閲の対象とはなりません。こうしたやり方や考えは、私が映画局時代に得たさまざまな経験に基づいているのです。
シンポジウムで語るファン・ダン・ジー監督の写真

2006年に映画局を辞めたのち、ジーは独立した個人による映画製作へと身を転じていく。それは映画製作の中心が国営から民間プロダクションへシフトしたことで、個人会社の設立や国内のほかの映画会社との協力、さらには海外の資金援助を通じて、芸術性の高い映画を製作することが可能となった時期でもあった。ハノイの彼らはこうした可能性を踏まえ、国内だけでなく海外の映画祭へ自身の活動基盤を展開するようになる。たとえば本映画祭で上映された『どこでもないところで羽ばたいて』(2014)のグエン・ホアン・ディエップ*2 は、ジーと同様にハノイを拠点とした映画人で、ヴェネツィア、トロント、釜山など国際映画祭への出品を果たしている。少し上の世代には、『癒された地』(2006)や『漂うがごとく』(2009/本映画祭にて上映)のブイ・タク・チュエンが、政府と海外双方の支援を受けた映画製作を展開しており、国際映画祭への出品をはじめ、数々の受賞経験を持った監督として知られている。しかし、このような芸術性の高い作品が、今後もベトナム国内で作られ続けることは可能なのだろうか。ジーは今の状況を冷静に分析し、今後の展望について語る。

*2 「アジア・フェローシップ」でベトナムのLGBT映画事情を調査した秋田祥さん(Normal Screen主宰)のインタビュー記事に詳しい。

ファン・ダン・ジー:どんな社会においても、私たちのような映画がつねに多くの集客を見込めるわけではないと思っています。今は良くてもいつか立ち行かなくなるかもしれない。芸術家のクリエイティビティなんて、予測不可能だと思うんです。だけど今の社会であれば、私たちの映画はこれからも作り続けることができるし、きっと数も増えるだろうと信じています。そのためには国内の検閲がベトナム映画自体を支援するためのシステムにならなければならない。それは検閲がよりオープンになって初めて、ベトナムの多様性や若い世代の才能が守られ、新たな作品も生まれてくると思うからです。そして、ここにいるヴィクター(・ヴー)や(グエン・クアン・)ズンの面白い商業の企画も含めて、検閲が映画全体を支援するようなシステムになってほしいですね。

進化形の到来 ―越僑映画―

2000年代半ばに差し掛かると、ベトナム映画界では「越僑」と呼ばれるハリウッド的なジャンル映画の手法を踏襲した新世代が頭角を現す。越僑とはベトナム戦争を機に欧米諸国へ出国したのち、国内への帰国を果たした在外ベトナム人たちのことだ。本シンポジウムに登壇したヴィクター・ヴーはその二世で、そのほかに『ホイにオマカセ』(2014)の監督を務めたチャーリー・グエン、『やさしいあなた』(2014)のレ・ヴァン・キエト、また同作品の主演俳優で、自身の監督やプロデューサー業もこなすダスティン・グエン、プロデューサーで女優のゴー・タイン・ヴァンなどがベトナム映画界の新たな旗手として注目を集めている。2000年代にアメリカから帰国したヴーは、当時のベトナム映画界と現在の状況を比較する。

ヴィクター・ヴー:私たちが体験した映画界の変化は、まるで夜が昼に変わったかのような衝撃でした。ベトナムへ戻った当時は、年間の製作本数が5、6本で、上映も大きな映画館に限られていました。ところが昨年の製作本数は50本を越え、来年は60本以上の新作が公開されるそうです。製作本数の増加は、映画館の数にも比例していると言えます。
シンポジウムで語るヴィクター・ヴー監督の写真

長く続いた不遇の時代から脱却し、急速な近代化へと歩みつつある現在。その時代の変化を象徴するのが、本映画祭で上映されたヴィクター・ヴーの『スキャンダル』(2012)と『緑の野に黄色い花』(2015)だ。『スキャンダル』が富にまみれた華やかな芸能界の舞台裏を描くサイコスリラーである一方、『緑の野に黄色い花』は1989年の小さな農村で暮らす子どもたちを瑞々しく描いている。時代設定や物語のジャンルこそ異なるが、ふたつの作品に通底するのは、これまでにベトナムが辿ってきた「貧しさ」にあったとヴーは語る。

ヴィクター・ヴー:『スキャンダル』は貧しさからの脱却を図るために、危険を冒してまでもその行動に執着してしまう人物たちを描いています。一方『緑の野に黄色い花』で描かれているのは、決して豊かとは言えない境遇にある子どもたちの無邪気さや無垢な視点です。実際にこのことは現在のベトナム映画界にも言えることで、昔と比べてひとつのプロジェクトにかけられる製作費も増えていますし、映画全体のクオリティも格段に高くなりました。そのことで私たちは、自分の描きたいジャンルや、オリジナリティで勝負できるようになったのです。急速なスピードで変わっていく映画界に多少の不安も感じますが、結果としてこれらの変化は映画のジャンルを多様化させました。つまりこのことは、貧しさからの脱却でもあるのです。