コロナ禍でのマラヤーラム語の出版事情―A. V. スリークマール

Report / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(インド)

マラヤーラム語は、1956年にトラヴァンコール、コチおよびマラバール地域がケララ州として統合されるまで、民衆の間の口語であった。インド全体で言語の区分に基づく州ができたとき、マラヤーラム語話者の州は文化的にも統一され、ケララという名前で成立した。州の誕生以前のマラヤーラム語を話す人々のアイデンティティは、新聞、定期刊行物や書籍といった印刷媒体の拡がりを通して存在していた。言い換えれば、印刷物や書籍は、マラヤーラム語話者のアイデンティティ形成において大きな役割を担っていたのである。

インドが独立する2年前である1945年、P. N.パニッカー(P. N. Panicker)が代表を務める全トラヴァンコール図書館協会(All Travancore Library Association)は、新たな図書館の設立を試みた。その取り組みは、コチとマラバール地域へも拡大し、本の出版と普及が新たな段階へと到達した。ケララが州として誕生すると、図書館協会はケララ州図書館協議会(Kerala State Library Council)へ改組された。読書文化と州内の識字能力向上を促進するにあたって、ケララ州図書館協議会と書籍が重要な役割を果たした。この功績が称えられ、1975年にケララ州図書館協議会はユネスコ・クルプスカヤ・リテラシー賞(UNESCO Krupskaya literacy prize)を受賞した。現在ケララには、8千の付属図書館といくつかの私立図書館があり、この他にも千を超える高等教育機関、1万5千以上の学校図書館において学術図書館が稼働している。

これらすべてを通じて発展してきた読書文化が果たした基盤的な役割により、マラヤーラム語話者は知的・文化的に高められてきた。インドの他の州と比較しても、人々のグローバルな視点、社会化、生活水準においてケララが高い地位にあるのは、すべてこの読書文化のおかげである。ケララ州成立初期には予算の50%近くが教育に充てられ、地方の図書館を助成するための基金が設けられていた。今日でも地方の図書館と読書室を支援するために、地方自治体によって財産税と共に特別図書館税が徴収されている。

およそ100社のベンチャーの出版社が、現在ケララで稼働しており、毎年3千冊以上の本が出版されている。そして、その3倍もの数の本が再版される。新刊は平均して千部から3千部印刷され、ベストセラー作家は5千から1万部を販売する。これらの本は数百件の書店、オンラインストア、ケララ中の学校やカレッジ・大学の図書館を通じて読者に届けられている。

ケララが高い購買力を持つ消費者社会となってきているとともに、マラヤーラム語話者には図書館に頼らずに、本を買うという習慣が定着しつつある。

ケララでは出版分野で多くのイノベーションが起こっている。DC Booksの創設者であるD. C. キザケムリ(D. C. Kizhakemuri)は、多くの革新的なスキームを駆使して市場改革を行った。同氏は作家、出版者、自由を求める闘士であると同時に、作家のために作られた作家による団体、Sahitya Pravarthaka Cooperative Societyの共同創設者でもある。

イノベーションの1つが「出版前プロジェクト」である。このスキームでは、平均3千から5千ページのボリュームで複数巻からなる本を出版前に広告し、個人の購買者に欲しい本を事前予約する機会を提供している。このスキームを使うと、希望小売価格より30%から40%安く購入できるので、多くの読者を惹きつけることが可能だ。平均して、ケララではこのようなボリュームのある本が毎年少なくとも5~6冊制作され、小売客はこうした高額な本であっても自分の蔵書に加えることが習慣となりつつある。このような本は出版に先立って、5千から3万部もの 販売需要がある。

インドにおけるペーパーバック革命は1950年代、キザケムリ氏が小説を1冊あたり1ルピーのコストで1万部印刷したことから始まった。

さらに、ブッククラブ、ブックバザール、識字率の向上、中央政府への本の付加価値税の撤廃への働きかけなども、氏による主な革新的な功績である。

ブックフェアは、ケララの書籍産業のもう1つの特徴である。小さなケララ州の各地で100を超える数のブックフェアが毎年開催されている。このようなブックフェアでは、何万冊の出版物が展示・販売され、5日から15日間の会期で何十万人もの読者が参加する。このほかにもケララ州図書館協議会はここ数年、州内の各地域でブックフェアを企画し、図書館が本を調達・購入できるよう、マラヤーラム語のすべての出版社の本を展示している。ケララ州政府が年に1度、中心部にある学校のために同様のブックフェアの開催を率先して行っていることも注目したい。

文学フェスティバルも、ケララの読書分野の特徴の1つである。DCキザケムリ財団(DC Kizhakemuri Foundation)の後援によって2016年に開催されたケララ初の国際文学フェスティバル、ケララ文学フェスティバル(Kerala Literature Festival)以来、これまでさまざまな団体により毎年少なくとも3つの文学フェスティバルが継続して開催されている。これらのフェスティバルには、文学、芸術、科学の分野に関心を持った10万人もの人々が参加し、本はフェスティバルの重要な役割を果たしている。

21世紀初頭に携帯電話が普及し、インターネットを通じた情報技術によって世界が一つになったにもかかわらず、さらには近年のパンデミックの時代においてさえ、本がマラヤーラム語話者にとっての経験と知識を高めるという地位を失っていないことは特筆すべきである。新聞や定期刊行物の読者数は激減したが、本はその影響を受けず読者数を伸ばしている。バシール(Basheer)、O. V.ヴィジャヤン(O.V. Vijayan)、マダヴィカティ(Madhavikutty)、パドマラージャン(Padmarajan)、M. T. ヴァスデーヴァン・ナーヤル(M. T. Vasudevan Nair)といった著名な作家の作品は、若い新たな読者を常に引きつけている。若い読者は、ニュース、知識、データを得るためには活字メディアよりも情報技術や現代メディアに頼っており、重要な経験や知恵の世界を拡げるためには、時として本をデジタル形式で使うこともある。しかし、こうした新型コロナウイルスの時代においても、印刷された本はその他のメディア以上に多くの読者に支持されたのである。

過去10年間で発展したものは、ポスト真実、ポストヒューマン、超現実、人工知能やデジタル化の時代においても繫栄し続ける。本もまたデジタル形式に拡大し、電子書籍やオーディオブックが普及した。それでもなお、読者の世界では印刷された本が優勢であるようだ。知識、情報や経験を深く吸収するために、読者たちは依然として印刷された本に大きく依存している。前述の「出版前プロジェクト」を通して出版されるボリュームのある大型本は、いまだに好評である。

新型コロナウイルス感染症が拡大し、世界中の多くの地域で自己啓発のジャンルがベストセラーの上位のタイトルとなっていた時、ケララでは新型コロナ前の時期と比較してフィクションが多く読まれ、ベストセラー作家の人気が高まり、彼らの最新作が多く売れるようになった。「小説」というジャンル自体は、犯罪小説や高級市場向けフィクション(Upmarket Fiction)からさらに下位区分へとさまざまに発展し、近年人気が高まりつつある。最近では高級市場向けフィクションという名に言及せずに、文学的で大衆受けする小説がマラヤーラム語で広く出版されている。同様に、この18か月以上にわたって、マラヤーラム語の読者の多くは、古い捜査小説のあらすじを重要視して人気のあるスタイルで表現するのではなく、現代の科学技術に依拠して登場人物やプロットに文学的に等しい価値を置く犯罪小説を支持している。

いくつかのベストセラーの文芸小説の中で3か月で1万2千部、または半年で3万部を売り上げたタイトルや、2、3か月で1万5千から2万部を売り上げた高級市場向け犯罪小説はこうした事実を裏付けている。本の世界では小説が優れているという評価を獲得する一方で、自伝や体験記、回想録といったカテゴリーの本が幅広く読まれている。同様に、歴史、政治およびスピリチュアルジャンルやモチベーションを高めるような本もまた勢いづき、読者数を増やしている。

世界中で感染が収束すると、あらゆる市場部門に影響が及んだ。感染収束は書店にも好影響を与え、オンライン市場で書籍の売り上げが好調であるということは特筆すべきである。書籍のオンライン市場は400%から500%の成長を遂げた。同様に自粛期間はまた、読書を促進する期間でもあった。この期間の主な特徴として、過去には読書の習慣があったものの、多忙な生活によって読書の習慣が途切れてしまっていた人が、再び読書をするようになってきたことに着目したい。ケララでは、まだロックダウンが敷かれていた2020年にも書店の営業が許可されていた。こうしたロックダウンの中でも、本を生活に不可欠な要素として見なしたこの決定は、マラヤーラム語話者の日常生活の中における読書の重要性を表している。これにより、ケララ州の出版業界および作家たちの生活が救われただけでなく、州の新たな読書のトレンドが蘇った。感染拡大によるロックダウンの最中、フードデリバリーアプリであるゾマト(Zomato)を通じて本を読者に届けるといった、多くの革新的なアイデアが適用された。

読書および購買習慣に大きな変革が起こっていることが確実である一方で、1つ確かなことがある。それは、本は今後も必需品であり続け、感染拡大によって出版社が手頃な値段、簡単に利用できる形で読者に本を届けられるということを実証したことだ。

さらに注目すべきなのは、現在の書籍市場が、市場の回復を受けてこれまでになく好況であるということである。この市場のもう1つの特徴は、かつては図書館がより多く本を購入していた事実に対し、個人の購買力が顕著に向上したことで個人によっても多くの本が購入され、各家庭の書斎に積み上げられているということである。

こうしたすべての点は、生活のあらゆる分野を変えるデジタル化が進む未来においても、本がその地位を失わないことを示している。さまざまに進化し、革新的な形態となあっても、読書は間違いなく人間の生活に欠くことができない要素であり続けるだろう。

新型コロナをきっかけに、各書店は、印刷物を通じた広告に代えてソーシャルメディアを用いた販促を行ったが、今やこちらが主流となりつつある。オーディオブックは感染拡大中に人気を集め大きな成長を遂げたが、それによって印刷本の販売数も増加している。電子書籍は勢いを増し、新型コロナウイルスのピーク時には最も安全な手段であるとして、読者はしばらくの間電子書籍に切り替えた。マラヤーラム語圏の大手出版社であるDC Booksは、ロックダウンが始まった頃に1日あたり7万5千人近くの顧客を獲得した。それは、特定の日に無料でダウンロードできる電子書籍を読者に提供するようになったことによる。オンライン販売は、感染拡大中に驚異的な成長を遂げ、ほとんどすべてのマラヤーラム語の出版社が自社のオンラインストアや大手オンラインストアを使用して刊行物の販売を行うようになった。


A. V. スリークマール
DC Books編集長。1965年ケララ州トリシュール地区生まれ。トリシュールのセント・アンソニー高校(Saint Anthony's High School)を卒業後、キリストカレッジイリンジャラクダ校(Christ College Irinjalakuda)、スリー・ケララ・ヴァルマカレッジトリシュール校(Sree Kerala Varma College Thrissur)を卒業。カリカット大学(University of Calicut)およびデリー大学(University of Delhi)を修了し、マラヤーラム語文学の修士号、研究修士号を取得。マラヤーラム文学批評におけるマルクス美学の応用に関する研究修士論文を発表。『1960年代以降のマラヤーラム詩の変化』というタイトルの、デリー大学の博士論文は未完のままである。