『喪失ではなく、学びの時』 ベンヤミン/森本美樹 訳(翻訳協力:株式会社トランネット)

Essay / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(インド)

喪失ではなく、学びの時

時が失われたわけではない。今こそ学ぶ時なのだ。

魅力にあふれるこの世界を楽しむべく与えられてきたはずの限りある人生から、1年半という時間を奪われてしまったと、多くの人が感じている。ほとんどの人が、家に閉じ込められて虚しくなり、退屈へと追い詰められた。私たちは現代のテクノロジーによって、バーチャルに人と会ったり、会議を計画したり、新刊書や書評をオンラインで紹介したり、ネット配信で映画を観たり、電子書籍を読んだりできる。それでも虚しさに飲み込まれてしまうと感じるならば、もしもこのパンデミックが25年前に発生していたら、と想像するといい。ソーシャルメディアやインターネットがまだ一般的でなく、伝達手段としては、手紙を書くか、長距離電話を申し込んで、接続されるのを待つしかなかった時代。そんな時代に家に閉じ込められたらどんなに孤独だったか、真剣に考えてみるべきだ。パンデミックが、これら現代技術が確立された後で良かったと、コロナウイルスと自然界と宇宙に感謝しなければならない。

インドで最初にコロナウイルスが確認されたのは、私の住むケララ州だった。ウイルスの発生源だと疑われている中国の武漢から、3人の医学生が症状を訴えてケララに戻り、のちにコロナウイルスへの感染が確認されたのは、2020年1月30日のことだった。ちょうど世界中でコロナが騒がれ始めたころだ。我々はよく、インド亜大陸に入ってくるものはすべてケララを通って入ってくる、と冗談を言う。ユダヤ人、ギリシャ人、中国人、アラブ人、キリスト教もイスラム教もヨーロッパ人も共産主義も。そしてコロナウイルスも、まずはケララに上陸した。

そのウイルスについて、またその感染力の強さについて、まだ誰も知らなかった。わかったのは我々を襲う何か危険なウイルスが上陸したという事実だけだ。我々はパニックになった。たった1年半前にニパウイルスで恐ろしい時を過ごしたばかりだったのだ。周到で効率的な医療制度のおかげで、大打撃になる前にニパウイルスを食い止めたが、それでも短期間に17名の死亡者を出した。コロナが発生したときには、まだニパウイルスの恐怖の波が収まっていなかったため、人々は用心深い行動をとった。インドの中でもケララは、人々が自発的にロックダウンを遵守し、警察の取り締まりを必要としなかった州の1つだ。教育水準や社会意識が高く、医療制度が整っていたことが幸いしたのであろう。それだけではない。ケララ出身の看護師たちは、世界中の国々で医療に従事している。パンデミックが発生すると、彼らのほとんどがコロナ患者に対応した。初期の段階でコロナウイルスが広まったアメリカやイタリアで働く看護師たちは、ショート動画や涙声のボイスメッセージを通して現地の様子を伝えてきた。それらによって、病院には患者が押し寄せ、人工呼吸器が不足しているため患者たちは酸素を求めてもがき苦しんだ末に命を奪われ、友人や家族から隔離されて孤独に死んでいき、遺体は地面に掘った大きな穴に埋葬されていると知った。これらの事実は我々の恐怖心をあおり、用心深い行動を促した。

ケララ州は、無料で食料を配布し、患者の感染経路を追って濃厚接触者を隔離し、他州にいるケララの住民を呼び戻し、出稼ぎ労働者たちを地元に帰らせた。地元に戻れない人々のためには炊き出し所を設置するなど、抜かりない対策を講じた。こうした行政の努力は、国際機関や世界中のメディアから称賛された。この努力により、1日当たりの感染者を10人未満にし、ウイルスによる死亡者をゼロに抑えた。

同時に、インドの労働者たちが食料も水も自動車もなく、500から800キロメートルを歩いて自分の村に帰っていく様子が世界で報道されていた。ケララでコロナウイルス感染者が急激に増えたのは、国際線のフライトが再開した時期と重なる。他の州で一気に蔓延したウイルスが、ケララではじわじわと広まり、我々はインドで最長のロックダウンを経験する羽目になった。こうした長期のロックダウンが人々に与えた明白な影響、あるいは目に見えない影響について、踏み込んだ調査はまだ実施されていない。予期せぬ家族の死、失業、経済危機、孤独感や孤立が生む気分の落ち込み、退屈、アルコール依存、薬物乱用、ソーシャルメディアの多用。ソーシャルメディア上で見知らぬ人と出会い、そうした人間関係が生む精神的負担。家族内での言い争い、離婚、子供たちにもたらされるストレス——これらは、ロックダウンが人々に及ぼした影響の、一部の例にすぎない。ケララ州の人口の3分の1は国外で労働し、そのほとんどが湾岸諸国に居住しているが、経済危機により雇用が減ったため、結果として大量の労働者がケララに帰ってきた。この事実が及ぼす社会的影響は、時間が経ってから現れるであろう。今、耳にするのは、ありとあらゆるキャンセルのニュースだ。飛行機も列車もバスもキャンセル。すべての計画は白紙に戻され、フェスティバルも、結婚式もキャンセル。試験も選挙もキャンセルされた。けれど、そんな今こそ、我々が生活、社会、および社会構造を分析し立て直すべき時だ。地球とそこに生息するあらゆる生物を征服していると自惚れていた人間は、こんなに小さなウイルスにも立ち向かえない弱々しい存在だったのだ。人間が地球上で優勢となり、支配的地位を築いたのは、人間だけがもつ創造力と、人間同士の連帯感の賜物だと知った。また一方で、自分本位な態度をあらため、社会全体に対し責任感を持った行動をとらない限り、人類の滅亡を招きかねないことも学んだ。自然は人間のために作られ、人間が楽しみ、欲求を満たす目的で活用し搾取するためにあるという子供じみた考えをもつ人間が、一定数存在する。我々は感謝の心を持たず、罪作りな態度で地球上に暮らしてきた。丘を切り崩し、森林を伐採し、河川を汚染し、プラスティックなどの固形廃棄物をまき散らし、有害物質を海に垂れ流して自然界を汚してきた。地球は人類のものだと何の根拠もなく信じきって、このような行いをしてきた。

エッセイのイメージイラスト画像
イラスト:サミア・シン

大自然、そして我々を取り巻く現在の状況は、人間が地球のルールに従ってこそ地球上で生き続けられるのだと教えてくれる。そして、人間は地球にとって不可欠な存在ではなく、人間無しでも地球上の他の生命体は存続し、自然が人間を必要なのではなく、人間が自然を必要としているのだと。過去には、人間よりもずっと強壮な生物が地球上から絶滅した。そして人間だけでなく、ミミズもチョウもヘビもトカゲもゾウもリスも、等しくこの地球上に住む権利がある。我々は、そんなに慌ただしく生きる必要はないのだと学んでいる最中だ。人間はきらびやかでなくても生きていける。大勢の客を招く仰々しい結婚式は必要なく、家族が亡くなったときに会いに来てくれるのは、ほんの一握りの親しい人でいい。家に居ながらにしてデモにも参加できるし、祈りをささげるために礼拝堂に行く必要もない。ものごとを決めるのに顔を合わせる必要もないし、勉強も試験を受けるのも在宅でできる。これらに考えをおよばせ、今のこの時期は失われた時なのではなく、貴重な学びの時なのだと知るべきだ。

パンデミックは、生活や健康の保障はお金で買えるという常識を、根こそぎ変えてしまった。現代の医療制度は、この間違った常識の上に成り立っている。今回のパンデミックは、あたかも富裕層の頭上に落ちた雷のようだ。彼らは、医療設備の充実した総合病院で定期的に検査を受け、体重を測ったり身体測定をしたりして、万が一問題が見つかったら保険を利用して高額の治療を受ければいいと高をくくっていた。しかし、パンデミックは人々の医療に関する概念を無効にした。個々人の治療や医療保障の問題ではないのだ。必要なのは、共同体全体の健康保障だと気づかされた。人間は社会的な存在であり、我々の健康はコミュニティの健康あってこそなのだと実感した。コミュニティとは、身内だけでなく、国家全体、世界全体を意味する。地球上のすべての人に治療とワクチンがいきわたるまで、1人1人の安全は保障できないのだと意識してはじめて、我々は従来の健康の捉え方が自己中心的で反コミュニティかつ反自然主義的であったと気づく。私はこの考え方が、競争に根差した社会から協調に根差した社会へと人間を導いてくれるのを願う。ついさきごろ、そんな社会が訪れる予感のするできごとがあった。ある子供の命を救うための薬に1億8,000万ルピーが必要だという報道があり、1週間でその資金が集まったのだ。責任ある慈善活動を通じて協調の精神へと意識転換が起きている証だ。

コロナ禍前とコロナ禍後で、確実に時代は変わる。以前の生活が戻ったとしても、コロナ禍で身についたいくつかの習慣は残るのではないか。人間はパンデミックに、短い時間で順応した。コロナ禍が長く続こうと続くまいと、今後も何年かはソーシャルディスタンスを確保しマスクや消毒剤を使い続けるに違いない。我々は公的な会議や職場の会議、文学討論や記念講演を、オンラインで行う快適さを経験してしまった。快適さを実感してしまった以上、もとには戻れない。コロナ禍で、それまで場所を移動するために使われていた膨大な時間を節約できた。企業は今後、移動や宿泊にコストのかかる出張を廃止するだろう。デジタルツールを取り入れた教育によって、理論や公式、定義、図表はより理解しやすくなる。初等教育の登校は続いても、高等教育ではまったく形を変えるのではないか。オンライン形式のリモート教育は、ますます重要になる。学生たちはオンラインで海外の大学のプログラムに参加できるようになり、自宅に居ながらにして学べれば留学費用の節約になる。

職場環境も革命的に変化すると思われる。すでに自宅が仕事をする場へと変化を遂げた。このような変化は、会社にとっても従業員にとっても好都合であると証明され、今後も続いていきそうだ。新しいビジネスの立ち上げを夢見る若者たちは、オフィス・パークのほんの小さなスペースの賃料が途方もなく高額で希望を失ったものだった。だが、在宅で仕事ができるようになれば、張り切るに違いない。従来ならば、まず人々の意識に変化が芽生えたうえで10年がかりで確立するような社会の仕組みが、コロナ禍のおかげで構築されたのだ。

パンデミックの最中、アートや文学はどうなるかという疑問が当然わいてくる。家にこもり、書く時間が増えると多くの人は言うが、退屈は創造力を殺してしまう。しかし創造力はいつか必ず開花する。歴史がそれを物語っている。どの暗黒の時代も、一流のアート作品や文学を生み出しているのだ。偉大な文学作品が、ペストや天然痘やコレラやスペイン風邪の流行をもとにして創作されている。だから、コロナ禍に関する文学もきっと生まれる。それは単に今という時代を記録しただけの作品とはならないだろう。すでに『武漢日記』やドキュメンタリー、ソーシャルメディア上の実況など、複数の形態のメディアが、後世に残すために事実を忠実に記録している。フィクションは記録のために必要なのではない。文学作品が焦点をあてるのは、人間がコロナ禍をどう受け止めたか、コロナがいかにしてパラダイムシフトをもたらす人生の教訓となったか、そしてこれらを経験した世代がどのように未来の人々の手本や模範となるのか、といったテーマになるのではないか。類まれな人生観や社会的意識、歴史的意識をもった作家たちが、これらを後世に伝えてくれるに違いない。今、この時点で世界を見わたすと、つまりこの時代に視点を限定すると、我々はこの困難な時代を生き抜く中で不安や失意に飲み込まれそうになる。しかし人間の歴史を振り返れば、伝染病や危機、戦争や自然災害など、もっと暗い時代をも乗り越えてきたのだと気づく。今ほど科学が進歩しておらず、自然界の謎も解明されていない時代に、人間は勇気と社会意識をもち、お互いに協力し手を取り合って危機を乗り越えた。今回もきっと、人々が団結し手を取り合った物語が紡がれる。その物語は、どのように我々が危機を乗り超えたかを後世に伝え、将来発生するかもしれない惨害に立ち向かい乗り越えるための助けとなるだろう。我々が過去の物語から現在の危機を乗り越える方法を学んだように。それがアート作品や文学作品の使命なのだから。


日本語訳は英語からの重訳