タイ社会における「読む」ことの神話―プラープダー・ユン

Report / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(タイ)

「読む」という言葉が、はっきりした文脈を与えられずに使われると、神話的とも言える幻想を生んでしまいがちだ。特にそれが「社会」という言葉と並べて使われるときには。

「読む」ことは、「文学書を読む」ことと間接的に結びつけて考えられることが多い。おそらく、読むという行為が垂直方向の(上から下に降りていくような)生まれをもっているからだ。印刷という産業が拡大して本の値段が安くなった時代に、上流階級のものが中産階級のところに降りてきたというわけだ。かつて本は、ほとんど神聖なものとしてすら扱われていた(そもそも、権力者の財産として宗教の聖典を作るところから「本」が始まったからだ)。けれどもそれが生活に困らない人々の「娯楽」になると、位置付けも変わった。歴史のある一時期においては、読書をするひとが、夢見がちで無意味な行為に時間を費やしていると非難された。テレビを見たりゲームをしたりする現代人が、非難されるのと同じように。それからこんどは「作家」が、社会の思想的指導者たる知識人としての立場を獲得する。すると読書の位置付けも変わり、蒙を啓く行為に、「教養人」が常におこなうべきものになった。本をたくさん読むひとは、明敏で、本を読まないひとよりも世界のことをよく知り、理解していると解釈された。この言説と神話が、こんにちまで息づいているのだ。

だから「読む」ことについて話すときに、その行為の意味は、どんなものでも読む、というところまでは拡張されない。そこで意味されるのは、価値ある本を読む、ということだけだ。たとえ毎日、どんなときでも読み続けていたとしても、それがマンガや、娯楽誌や、あるいは現代のソーシャルメディアであれば、「本当に読んでいる」とはみなされない。たとえ、文学書やそれ以外の本を読むのと変わらないくらいの効用をもたらしてくれるとしても。

本を読む人たちの写真
© CHALIT SAPHAPHAK

「読む」という言葉の定義が、限定されたものになっている。こうなると、紙の本、特に文学的な内容をもつもののおもな購買層が、いまだに知識人や中産階級以上の人々であるような国では、読むという行為はだんだんと好まれなくなる。いまやほとんどすべての階級の人々が簡単にインターネットに接続できる。ネットでコミュニケーションをとり、ネットから情報を取得するという状況は拡大し、どんどんと普遍的なことになっている。インターネットにも莫大な数の「本」が存在するし、印刷された紙の本と変わらないような、小説、短篇、詩といったさまざまな形式の作品が読めるウェブサイトもある。それでもなお、インターネット上で「読む」ことは、ふつうの本や文学書を読むことに比べて「真剣ではない」行為だというイメージをもたれている。

タイ人の多くが、タイ社会は読むことを好まない社会だと十把一絡げに考えている。けれどもそんな考えと撞着するのが、書店と出版社の数だ。国民の大部分がいまだに貧しく、本を買うのがぜいたくだとみなされる国にしては、その数はけっして少なくない。デパートがいまほどの数はなかった時代でも、国内のほとんどあらゆる市場に新聞、雑誌、マンガ、それにラブロマンス小説を売る書店があった。それから、国内経済が全体としては向上して、出版ビジネスに乗り出す人間も増えてくると、「路面店(スタンドアローン)」と呼ばれる書店がたくさんオープンした。多くは自ら出版社や印刷所を経営する企業が開いた書店で、アマリン社のナーイ・インやシー・エデュケーション社のシー・エッドが挙げられる。とにかく、タイ人は本を読まないという思い込みと、書店の数や毎年印刷される本の量といった数字は、相容れないものになっていった。

タブレットで本を読む若い女性4人の写真
© CHALIT SAPHAPHAK

21世紀になると、インターネットの流行が書籍ビジネスをいっきに侵食した。特にスマートフォンの価格が下がり、あらゆる階級の人々に届くようになって、その傾向は加速した。それはべつに、ひとがオンラインでなにかを「読む」ようになったからではなく、ほかの活動に充てていた空き時間が、インターネットに奪われていったからだ。読書だけではない。インターネットのおかげでひとは映画館に行かなくなったし、テレビも見なくなった。オンラインショッピングが迅速で安全なものになって、デパートでの買い物にすら行かなくなった(ただしひとと会ったり食事をしたりするための場所としてはいまだに好まれていて、だからこそデパートはまだそれほどの影響は被っていない)。この現象は世界中で確認されていて、数多くの書店が店を畳んでいる。特にかつて隆盛を極めた「チェーン店」への影響は大きい。

とはいえ、出版ビジネスに起こった「崩壊(ディスラプション)」のあとの状況のさまざまな側面は、研究・観察しがいのあるものになっている。ひとつ具体的に確認できるのは「文学」と呼ばれるものがそれほど影響を受けていないということだろう。「純文学」あるいは「芸術的価値の高い文学」と定義されるものから、さまざまなスタイルのラブロマンス小説まで、読者の数は減っていない。ここにはなにか重要なものが隠されている。ほとんどの国の「〈真剣な〉文学=純文学」は、もともと読者の数が多くない。特殊な事例としてごくまれに一部の本が大きな賞をとって売り上げが伸びたり、口コミで人気が広がったりするくらいだ。そんな特殊な事情がなければ、多くの「真剣な」文学の読者数は万にも満たない。このジャンルで有名な作家でも、その売り上げは一万数千部程度に限定される(し、それで「ベストセラー」と解釈される)。これはつまり、平均的に言えば、通常の「真剣な」文学の刷り部数は4桁代でしかないということだ(新人や無名の作家なら、3桁代からスタートということもある)。たとえこの種類の文学が「読むべき」ものだと信じられていようと、一般的に「読む」ということを言うときに暗に意味されるものであろうと、それは変わらない。

実際のところ、純文学や、芸術的な文学や、古典文学を読むというのは、どんな時代も、限られた人々にとっての活動でしかない。しかしそれが、教育カリキュラムや、文化的な機関や、(どの本が「深くて」「優れていて」「最高だ」といった)神話への信仰を通じて、ある世代から次の世代へ継承され続けていく。文化史や、芸術家の智慧への信仰を重要視するのは、多くの場合は知識人の人々であって、社会の一般の人々ではない。これはべつに、その社会の人々が「本」を読まないということを意味しているわけではない。多くのひとは、芸術的価値の高いものを消費したいという欲求から文学作品を読むよりも、その時代の流行にあわせて本を読んでいる。だから、ラブロマンス小説にも継続的な需要がある。そこで好まれる内容が、時代によって異なるだけで。

ラブロマンスのうち、家族の生活が反映された恋愛小説は、タイ社会において長いあいだ成功を収め続けてきた。特に「女性雑誌」あるいは「主婦の雑誌」と呼ばれることの多かった雑誌がこれらの作品の受け皿になっていた時代、その成功は大きなものだった。作品が連載されて、さらに翻案権が購入されて、テレビドラマ化される傾向にあった。この種の文学作品は、かつては大量の読者が安定的についていた。しかもこれらの雑誌は、少なくとも隔週刊のことが多かった。それは「本を読む」タイ人の数が少ないはずはなかった、ということを意味している。そこからさらに書籍化されたり、ドラマ化されたりして、人気が変わらずに保たれるのは言わずもがなだろう。仮に「職業文芸作家」という言葉を使うのであれば、名声と収入の両面において成功を収めたのは、こういった作品を書いた作家たちだけしかいないだろう。

本を読む若い女性の写真
© CHALIT SAPHAPHAK

インターネットが引き起こした「崩壊」は、かつてのスタイルのラブロマンス作品にも容赦なく襲いかかった。多くの雑誌が終刊したり、時代にあわせてウェブサイト用にコンテンツを一新しようと試みたりした。その栄光の時代とは比べ物にならないくらいに、人気は落ち込んだ。現在よく売れているラブロマンスは、むしろ若者向けの小説だろう。特に「やおい小説(ニヤーイ・ワーイ)」、つまり男性同士の恋愛関係を書いた作品が人気だ。これらの多くは、女性によって書かれて、女性によって読まれている。それはつまり、タイという国の小説の読者と作者の多くが(さまざまな年齢の)女性であり、その状態が長いあいだ続いているという事実を表してもいる。一方でマンガ、新聞、ビジネス書、スポーツ書といった種類の本であれば、読者は男性であることが多い。ということは、神話的に理解されている「読む」行為について言うのなら、タイ社会における読者の割合は、男性より女性のほうが多いということだ。

インターネットの使用や、ソーシャルメディアとアプリケーションを通じたさまざまなメッセージの送受信といったタイ社会の人々の流行から判断すれば、タイ人は確実に、習慣的に、たくさん「読んで」いる。自身のフェイスブックページやウェブサイトをもち、ふだんから読者とコミュニケーションをしている一部の作家には、数多くのファンがつく(その数が、実際に本を買ってくれるひとの数よりも多いのは疑いない)。しかし「読む」ことの定義を、紙の書籍や純文学を読むことだけに狭めてしまえば、タイ人の「読む」という行為が発展を見せているとは言いがたくなってしまうだろう。そこから結論づけられるのは、せいぜい、純文学の読者数は、過去と同じくらいの水準を保っているというくらいだ(ここで言う過去とは、本が比較的値段の安いものになった20世紀の初頭を指す)。読書文化の発展と呼べるのはむしろ読者の「世代交代」だ。若者のころに読書にたくさんの時間を割いていたひとが、年を重ねたりいろいろな責任を負ったりするなかで、自然と読むのをやめてしまう。そして新しい世代がそれを引き継ぐ。ほかのジャンルの著作がどれほどの読者を獲得するのかは、流行や口コミといった要因に左右されがちだ。

ここまでの論点を検討してみると、タイ社会における読書行為の可能性を次のように分類できるだろう。(1)タイ人は考えられているよりも頻繁に、たくさんの量を「読む」。しかしそこで読まれているものや「本」が、文学書や高尚な本ではないせいで、「読書」として数えられていない。(2)本を買って熱心に読んでいるのは中産階級以上のひとである。そして、そこには世代交代も起こる。

とはいっても、中産階級の人々のなかにも、いまだに本を高すぎる商品であり、不要なぜいたくだとみなすひとはいる(けれども集まって飲み食いしたり宝くじを買ったりするという、本を購入するのに近しい支出だと計上されそうなものは、高いとはみなされない)。数多くのタイ人が、本の出版のシステムや、執筆や印刷にかかるコストを理解していないし、本というのはとてもとても安い値段がつけられてこそ適切なのだと考えている(物質的な面だけを見れば、本はただの紙だからだ)。それだけではなく、寝るまえに本を読んだり、公共交通機関での移動中に本を読んだり、旅行に本をもって行ったり、ほかの活動の待ち時間に本を読んだりといった、日常の「一部分」としての読書文化は、タイ人の気風にはなじまない。日本やヨーロッパ社会のように、読書がふつうのこととなっている場所の文化とは異なるのだ。だからタイ社会における「読書文化」はとても強靭なものとは呼べないし、発展しているとも言えないだろう。たとえかなり体系的な出版ビジネスが成立していて、多くの出版社や印刷所にかなりの利益をもたらしているとしても、それは変わらない。

タイ社会は「読む」ことの神話に固執するのではなく、時代と、ひとのふるまいの実際にあわせて、読むという言葉の定義を拡張していくべきだろう。ひとつの社会の「読む」行為を強いものにしてくれるのは、出版ビジネスの成長や、作家やベストセラーの数ではない。それはその社会の人々が読書に対してもつ熱意や、読みたいという常なる欲求であり、知るために読み、考えるために読み、想像するために読み、反復するために読み、自身を省みるために読み、他者を理解するために読み、同じ人間たちの思想や信条を問うために読み、生きることの活力とするために読むことなのだ。

「読む」ことが、人生やものの見方に影響を与えるのだと考えられなければ、本は、多くのひとが思うのと同じように、ただ高すぎるだけのしろものになってしまうだろう。

タイ語からの翻訳:福冨渉


プラープダー・ユン
タイで最も影響力のある作家、映画作家のひとり。タイ文学として初めて英国で翻訳出版された『Kwam Na Ja Pen(存在のあり得た可能性)』(英訳版タイトル:The Sad Part Was)で知られる。日本でも作品が発表されており、近年では批評誌『ゲンロン』にも執筆している。2021年福岡アジア芸術・文化賞受賞。