国際共同制作の批評
内野:アミターさんについては、『プラータナー:憑依のポートレート』のレビューがすばらしいと思いました*2。日本から来た演出家がバンコクで作った作品で、不安定な地雷原をどう歩くかという点で、とても注意深く書かれているのか印象的でした。
*2 『プラータナー:憑依のポートレート』は、タイの作家ウティット・ヘーマムーンの小説を、岡田利規の脚本・演出、塚原悠也のセノグラフィーにより舞台化した演劇作品。2018年8月22日にチュラロンコーン大学芸術学部内劇場で世界初演された。(製作:国際交流基金アジアセンター、precog、チェルフィッチュ)
アミター:そうですね、芸術について語るときに検閲の危険性を感じないので、それほど注意深くなっているわけではありません。たまに攻撃されることもありますが、書くのを控えるほどではありません。タイでは一般的に、出版物に関して検閲はないと言っていいでしょう。むしろ、誰も読まないというのが現状で、これは編集者の考え方をよく表していると思います。彼/女らは、ある種の芸術に対する批評や報道の必要性を感じていないか、あるいは厳しい批判に対する否定的な反応に対処したくないのですが、タイではオンラインレビューを公開する人がたくさんいます。アーティストを友人たちに応援してもらうために観客が書いていて、SNSで公演名のハッシュタグをつけるだけで、公演の主催者がそれを利用することができます。また、タイではフェイスブックが普及しているので、フェイスブックのレビューで有名になった人もいます。結構手厳しいものも含めてです。自分では芸術の批評家などと名乗っていなくても、とても興味深い意見を持っていて、オンラインで長いレビューを書いている人もいます。また、お金をもらって批評家を装っているサイトもあります。私が注意深いとおっしゃいましたが、それは私の書き方の問題かもしれません。それが私の表現方法です。
また、外国人アーティストがバンコクで作品を作ることが地雷だとは思っていません。タイのアーティストたちも、国際的なコラボレーションを歓迎しています。私は、人々が外国のものに出会い、それに心を動かされることは、とても美しいことだと思います。私は、「自分の国の人」の話だけをしていればいいという考え方には反対です。もし私たち批評家がそのような考え方を持っていて、それを作品の批評や芸術的コラボレーションの見方に適用しているとしたら、そうでなければアーティストが境界を越えることを期待することはできないでしょう。
内野:あともうひとつ、あなたの批評について非常に興味深かったのは、「私」という言葉を主語にしていることでした。
アミター:そうですね。
内野:とてもおもしろいと思いました。
アミター:日本の書き手は何を主語にするのでしょう?
内野:一人称の単数形の代名詞をあまり使いません。「私」を多用すると、西洋的な印象を与えてしまいます。
シャーミラ:欧米の批評でも、それは微妙なラインです。
アミター:「私」を使わないようにと言われることもあります。
シャーミラ:そうですね、とても個人的な話になってしまいますからね。
新聞からラジオ・ポッドキャストへ
内野:検閲の問題が出てきましたが、それがラジオというメディアをどう変えているかについても取り上げなければなりません。検閲の問題は、アミターさんの文章があまり読まれていないことと関係があるのでしょうか?あなたは、ラジオの方がより多くの可能性を秘めていると言いました。カトリーナさんの文章の中で、私がとても気に入った言葉が2つあります。「批評家はギアを変えるしかありません。褒めるのではなく、より大きな絵、大まかな描線に向かって。私たちが知っているような芸術や文化は何によってもたらされ、定義され、創造されるのか、その勝者と敗者は誰なのか、誰がコントロールしているのか、その危機は何なのか」。つまり、特定の作品や特定の見解にこだわるのではなく、批評家としてより広い問題について書くべきだということです。最初におっしゃっていた変革の問題が、ここでは非常によく表現されていると感じました。メディアを変えているのではなく、文化批評家としてのアイデンティティの場所を変えているということですよね。シャーミラさん、ラジオやポッドキャスト、そしてメディアがどのように変化しているかについて、カトリーナさんが書かれたこととの関連でお話しいただけますか?
シャーミラ:私が新聞社を辞めたのは、ラジオの道に進むことが決まっていたからではありませんでした。辞めたのは、私にとって不満が大きかったからです。とても長い間働いていた会社ですからね。今でも愛着があります。今でもよい仕事をしています。あの会社のアートエディターは本当に熱心です。しかし、市場も経営状況も大きく変わってしまったと思います。私が辞めた理由は、印刷メディア業界の苦境と芸術が重要視されていないことが相まって、私が働きたいと思える環境ではなくなってしまったからです。まず、私が社内で行っていた仕事は、直属の部署以外では重要視されていませんでした。直属の編集者はとても情熱的で、一生懸命仕事をしていましたが、上からの質問はいつも「なぜこんなことにリソースを割くのか?」です。辞めることにした第二の理由は、人々が紙媒体を読まなくなっていたからです。私がやっていた仕事は、それほど多くの人に届いていなかったのです。辞めたとき、私はたくさんのことを考えました。そして、ラジオ局と一緒に仕事をする機会を得て、彼/女らのリーチはもっと小さいことに気づきました。しかし、ラジオやポッドキャストには独特のアプローチがあります。口述媒体には、非常に個人的でニッチな利点があります。投げてみてから誰に受けとられるのか見てみるのではなく、何をしていて誰のためにその仕事をしているのかがわかっているのです。アート関連のショーには、すでに組み込まれた観客がいて、それはニッチなものです。観客の数はずっと少ないですが、熱心な観客がいます。100万人の読者のうち、私がやろうとしていることに関心を持ってくれるのはほんの一握りかもしれませんが、それよりも、関心を持ってくれる人たちのために仕事をしたいと、私は心から思いました。これは、リスナーを作り上げるという知的なリターンをもたらすものです。視聴者から奪うだけでなく、視聴者を作りたい。そういう会社のために働きたいのです。
内野:実は昨日、あなたの2019年の舞台芸術シーンのレビューを聴いたのですが、これがなかなか刺激的な体験でした。35分ほどお話を伺って、今のマレーシアの状況がわかったような気がしました。
シャーミラ:それはそれは。
内野:みんな熱心で、いい質問をしていましたし、35分間もあのような番組をやっているのは、日本ではありえないことなので、とても驚きました。日本ではラジオを聴く人が少なくなっているので、ラジオは非常に特異なメディアになってしまった。興味深いことに、日本のラジオは今、とても政治的になっています。ですから、あなたがラジオをやっていることは興味深いですし、あなたの場合はポッドキャストと同様に、より個人的なものになっています。
アミター:そうですね、ポッドキャストはとても人気があります。日本ではどうかわかりませんが、アメリカではポッドキャストが流行っていたので、私も聞き始めました。タイにもたくさんのポッドキャストがあります。
シャーミラ:何かをしながらでも聴けるからです。
アミター:そうですね、何度でも聴きなおすことだって出来ますし。
シャーミラ:料理でもジムでも、好きなときに止めたり始めたりすることができます。私たちの多くのリスナーは、ポッドキャストを利用しています。だから、私たちが放送しているときには聞いていないかもしれません。ダウンロードしておけば、好きなときに再生できますからね。
アミター:そうですね。アメリカでは、ミレニアル世代の人は少なくとも3つのポッドキャストを同時に聞いているというジョークがあったくらいですからね。タイでは、まだそのレベルには達していませんが、確実に近づいています。ポッドキャストはとても人気のあるフォーマットで、私も試してみたいと思いました。私はいろいろなメディアを試すのが好きです。
内野:そして、あなたの番組はバイリンガルで、それは大変なことだと思います。
アミター:そうですね。私は幼少期、誰かがラジオを聴いているときか、タクシーに乗っているとき以外は、あまりラジオを聴かなかったのですが、その後、アメリカのナショナル・パブリック・ラジオをオンラインで聴いたり、ポッドキャストやモノクル・ラジオを聴くようになりました。とても親しみやすいですよね。
内野:親しみやすさは大事ですね。
アミター:演劇とはまったく関係のないポッドキャストのアイデアはたくさんあったのですが、自分が知っていることであり、少なくとも観客を獲得するために争う必要がないので、演劇に関することをやってみるべきだと思いました。書き手としての私の観客がいるので、自分のリスナーが誰かわかっていたからです。そして、「アジアン・アーツ・メディア・ラウンドテーブル」に参加しました。今では、興味を持ってくれる人たちがたくさんいます。だからこそ、バイリンガルでやるようになったのです。
内野:その場合、内容はどうなるんでしょう?
アミター:レビューもしますが、ほとんどがインタビューですね。また、タイのオリジナルな戯曲とその数の不足についての座談会も行っています。
内野:ポッドキャストにはスタッフがいるのですか、それとも1人でやっているのですか?
アミター:すべて2人でやっています。例えば、メロドラマについての座談会をしたいと思っています。メロドラマはタイでは大流行していますが、文化的な影響力を持っているにもかかわらず、ソープオペラのように、タイではまともに相手にされていません。
内野:たまたまですが、私の最初の本のタイトルは、『メロドラマの逆襲』というものでした。
アミター:私たちは、横浜のTPAMをモデルにしたバンコク国際舞台芸術ミーティング(BIPAM)のメディア・パートナーでもあります。私はアーティスティック・ボードの一員です。参加しているアーティストにインタビューしたり、パネルを収録したり、あるいはモデレーターを務めたりして、それをポッドキャストで配信したいと思っています。
マニラにおける批評とソーシャルメディア
内野:カトリーナさんはマニラを拠点にしていますが、社会的・政治的な問題や政府との関係についても記事を書いていますよね。あなたのアートレビューやアクティヴィストの仕事として、検閲の問題はどうなっていますか?
カトリーナ:フィリピンの検閲は、法律ではありません。しかし、ある種の自己検閲があるんです。特に現政権下では、多くの人が恐怖心から国家的な問題について発言しないようにしています。しかし、芸術や文化の聴衆は少なく、特に英語で書く場合は、文章であろうとポッドキャストであろうと関係なく、聴衆は少ないのです。非常にニッチで固定された市場なのです。紙の紙面からオンラインまで、私のウェブサイトでもオンライン出版物でも、私の読者は、英語で読み、英語で考え、私が見る演劇や映画、私が読む本にアクセスするだけのお金を実際に持っている、非常に固定された人たちです。マニラをはじめとするフィリピンでは、社会的不平等が非常に顕著です。芸術や文化について語るとき、それは非常に小さなグループに向けたものだということがはっきりと感じられます。
しかし、政治の話になると、それはより大きな、国家的な話になります。私が思うに、このふたつが交錯するとなると、芸術と文化政策の話をするときでしょう。そのときは、より多くの人々を巻き込んだ芸術への公的資金の話になるからです。私たちの文化制度の歴史を振り返ると、資金がどこに行くのかわからないし、文化セクター自体にもなじみのない人たちが資金をコントロールしていることが多いです。ここで一番気になるのは、誰が資金を得るかを決める人たちが、アーティスト自身ではないということです。
もちろん、芸術文化の話であれ、国の社会的・政治的な問題の話であれ、批評は役に立たない、あるいは単なる攻撃であるという一般的な認識があるのは事実です。2019年にシンガポールで「アジアン・アーツ・メディア・ラウンドテーブル」(Arts Equator主催)を行った際に全員が同意したことのひとつは、批評は作品やアーティストがよりよくなるために必要な行為であるということです。批判を攻撃ととらえるべきではありません。怒るべきものでもありません。批判があってもいい、という考え方は、マニラが学ぶべき点だと思います。特に最近では、演劇作品を分析するとすぐに怒る人が多いですね。そもそもなぜ批判するのか、なぜ作品に対して難しい質問をするのか、と疑問を投げかけてきます。皮肉なことに、これらの人たちは、一方ではソーシャルメディアで政府を批判し、国家や大統領の悪いところを自信を持って語っているのです。しかし、いざ自分が批判される側になると、批判者を公然と攻撃するほどの怒りを覚えてしまう。 世論を封殺するというかたちで大統領がやっていることと同じですね。
なぜなら、政府がさまざまな方法で私たちを黙らせていることは明らかで、批判的な発言をしたときには私たちを攻撃するなどしていますが、自分の作品が詳細に見られていると、政府と同じようにすぐに批判者に反発するのです。ここで重要なのは、私たちがいかにしてすぐに、退治されるべきモンスターそのものになってしまうかということです。また、自分に同意する人々の声や残響は、自分に自信を持たせてくれるかもしれませんが、それだけでは正しいことにはならないということもわかります。
アミター:ほんとうにそうですね。
カトリーナ:私に賛同してくれる人がたくさんいる場合は違います。でも、私が一人で違うことを言っていると、人々は「この女性はどうしたんだ?なぜ彼女は誰も話したくないことを言っているんだ?」となるんです。たとえば、つい昨日、マニラで最大かつ最古のバレエ団であるフィリピン・バレエで大きな問題がありました。理事会は、フィリピン人の芸術監督を解雇し、後任としてロシア人ダンサーを雇うことを決定しました。それで大騒ぎになって、みんな怒っていました。しかし、結局、理事会のメンバーが誰なのか、どうやってその権力の座についたのか、なぜ彼/女らがこのような決定をしているのかについて、誰も話そうとしませんでした。マニラではバレエを見る人はほとんどいませんから、演劇よりもさらに観客数は少ないのですが、突然、みんながバレエの話をして、ロシア人の芸術監督を迎えることは、国家や芸術文化分野、我々の独立に対する冒涜だと言い出したのです。しかし、ロシア人の芸術監督になろうがなるまいが、フィリピン・バレエがずっと国家のために活動してきたという主張を裏付ける作品はありません。『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』を上演しているダンスカンパニーなのです。それなのに、なぜ突然このような大騒動が起こったのでしょうか?
しかし、誰もそうした分析を望んでいません。そして、このことについてフェイスブックにステータスをアップすると、まず最初に返ってくる反応があります。「なんでそんなに怒っているのか?なぜそんなに怒る批評家なのか?」しかし、私はそうではありません。そうはなくて、同じ問題についてより困難な議論をしようとしないネット上の騒動に疑問を投げかけているだけなのです。
そして、これこそが批評家の役目であり、レビューワーとの違いだと思うのです。レビューワーは、あるテクストを手に取り、分析し、それを読み、それについての自分の意見を述べます。批評家は、対象となるテクストを生み出した諸システムと、それを鑑賞した自分自身の存在のあり方までを含め、自身の舞台への反応を作り出した文脈を考慮します。市場があまりにもニッチであるために、多くの読者や多くのリスナーがいなくても、そのような仕事には価値があり続けると思いたいですね。