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マレーシア、フィリピン、タイの批評家の視点から――芸術批評、メディアと「東南アジア」

Interview / Asia Hundreds

マレーシア、フィリピン、タイにおける表現にまつわる諸問題

シャーミラ:マレーシアの問題は、ほとんどの場合、あからさまな検閲ではなかったですね。問題はほぼいつでも、自己検閲でした。

内野:宗教的な見地からですか?

シャーミラ:人種、宗教、政治、君主制については自己検閲があります。マレーシアのメディアの歴史を振り返ってみると、あからさまな検閲が行われたのはごくわずかです。ちょっとした線引きをしようとする人はいるでしょう。もちろん、マレーシアのメディア機関の大部分は、特に前政権では、政府に関連するさまざまな団体が何らかの形で所有していたことが課題となっています。結局のところ、できることはあまりありません。新政権になってからは、状況が変わったと言いたいですけどね。正直なところ、同じことを繰り返しているように見えることが多いのです。今はどうなっているかというと、前政権を批判することはいくらでもできる*3

*3 マレーシアではその後、2020年3月に政権交代があった。

内野:前政権ではそうでしたね。

シャーミラ:新政権になっても、恐怖の文化を克服するのは非常に難しいと思います。私たちは何世代にもわたって、何かを言わないようにしたり、問題を回避したりする方法を学んできたのです。私が働いているラジオ局でさえ、選挙が行われるまでは、ほとんど反政府的だと思われていました。私がこのラジオ局で働きたいと思った理由のひとつは、彼/女らがとても勇敢だと感じたからです。しかし、私たちでさえ、どこに境界線があるのかを知っています。生き残って自分の仕事を続けたいと思うか、閉鎖されたり沈黙させられたりする可能性のある境界線を越えるか、常にバランスを取る必要があります。ただ、フィリピンほどは状況が悪いとは思いません。

内野:エスニック・コミュニティーごとの違いはありますか?

シャーミラ:あまりないですね。マレー語のほうがより多くの人に読まれていますし、王政や宗教など、マレー系コミュニティに深く根ざしたデリケートな問題にも関わっています。そのため、マレー語の出版物はより注意深く見られているでしょう。芸術に関しても、過去にこんな問題がありました。英語の戯曲で語られたことや、英語の本で出版されたことは検閲されません。しかし、それが翻訳されてマレー語の作品や本になると、より多くの人に届くため、当局が取り締まることがあるんです。

アミター:タイでは、映画やテレビは検閲されます。舞台芸術は観客が少ないので、多くのことが許されると思います。

内野:それは、政府が気にしていないからですか?

アミター:少なくとも2つのケースがありました。そのうちの1つは、本当に若いアマチュアの劇団で、彼/女らが上演した作品は明らかに王政に関するものでした。彼/女らのうち2人が逮捕され、不敬罪で刑務所に入りました。他にも、誰かが当局に通報して魔女狩りのようになったこともありました。その人は当局に調査を依頼したのですが、当時は戒厳令が敷かれていた時代でした。軍がプロデューサーに電話をかけてきて、何をしているんだ、この作品を上演する許可をもらったのか、と聞いてきたんです。それで、許可は必要ない。なぜなら法律がないからだと応じました。それで、軍はその場かぎりの法律を作って、毎日カメラを持って上演を録画しに来たんです。軍の存在感を示すためにね。アーティストが逮捕されたりすることはありませんでした。最終的には何も起こらなかったのですが、毎日の上演には常に軍の存在がありました。

内野:目に見える権威的な圧力はあったけれど、検閲ではなかったのですね。

アミター: 演劇人は、政府の検閲に対して最大限抵抗していると思います。特に不敬罪は、誰もが王室擁護の名目のもとに攻撃にさらされる可能性があります。隣人や友人、同僚を通報することができるのです。それが問題です。そして、芸術はそのような状況の中で活動しなければなりません。たとえば、軍部に批判的な議論を展開すると、そのうち必ず、軍部の訪問を受けることになります。今はよくなっていると思いますよ。選挙の後、人々はよりリラックスしています*4。しかし、自己検閲は、ある意味、それ自体のなかに芸術的な型が見られるようなものになっています。クーデターが起きた当初、政治は本当に分裂していて、激しく対立していました。舞台芸術のコミュニティはとても刺激的な活動をしていましたが、その後、みんなが同じことを言っているような冗長なものになっていきました。これは社会の状況を不可避的に反映したものだったと思うことがあります。

*4 2020年半ばに始まった政治的抗議活動の新たなラウンドで、タイ政府は抗議者を逮捕し、公然と王室に批判的な人々を再び不敬罪で告発している。今回、国家による基本的権利の侵害の犠牲になった人たちの中には、アーティストも含まれる。

シャーミラ:しばらくすると疲れるんですよね。

アミター:そうですね。アーティストたちは、自分たちがまだ声を上げる必要があると感じていますが、新しいことは何も言えません。彼/女ら自身が新しい問いを発していないのです。

カトリーナ:それとも、新しい言い方がないというような。

アミター:はい。あるいは見つかっていないとか、そんな感じですね。

カトリーナ:「古い道具」を使っているだけなんですね。

アミター:そのとおりです。そして問題は、もし私たちがそれほど検閲されていないのであれば、なぜ私たちは微妙な方法で何かを批判するのかということです。私たちは、自分たちが思っているほど検閲されていないのです。つまり、自己検閲のようになっているのではないかと危惧しています。

カトリーナ:常態化してしまった。

アミター:芸術として常態化しています。軍隊を批判しよう、エリートを批判しよう、でも暗号をたくさん使おう、暗号を解読する楽しみを味わおう、というようなものです。私にとっては、これは気にかかる傾向です。

カトリーナ:マニラでは違いますね。マニラには社会的リアリズムの伝統があり、批判的な意見があれば、それを作品の中で文字通り示すことができます。これらはマルコスの独裁政権時代に登場してきた抵抗の芸術の現在形において見られるものです。しかし、こうしたやり方は、もはや効果的ではないことに気づきます。私たちは現大統領に対して過激で批判的な活動を行ってきましたが、意識を高めるという点では、ほとんど効果がないように思えます。人々をフェイスブックから遠ざけ、怒りをオンラインで投稿するのではなく、街に出て、実際に数の上で私たちがどれほど怒っているかを大統領に示すという点では、効果があるとは言えません。

芸術は余計なものになってしまったようです。人々が社会問題や政治について語り、抵抗の場を作ろうとしても、私たちはマルコス時代とまったく同じことをしているのです。私にとって、これまで行ってきた活動が効果的であったかどうかの指標となるのは、現在の独裁者が芸術を大規模に検閲する必要さえ感じていないということです。それは、彼と彼の政府が、このような古い抗議方法に影響を受けているのは、ごく少数の人々であることを理解しているからだと思います。これまでのところ、私たちは芸術を使って、政府のプロパガンダ・マシンに対抗することはできていません。このプロパガンダ・マシンは、ソーシャルメディアで嘘や偽情報を広めることに資金を投入しているのです。

このような状況では、アーティストは実効性を持てるかどうかという問題に直面しています。私は、自己検閲が常態化しているだけではなく、よりよい、連動性のある作品を意味するような問いを発することができないのだと思います。

内野:フィリピン教育演劇協会がありますが、これは実際に地域で活動し、そこで何かを変えています。彼/女らは大統領を変えたりはしませんが、地域レベルの小さいながらも緊急性のある問題を変えているかもしれません。

カトリーナ:はい。教育演劇や文化活動は、コミュニティに入り込んで、正義や平等、人権について教育しようとするもので、価値があると思います。しかし、大破した列車をただ見ているだけで、何もしていないように感じられる今の時代に、このような活動が必要かどうかはわかりません。なぜなら、次の選挙まであと3年しかなく、政府関係者は皆、選挙に向けて準備をしているからです。それ以外の人たちは、ただその展開を本当に見守っているだけで、今の時点で国民のこの緊急のニーズに応えようとしている運動があるのかどうはわかりません。国内では、文化人を含めたすべての人に影響を与えるようなことが、同時にたくさん起こっています。 これが、私がまだポッドキャストをやっていない理由です。

アミター:プロジェクトが多すぎるから?

カトリーナ:いいえ。私は、一般の人々がよりよい、より賢明な投票ができるように教育しようとする小さな活動には価値があると感じていますが、今、私たちは大規模な偽情報やプロパガンダ・キャンペーンに直面しており、このような小規模で独立した活動では対応できないと感じています。 確かに、私たちは集団で何かをすることができますが、それを効果的にするためには、何をしようとしているのかについて合意する必要があります。しかし、どこにも合意があるとは思えません。このような団結力のなさや断片化は、格差や党派性から生まれるもので、それは芸術文化分野だけではなく、社会全体に言えることです。ここで冗長性という考え方に戻ります。これは本当に悪循環で、誰もが過去に経験したことがあると考え、1970年代や1980年代に行われたことをそのままやろうとします。しかし、状況は大きく変わりました。インターネットやソーシャルメディアが、この闘いの状況を完全に変えてしまったのです。

インタビューに答えるカトリーナ氏の写真

内野:ただそれは、1970年代に何が起こったかを知っていることが前提ですよね。

カトリーナ:そうですね、まだ書かれていない文化史がたくさんありますし、国の歴史が書かれていても、権力者が自分たちのニーズや野心に合わせて常に修正していますからね。

シャーミラ:それは興味深い指摘ですね。アート・ジャーナリズムや批評の衰退に直面している私たちにとって、最大の失敗のひとつはアーカイブ化だと思うのです。私たちは、過去の出来事についての感覚を失っています。私たちの新しい観客は、マレーシアの芸術、演劇、あるいは舞台芸術一般に関しては、過去のことを理解し、記憶しています。しかし、最近の演劇の記録はほとんどありません。これはマレーシアのような小さな国にとっては悲劇的なことです。