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インド北東部を“YOMU”―中村唯

Report / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(インド)

インド北東部とは
「インド北東部」と呼ばれる地域をご存知だろうか。中国、ミャンマー、バングラデシュ、ブータンと国境を接するインド国土の、文字通り最も「北東部」に位置する地域で、現在は、アッサム州、アルナチャル・プラデシュ州、トリプラ州、ナガランド州、マニプル州、ミゾラム州、メガラヤ州、シッキム州の8州で構成されている。マニプルとナガランドは第2次世界大戦で最も凄惨な戦いのひとつと言われた「インパール作戦」の舞台であり、当時、兵士の亡骸で埋め尽くされたといわれる通称「白骨街道」は、ナガランドの州都コヒマからマニプルを通って現在のミャンマーへ通じている。私たちのテーブルを彩るアッサム紅茶もここが生産地だ。このように、インド北東部は、実は、私たちと関わりのある地域であるものの、そこに住んでいる人達や暮らしについては、ほとんど知られていない。これは、すぐご近所のブータンが、昨今、桃源郷のような扱いを受けているのとは非常に対照的だし、すぐ隣のミャンマー情勢が国際的に大きく取り上げられているのとも対照的である。

インド北東部が知られていない最大の理由は、この地域が、超大国インドの一部であることと、おそらく無縁ではないだろう。インド北東部8州の人口は約4500万人で、スペインやアルゼンチンと同じくらいの人口だが、13億人を抱えるインドの中では取るに足らないほどの少数派だ。しかし、この小さな地域には、ヒマラヤ山脈東部やブラフマプトラ河の恩恵を受けた豊かな生態系を背景に、数百と言われる異なる民族や言語がひしめき合っており、多様なインドの中にあっても、とりわけ異彩を放っている。そんな「多様性の宇宙」のような地域を、名付け親の旧宗主国の英国に習って、「インド北東部」とひとくくりに呼ぶのは乱暴かもしれない。しかしながら、この地域に棲む人々が、インドの中で「異質な存在」として扱いを受けてきた、という事実は皆の共通事項であると言って差し支えないだろう。

そもそも、インド北東部は、民族的にも、一部のベンガル人や北インドをルーツにした人々を除き、ミャンマーや中国雲南省等との親和性のほうが高い。先住民の人々の生活様式、特に食生活は、納豆やもち米、タケノコなど、日本人が親しみを感じるものがたくさんある。さらに、イギリス統治下では、藩王国だったマニプルとトリプラ、その他丘陵部は、行政上はアッサムの一部として、実質的には現地の首長を通じて間接的に統治されていたため、戦後はじめて直轄統治されたインドとは、文化的歴史的にも直接的なつながりがなかった。そのため、1947年にインドが独立後、その国家形成の過程でインド北東部は、他の地域とは異なる複雑な経緯を辿ってきた。それがもっとも顕著な形で表出したのが、東パキスタン(現バングラデシュ)が分離する中で海へのアクセスを失ったことと、インドに「併合」されることに反発した一部の人々が各地で蜂起した結果、インドからの分離独立や自治権拡大を求める動きが活発になり、反政府武装勢力が台頭したことかもしれない。このような背景もあって、多様で豊かなインド北東部は、その神秘的な魅力よりもむしろ、深刻な治安の問題を抱える貧しい「陸の孤島」として広く知られるようになった。厳しい入境制限が解かれ、一部の地域を除き、個人旅行客が自由に出入りできるようになったのは実に2010年代に入ってからである。

インドの日常。市場の写真。

そんな中、近年に入り、インド北東部に新しい意味が与えられた。南アジア、東南アジアにおける中国の台頭を受け、この地域が持つ地政学的な「ポテンシャル」に注目する動きが一気に活発になったのである。日印間の外交のレベルでも、特に、ASEANと南アジアをつなぐ結節点として、2014年1月の日印首脳会談を機に、インド北東部が公式文書に頻繁に登場するようになり、日本の「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」の一部でも戦略的に重要であると位置づけられた。インド版東方政策「アクトイースト」と相まって、インフラ開発計画が一気に加速し、海外からの直接投資が呼びかけられるようになった。

出会いの衝撃
この地域で日本の民間財団である我々も、政府が出来ない分野で何かユニークな取り組みは出来ないか。インド担当として2015年頃から少しずつ検討を始めたものの、それは決して平たんな道のりではなかった。当時、インド北東部に関する情報――英語や日本語で手に入る研究書や紀行文など目につくもの――は、爆弾テロや異民族間の衝突や、いかにインド北東部が迫害されてきたか描写するものが中心であり、筆者もそれに大いに感化されていたからである。2016年初頭に行った現地出張では、鼻息荒く、一時は百もあると言われた武装組織の名前やその背景を叩き込まねば、と、行きの機中で資料を読み返しては頭を抱え、戦々恐々として現地へ降り立った。

手始めに訪れたマニプル州インパールで、調査を手伝ってもらうため、デリーの大学教授に紹介したもらったジャーナリストと市の中心部に位置するホテルで待ち合わせた。ホテル前にあるマニプル王朝の旧王宮は、植民地時代から軍が占拠し、2004年にインド連邦政府から州政府に返還されるまで、地元の人々はそこに入れなかった。装甲車が行き来する中、彼はまず腹ごしらえしようと瀟洒(しょうしゃ)なカフェに連れていってくれた。そこでは、東京かソウルかと思ってしまうスタイリッシュな若者が楽しそうにお喋りを続けていた。すると、唐突に、重装備のインド軍兵士が自動小銃を抱えて入ってきた。しかし、その場の若者たちは誰一人として見向きもしない。これが日常なのか。そのギャップに眩暈がした。

インドのカフェの画像

打合せのあと、彼は「フェスティバルをやっているので、演劇を観にいきませんか」と誘ってくれた。「なぜ、貧しい紛争地で演劇?」と面食らった自分の先入観を今はただ恥じるしかない。劇場は、インパール郊外の路地にあった。トタン屋根でつくりは簡素だったが、300名ほどは収容できる立派なホールだった。のちに、マニプルはインドを代表する劇団を複数抱え、パフォーミングアーツにおいては屈指の伝統を誇る場所と学ぶのだが、当時は知る由もない。外国人特権で、マニプル演劇界のレジェンドや何人かに紹介された筆者は、まず何より、柔らかい伝統衣装を身にまとい、物腰優雅な人々の様子に見とれてしまった。さらに、そこで演じていたのは、マニプルの主要民族メイテイとは鋭く敵対していると聞かされていたナガランド州のディマプルで活躍する若い劇団であることにも驚いた。劇は、昔話をもとに、かつて存在した首狩りの伝統について取り上げた戯曲だった。

一人前の男と認められるには誰かの生首を持ち帰らなければいけない青年。何度も失敗し、仲間に嘲笑われる。プレッシャーに耐え兼ね、本来は、成人男子に正々堂々戦いを挑まければならないにも関わらず、卑怯にも、自分のフィアンセのために布を軒先で織っていた若い娘に後ろから近づき、その細い首を自分の手にかけてしまう。実は、その女性こそ、自分の許嫁だったとは知らずに――。舞台は暗転し、少女の頭だけが残る。静かに、何かを暗示しているような余韻だけが残った。

演出のすばらしさもそうだが、この戯曲を若い作家が創作し、それを「敵」とされる地で演じ、その地の人々が拍手喝さいを送ること。このような成熟し、洗練した文化を持つ土地だと知らずに、「紛争地」と一元的に考えていた自分に思わず赤面した。調査の最初にこの舞台に出会えたこと、それが私にとっては最も幸運なことだった。この経験のおかげで、インド北東部の人々が何を守ろうとしているか、一気に視界が開けた気がしたのである。

インド本土と「他者」への寛容
インドの他の地域(インド北東部の人々は「インド本土」と呼ぶ)の人々は、一般的に、インド北東部に対する無理解から、「エキゾチックな部族が棲む遅れた地域を開発し、『インド本土』のようにしなければならない」という言説に、特に関心も、そして疑問をもっていない――。結果的に、それが北東部の人々の間に、いずれ「ちっぽけな」自分たちの存在や伝統が絶滅してしまうのではないか、という漠然とした不安と、根強い「インド本土」への失望や不信感、不平等感を強める結果ともなっていた。一方、インド北東部の各地には、数々の困難にも関わらず、いやだからこそ、沢山の才能に溢れた若者たちがいる。彼らの多くは、非常に洗練されたかたちで、詩や戯曲や小説、あるいは音楽や舞踏や映像など、文学やアートを通じ自らを表現していた。彼らのような人々と一緒に、「インド本土」や日本に向けて、インド北東部の新しい価値観を生み出す情報発信が出来ないだろうか。

その呼びかけに、幸いにも、インドを代表する出版社で、フェミニズムやマイノリティについて精力的な出版を続けるズバーンが関心を寄せてくれた。2017年から当財団が開始した「インド北東部に係る情報発信」、ならびに、そのフェーズ2にあたる「インド北東部の記憶と記録」事業では、彼らと一緒に今までなかなか光が当てられなかったインド北東部出身の女性作家の選集をこれまで5冊出版し、インド各地の著名な文学祭にも参加した。州ごとにテーマを設けた書籍では、少数部族の言語で書かれた作品も複数回の翻訳を得て英訳し、既存のイメージとは異なる人々の実像を伝えている。さらに、2018年からは、次世代の研究者や執筆家を目指す女性や社会的マイノリティの若者たちに対し、調査のための小さな奨学金事業も開始した。完成した論文や短編はプロによる編集を経て、ズバーンのホームページに掲載され、場合によっては書籍化される。有難いことに、毎回100名以上の人々が応募してくれ、中には主要メディアに取り上げられ、受賞する作品も出てきた。

筆者とインドの作家たちの写真

インド北東部には実に豊かな口承伝承の伝統がある。文字を持たない人々はメッセージを歌に乗せる。若者たちは詩の朗読会で、あるいはヒップホップで、自分たちが抱える葛藤や不安、そして不平等や差別への怒りを表現する。ただし、それは単純なプロテストソングではない。また、自分のコミュニティこそが優れていると声高に煽るものでもない。長年にわたる共存と暴力の歴史の中で、そして、マイノリティとしてインドを生きる中で、彼らは「アイデンティティ」というものがいかに危ういものか、痛いほど知っている。自らのルーツ、歴史や文化について「他者」に理解してもらいたいという叫びは、同時に、他者への寛容の精神と、それを超越したヒューマニズムに溢れている。投資や開発もいいが、その前に、ぜひ、インド北東部が持つ多様性の真の意味と豊かさに触れて欲しい。

関連リンク
ズバーン出版社ウェブサイト・当該プロジェクト紹介(英語)
https://zubaanprojects.org/projects/fragrance-of-peace/


中村 唯(なかむら ゆい)
公益財団法人笹川平和財団 アジア・イスラム事業グループ主任研究員。タイの大手新聞社、独立行政法人国際交流基金バンコク日本文化センター勤務などを経て、都内の民間財団、シンクタンク、独立行政法人国際協力機構(JICA)にて、インドをはじめとする南アジアの地域開発や人材育成に関わり、2015年9月から現職。タイ国立カセサート大学、英サセックス大学開発研究所(IDS) 修了。インド北東部では、インパール平和資料館、インド北東部視聴覚アーカイブ、農村の起業家支援の立ち上げに関わる。「終戦記念日 特別寄稿 インパール作戦 前編・後編」(2017年8月『クーリエジャポン』講談社)、「インドはBOP大国か」(2012年9月~2014年9月『国際開発ジャーナル』)。国際開発ジャーナル社などのエッセイも執筆。