舞台芸術における研究者の役割
内野:それぞれの国の舞台芸術シーンにおいて、研究者はどのような役割を果たしていますか?
アミター:あまりないですね。
内野:歴史を書くことも、アーカイブすることも?
アミター:舞台芸術の研究をしている学者もいますが、この2つの世界があまりにも分離しているのは残念なことだと思います。今はオンラインで学術的な研究ができるようになってきていますからね。タイには、演劇人や批評家の間で尊敬されている学者が何人かいます。ある人は、現代劇の台本(未出版)を収集していて、定期的にアーティストを招いて学生と一緒に作品制作を行ったり、学生の作品を演出したりしています。また、タイ研究助成の批評プロジェクトを10年以上率いている人もいます。このプロジェクトでは、芸術批評に関する数多くの書籍を出版しています。アーカイブに関して言えば、今、若いメディア関連企業がタイの現代演劇のアーカイブを作ろうとしています。タイの演劇史の本を書いたり、更新したりする学者のプロジェクトは知りません。タイの演劇に関する学術書をもっと読みたいのですが、あまり本が出ていません。
シャーミラ:マレーシアでは、筋金入りの公立大学の学者がいて、彼/女らはしばしば政府と連携しています。そのため、政府が資金を助成している芸術機関と連携することが多く、ある特定の倫理観や仕事の進め方を持っています。
架け橋になろうと、インディペンデントの舞台芸術シーンとかなり密接に連携している人もいます。その関係がどれだけうまくいっているかはわかりません。特定の大学学部がうまくいっているように見えることは知っています。通常は、誰が教育研究を担当するかによってすべてが決まるようです。情熱を持って価値を見出してくれる人がいれば、大きな違いが生まれます。その人がいなくなり、他の人が入ってくると、変わるかもしれません。一貫性がないのです。私たちには国立芸術アカデミーがあり、主に舞台芸術を教えています。ASWARA(Akademi Seni Budaya Dan Warisan Kebangsaan)、つまりマレーシア国立芸術文化遺産大学は、伝統的な芸術形式を橋渡しして、より現代的な空間に持ち込むことに重点を置いています。私たちのダンサーの多くはここを卒業していますが、とても優秀です。これはちゃんと結果を出している国家機関です。残念なことに、お金を稼がなければならないという障害がしばしば起こります。しかし、教育機関としての質という点では、かなり優れていると思います。彼/女らが発表している学術的な仕事については知りません。繰り返しになりますが、というのも、たぶん、そこは閉鎖的な世界なので、ジャーナリストとして、自分の仕事を学術界に向けて情報発信したことはほとんどありません。
アミター:政治的な演劇やアートの場合、アーティストは学者を招待したがることがあります。たとえば、暴力を研究している歴史家や学者など、アーティストの作品がその問題を扱っている場合です。しかし、これは特定の政治的主題に限った話です。そういう意味では分断はありますが、私自身も彼/女らに相談することもありません*5。
*5 しかし、最近ではタイの古典的な仮面舞踊劇「コーン」をテーマに、古典・現代のダンサー、各分野の研究者、評論家などが参加するプロジェクトがある。このプロジェクトでは、パフォーマンス、ドキュメンテーション、執筆、パネルディスカッションなどが行われている
カトリーナ:私の学術的バックグラウンドはカルチュラル・スタディーズですが、比較文学を専攻していた学部時代にも、自分が書かなければならない論文は、実際に教室で一緒に勉強している人以外には読まれないような論文ばかりだと感じていました。ですから、学外で読者を惹きつける文章と、学内のそれとの間には隔たりがあることは、最初からわかっていました。実際にレビューを書くようになったのは、編集者から、私のカルチュラル・スタディーズのバックグラウンドがあれば十分だと言われたからです。それが私の入り口でした。
文化とは何か、テクストとは何かということについて、非常にアカデミックな感覚を持っています。私はもうアカデミックな仕事はしていませんが、アカデミックな読者ではなく、一般の読者を対象とした形であっても、アカデミックな感覚とのつながりは私の書くものの一部にあると感じています。このつながりがあるからこそ、私は学術界からある程度の信頼を得ることができたのだと思います。というのも、学術界は私が何かを見るときには非常に慎重になることを理解していますし、私が書いたものについて学術的な議論をしたいと思ったときには、学術界が好む専門用語を使って学術的な議論のレベルにまで持っていくことができるからです。
そうは言っても、マニラではアカデミックな文章に対する不信感があります。というのも、アカデミックな世界で映画評論を書こうとすると、ほとんどの人が理解できない方法で書いてしまうことがあるからです。語彙が違うのです。英語で書いているから読者が限定されるのは当然として、あまり知られていない専門用語を多用した英語で書いていると、評判が悪くなるのです。私自身はこのような文章を評価していますが、それは彼/女らが読んだものを私も読んでいるという特権意識から来ていることを知っています。
私が芸術文化批評を書き続けていた10年間に、学術関係者が実際に私の文章について話してくれるようになったことには感謝しています。私が真剣で、自分のやっていることをわかってやっているということを理解してくれるまでには、しばらく時間がかかりました。しかし、これは私の書き手としてのキャリアにおいて重要な分岐点となりました。それは、私が何か正しいことをしているということで、単に大衆である読者にこびているのではなく、実際に芸術を教えている学者、つまり博士号を持っている人たちが、私がこのような特殊な方法で書いていることを評価してくれているということであり、彼/女らが私の書くものを見下しているわけではないということです。今年のシンガポール・ビエンナーレのキュレーターを務めたパトリック・フローレスのような人物は、現代美術の主要な学者であるため、非常に重要でした。私は彼とは面識がなかったし、彼が私の先生になったこともなかったので、彼が私に話しかけてきたとき、私は何か正しいことをしているに違いないと思いました。そして、その後、彼の展覧会に招待されるようになりました。
このようなアカデミックな世界と「外の世界」との交わりは、大学の演劇学部でも認められています。学生以外のより多くの人々にアプローチするために、多くの活動が行われていますが、これは良いことです。アカデミックというニッチな観客層を超えてアプローチする必要性が認識されています。特にマニラの小ささを考えると、それを認めることはよいことです。
それぞれの「東南アジア」との関わり
内野:パトリック・フローレスの名前が出てきましたね。この地域でのネットワークについて気になっていました。「東南アジア」というのは有効な概念なのでしょうか?それとも、単なる地理的な命名で、実際にみなさんがされていることとは無関係なのでしょうか?
カトリーナ:私は学部で比較文学を専攻し、アジアや第三世界の研究に力を入れました。4年間、シェイクスピアやアメリカの作家ではなく、東南アジアや日本、アフリカの作家を研究していました。東南アジアという地域だけでなく、東南アジアを含む発展途上国についても早くから意識していました。その共通点に興味を持ったのです。
また、SEASREPによる学部生向けの短期移動教室プログラムがあり、私は2000年に参加しました*6。他の東南アジア諸国からの学生と一緒に、2週間にわたってタイを旅行し、タイの学者による講義やディスカッションが行われました。私はまだ若かったので、すべてを理解することはできなかったかもしれませんが、非常に興味深く、学部課程とともに、東南アジアへの入り口となりました。
それ以来、この地域に関わる仕事をしたいと思っていたのですが、なかなか機会がありませんでした。しかし、シンガポール・ビエンナーレやシンガポール・ライターズ・フェスティバルでシンガポールに呼ばれて行けるようになってからは、東南アジアという非常に身近な地域空間に帰ってきたような気分になりました。
*6 SEASREP(東南アジア地域研究交流プログラム)は、1995年に国際交流基金とトヨタ財団との共催で始まった、東南アジアの研究者による東南アジア地域研究を推進するプログラム。
シャーミラ:以前は東南アジアにあまり関心がなかったので、興味深いですね。それは、シンガポール・ビエンナーレのおかげかもしれません。10年近く前に初めてシンガポール・ビエンナーレに参加したとき、自分の居場所を感じました。マレーシアは小さな国で、西洋やインド、中国からの影響を受けていますが、私たちはそのいずれの空間にも属していません。それらはとても大きく、異なっています。シンガポール・ビエンナーレに行ったとき、私が行った年は東南アジアが中心でした。フィリピンやタイの作品を初めて見たとき、彼/女らは飛行機で40分か2時間の距離にいるのに、彼/女らが何をしているのかほとんど知らないことに気づきました。確かに、言葉の面では違います。確かに言語も違えば、文化も違います。しかし、私は彼/女らに大きな関心とつながりを感じました。それは、私たちが皆、小さな国や見落とされた文化を持っているからかもしれません。ここに私の「脈」があると感じたのです。この地域の人々に会えば会うほど、私たちを結びつけるものが何なのか、まだはっきりとはわからないのですが、私たちは非常に異なっていますし、効果的に協力する方法も見つけられていないと思います。それでも、アメリカや英国とのつながりよりも強い何かを感じます。歴史的に見ると、人々の表現方法のような単純なことでも、多くの違いがあります。しかし、この地域の人々と一緒に仕事をすればするほど、私はこの地域に魅力を感じ、東南アジアで仕事をしたいと思うようになりました。
アミター:2007年か2006年に初めてシンガポール・アーツ・フェスティバルに行ったとき、私はほとんど何も知らなかったのですが、それはアートのインフラのせいでもあります。ジャーナリストは旅費の予算を得るのに苦労します。例えば、エジンバラには自分でお金を払って行きました。
シャーミラ:この5年間で、マレーシアに来る東南アジアのパフォーマーやアーティストを以前よりも多く見かけるようになりました。でも、言語が課題になることが多いですね。
アミター:タイでは、日本に行きたい、日本で作品を発表したいと考えていました。BIPAMでも、シンガポール・アーツ・フェスティバルではなく、TPAMをモデルにしていました。私たちは、アジアの他の地域のことをもっと知る必要があると、徐々に意識するようになりました。各国の情報は、大手新聞社の海外特派員から聞くことが多いですね。今や私たちはマレーシアやシンガポールのことはよく知っていますが、ミャンマーやカンボジアのことはほとんど知りません。「アジアン・アーツ・メディア・ラウンドテーブル」では、そのような状況をもっと改善しなければならないということで、BIPAMとも話し合いました。当初、BIPAMはもっと幅広いプログラムを持っていましたが、その後、東南アジアにフォーカスするようになりました。それは、私たちがTPAMに行ったときに、日本に東南アジアの仲間がたくさんいることが不思議だったからです。「東南アジアにも同じようなスペースを作ってはどうだろう」と思ったのです。それが今では、そういうアプローチに賛同してくれる人が増えてきたことは、とても嬉しいことです。
内野:皆さん、本日はどうもありがとうございました。
インタビュアー:内野 儀(うちの ただし)
1957年京都生れ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。博士(学術)。岡山大学講師、明治大学助教授、東京大学教授を経て、2017年4月より学習院女子大学教授。専門は表象文化論(日米現代演劇)。著書に『メロドラマの逆襲―〈私演劇〉の80年代』(勁草書房、1996年)、『メロドラマからパフォーマンスへ―20世紀アメリカ演劇論』(東京大学出版会、2001年)、『Crucible Bodies: Postwar Japanese Performance from Brecht to the New Millennium』(Seagull Press、2009年)、『「J演劇」の場所―トランスナショナルな移動性(モビリティ)へ』(東京大学出版会、2016年)ほか。公益財団法人セゾン文化財団評議員、アーツカウンシル東京ボード委員、公益財団法人神奈川芸術文化財団理事、福岡アジア文化賞選考委員(芸術・文化賞)、ZUNI Icosahedron Artistic Advisory Committee委員(香港)。TDR誌(The MIT Press)の編集協力委員。
撮影:平岩亨