インドネシア映画の新たな潮流

Report / アジアフォーカス・福岡国際映画祭2015

世界各国で共通する「上映」する場の不足問題

このように見ていくと、今のインドネシア映画は理想的な状況を迎えているように思える。しかし、目を背けてはいけない厳しい現実があるとメイスクは指摘する。じつのところ、インドネシアの若手映画人たちは国内では苦戦を強いられているのだ、と。

映画のスチル画像

『サガルマータ』(2013) インドネシア

 その問題とは、上映する場の不足である。インドネシアでは「21シネプレックス」という最大手チェーンが国内スクリーンの80%以上を独占しており、上映スケジュールのほとんどがハリウッドのブロックバスター映画で埋まっている。そのごくわずかな隙間に自国映画を押し込まねばならない。つまり強者の一極集中によりマイナーポジションの作品が簡単に排除されるという、グローバリズムの競争原理がモロに影を落としているのだ。言い換えれば、ビジネスとして成立するほどには意欲的な自国映画を積極的に鑑賞する観客の数が育っていない、ということでもあろう。

そんな現状を受けてメイスクは、日本のミニシアター文化の充実がうらやましいと語る。彼女が2年ほど前、日本に半年ほど滞在した際、東京だけでなく各都市に意欲的なミニアシターがあり、旧作も含めた多様な映画を上映している状況を目の当たりにして非常に驚いたそうだ。ちなみにインドネシアでは、ジャカルタにある「キネフォーラム」が国内唯一のアート系ミニシアターとなる。

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『シェリナの大冒険』(2000) インドネシア

 しかしその発言を受けて、司会をつとめた同映画祭ディレクター梁木靖弘が「いや、じつは日本も厳しくなりつつある」と返す。そう、1980年代から90年代にかけて世界でも異例のミニシアター隆盛を誇った日本も、ゼロ年代以降は代表的な映画館が次々と閉鎖していく縮小傾向が加速している。かつて先鋭的な作品選択センスで時代を牽引した渋谷・シネマライズも、2015年11月27日公開の『黄金のアデーレ 名画の帰還』(2015)を最後の上映作品として閉館することを発表してしまった。言わば日本とインドネシアの映画状況は異なる方向から歴史を重ね、いまや同じ問題を共有しているわけだ。

もちろん日本の場合、シネコンでもヨーロッパやアジアの映画がプログラムに組み込まれ、ある程度の多様性は担保されているし、自国映画の存在感も比較的大きい。だが日本のインディペンデント映画の多くは、やはりメジャーの配給ネットワークからこぼれたパイのなかで戦わざるを得ない。

しかしもっと言うと、これは市場での自由競争がもたらす世界共通の構造的問題であり、ハリウッドを有する当のアメリカですら根っ子の事態はそう変わらないのだ。第87回アカデミー作品賞に輝いたアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督の『バードマン(あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014)などを観ると、アメコミ物などブロックバスター映画の脅威に「小さな映画」たちがいかに抑圧されているかがよくわかる(むろん基本的な予算レベルは他国と全然違うことが前提だが)。

競争原理VS多様性。新たな人間理解をもたらすきっかけとなるインドネシア映画

そうなると問題の核心は「競争原理VS多様性」ということか。多様性を確保するためには映画祭やミニシアター、自主上映会などの粘り強い継続は必要だし、あるいは有料配信など、インターネットも「上映する場」の範疇に含める発想は当然出るだろう。そのうえで映画館という空間、あるいは映画館へ行くという体験の優位性も再検討できるはずだ。

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『黄金杖秘聞』(2014) インドネシア

 一方、頼もしい傾向として挙げられるのは「作り手の増加」である。デジタルの発達で日常的な動画撮影が身近になった現在、インドネシアにしろ日本にしろ、いわゆるネタ一発勝負の面白動画だけでなく、映像で自分を表現したい、ストーリーを語りたい、という衝動に駆られ、映画を自らの表現手段として選択する若い世代が増えていくことは必然の流れだ。いまや一個人の手へと解放された映画の多様性と可能性は、じつはかつてないほど大きく広がっている。あとはその供給に対し、需要(あるいは受容)の側をどう成熟させるか。プラットフォーム、環境整備の最適化や更新がやはり一番の世界共通課題だ。

ともあれ『クルドサック』から約17年。本年のアジアフォーカス・福岡国際映画祭が伝えてくれたインドネシア映画の現在は、熱く、若く、志高く、1つのカルチャームーブメントとしてとても眩しいものだった。きっと今後、日本の映画人や映画ファンも、彼らから学ぶことが増えていくだろう。今回のシンポジウムの最後、メイスクは「映画を通して多様性を享受することは、人間理解の根本だと思う」という大切な言葉で締めてくれた。まさしく新たな人間理解をもたらしてくれるインドネシア映画の動きに、あなたも触れてみるのはいかがだろうか。