多言語主義と言語のポリティクス
―シンガポールという国は、言語の持つ力を認識し、言語政策をネイションビルディングのために戦略的に用いてきました。それは『ホテル』でも非常によく表現されています。この作品では9つの言葉が用いられているんですね。俳優たちは数カ国語の台詞を覚えるために苦闘していました。いくつかは、彼らがまったく知らない言語だったのですから。このように言語が作品の中心的な位置を占めるというのは、当初から予想していたのですか?
アルフィアン:はい、完全に。座組みにあたって、俳優にはまず「で、あなたはいくつの言葉を話せるの?」と聞きました。シンガポールでは言語が力だというのは確かです。一方では言語政策は平等主義を目指していると言うことが可能です。マレー語、標準中国語、タミル語、英語を公用語とする4言語政策がとられており、だからこそ国中どこでも複数言語の看板があるわけです。しかし、また一方では、政府は言語教育や使用を厳しく管理してもいます。時には官僚機構特有の融通のきかなさが現れることもあります。例えば、自分の母語が公用語とされる言語に当てはまらないという人々もいます。その場合には政府が強制する「母語」を習わざるを得ないのです。我々はそこで政府が「母親」であることを思い知らされることになります。シンガポールの多言語主義、多文化主義については、十分に議論が尽くされていないと強く感じます。まだまだ考えるべきことがあるはずです。
―しかし、シンガポールでは多言語演劇の重要な実験が行われてきています。故クオ・パオクンの『ママは猫を探してる』はその一例でしょう。政府の二言語政策に見られる文化本質主義への反論として、彼は多言語環境の日常においてシンガポール人たちが経験する多様性や複雑性を表象する戯曲を書いたわけです。演劇における多言語主義というとき、あなたが持っているイメージはどんなものですか?シンガポールにおける多言語演劇の可能性とはどんなものなのでしょうか。
アルフィアン:難しい質問ですね。たぶん、私たちは英語が仲介言語であるということを、当然のこととして受け入れすぎてしまっているのではないでしょうか。『ホテル』においてさえ、字幕はすべて英語でした。この国の教育システム、それに現在の状況から、これは当然視されています。でも、時々思うのですが、この前提から逃れる方法を見つけることはできないのでしょうか。
振り返ってみると、1963年に実現することになるマレーシアとの合併への準備として「シンガポールのマラヤ化」というスローガンが叫ばれた1950年代には、シンガポールの国語はマレー語でした。しばらくあとには標準中国語が事実上の国語となりました。多数派である中華系の母語だったからです。シンガポールの多言語主義は常に揺れ動いており、多言語環境も変化し続けています。私は、このような流動性を表象するために、演劇における言語使用のあらゆる可能性を探ってみたいと思っています。
シンガポール演劇のもうひとつの問題は、マレー語演劇、標準中国語演劇、タミル語演劇、英語演劇と言ったように、いくつもの言語グループが存在することです。それぞれの演劇コミュニティは、独自のテーマをもって活動しています。標準中国語演劇―そう呼ぶのは潮州語や福建語など、方言による演劇はきわめて少ないからなのですが―は、ある特定の問題に取り組んでいます。
でも、こう思うこともあります。非マレー人の俳優がマレー語の作品でマレー語を話したらどうなるだろうか、と。実は何度か試してみました。このような「越境」が起こると、言語とエスニシティを同一視することは難しくなります。このふたつを同じものと考えるように仕向けているのは政府なのです。私たちに本質主義的なモデルを押し付けようとする政府の言説に対抗する術を身につける必要があるのです。
―あなた自身、英語とマレー語の両方で作品を書かれます。どちらの言語の方が書きやすいですか?
アルフィアン:そうですね、英語でしょうか。両親や兄弟と家で話すのはマレー語ですけれど。でも、本当に幼い頃から、英語は私とともにありました。学校ではそれが生活の一部だったのです。自分は英語がそれほどうまくないことを自覚していたからでしょう、私の母は私には英語の能力を身につけてほしいと考えていました。ある種の操作を受けたとも言えますね。入学の日に彼女は私にこう言ったのです。「マレー人の子と仲良くなってはだめ。マレー人以外の親友をつくってほしいの」と。このおかげで、学校生活を通じて、ほとんど英語だけでコミュニケーションをとるようになったのです。
考えるときには英語で考えます。夢を見るのも英語です。マレー語はもっとずっと中から出てくる、本能的な言葉だと言ってもいいかもしれません。無意識のうちにストレスを感じていたり、痛みを感じたりしているときに出てくる言葉なのです。
ドキュメンタリー・シアター:声なき声を求めて
―先ほど、小さき人々の歴史に関心があるのだという話がありました。それで思い出したのは、あなたが2012年に書いた『クーリング・オフ・デイ』という作品です。あなたは普通の人々から前年の総選挙についての意見を聞き取り、それをキュレートして作品にまとめ上げました。こうしたアプローチはどのようにして始まったのでしょうか。
Cooling Off Day (c) W!LD RICE
アルフィアン:ずいぶん昔、私が15歳の頃ですね。劇作家ハーレシュ・シャルマ *1 の作品に出会ったのです。私はラッフルズ学院というエリート学校に通っていたのですが、あるとき、「クリエイティブ・アーツ・プログラム」という育成事業が実施されました。若い作家を育成することを目的とした全国的なプログラムです。ハーレシュはそこで教えていたのですが、終了後、さらに1対1で勉強を続けるプログラムの参加者として私を選んでくれたのです。これには驚きました。作品をまとめて提出していなかったからです。周りの生徒たちはみんなよく本を読んでいて、頭のいい子どもたちでしたので、私はこのプログラムの授業中はいつもうちひしがれた気分になっていました。おそらく、ハーレシュは、公団住宅の遊び場で遊んでいる子どもたちについて書いた私の作品を気に入ってくれたのだと思います。他の生徒と違い、私は普段の話し言葉を使ってこの作品を書きました。彼も自分の作品ではごく普通の話し言葉を使いますので。
それ以降、ハーレシュの劇団、ネセサリー・ステージ(TNS)の芝居をよく見るようになりました。もちろん、ハーレシュも授業のなかで自分の戯曲をたくさん読ませてくれました。彼の作品に出会うなかで、本当に多くの目を見開かされるような経験をすることができました。彼は労働者階級に属する、確固たる立ち位置を確保していました。彼と彼の所属するTNSはその地域に根ざした人たちの声を作品にすることに熱心に取り組んでおり、彼らの劇作へのアプローチは私に多大な影響を与えたのです。彼らの作品を見ると、語られない物語がコミュニティにはいかにたくさん存在しているのかといつも思い知らされます。シンガポール社会は非常に階層化されており、他の層に比べて聞かれることが少ない声というものが存在するのです。ハーレシュのような劇作家の仕事は、こうした声を掘り起こし続け、発見し続けるものでした。
Cooling Off Day (c) W!LD RICE
―『クーリング・オフ・デイ』では、シンガポール人に対する大きな愛情を感じました。それは、聞かれることがない声を拾い上げようとするアプローチから来ているのかもしれません。一方で、あなたからのメールには、いつも「もしシンガポールを愛しすぎれば、まずあなたの熱意が砕かれ、続いてあなたの心が砕かれる」という一文が付されています。シンガポール人には愛情を持ちながら、国としてのシンガポールには大きな不満を抱えているように見えます。このふたつはあなたにとってはどう違うのでしょうか。
アルフィアン:そうですね、確かに愛憎相半ばするという感じなのかもしれません。でも、自分の同胞である人々と、国家機構の一部である政治的エリートとを区別することは重要です。それは必要なことなのです。例えば、マレーシアの友人たちを見ていると、この区別をしない限り、あっというまに希望を失ってしまうだろうと思ってしまいます。区別することで、政治的エリートに幻滅したとしても、まだ国民に対する希望を失わずにいられます。まやかしに過ぎないと思われるかもしれませんが、それでも「うん、これは僕らにふさわしい政府じゃないんだ」と自分に言い聞かせ続けなくてはならないのです。
*1 …シンガポールを代表する劇団のひとつ、ネセサリー・ステージ(TNS)の常任劇作家。代表作に『Lanterns Never Go Out』(1989年)『Off Centre』(93年)『The Exodus』(99年)。『Still Building』でSingapore Literature Prize(Merit)受賞(93年)、Young Artist Award受賞(97年). 2015年Cultural Medallion受賞。