「ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。
カンボジアの物語を、カンボジア人の視点から語りたい
渡辺 えり(以下、渡辺):『シアター・プノンペン』を観て本当に感動しました。若い女性がどんどん自立していく話でもありますし、私の大好きな映画の要素も、サスペンスの要素もありました。ラストは、本当に衝撃的なんですよ。言ってはいけない秘密がたくさん結末に表現されていて、それをこの場で言えないのが本当に苦しいのですが、物語の核心に触れないようにしながら、いろいろ監督にお話を伺っていきたいと思います。
クォーリーカー監督はどうしてこの映画を作ろうと思われたのでしょうか。まずはお仕事を始めたきっかけや幼い頃のことなどをお聞かせ下さい。
ソト・クォーリーカー(以下クォーリーカー):幼い頃のことを質問されると、いつもとても感情的になってしまいますので、もし泣いてしまったらごめんなさい。今日は泣かないよう努めます。
私は母と妹との3人家族で、父は大虐殺の際に亡くなりました。14歳の時に、母から父の写真をもらったんです。父の存在について知ったのは、その時が初めてでした。父は航空機のパイロットだったそうです。パスポートサイズの小さな写真だったんですが、私は毎回部屋に入ったら父の顔が見られるように、その写真を拡大して部屋の4隅に貼りました。彼がそばにいてくれるというふうに思いたかったんですね。そういう娘でした。生活は厳しく母はふたりの娘を育てるのに非常に苦労しましたので、私もまだ幼い少女の段階で早く大人にならざるを得ませんでした。
渡辺:大虐殺については日本でも『キリング・フィールド』という映画が有名ですよね。そこで本当に多くのカンボジアの人たちが殺されたわけですが、監督のお父さまも、殺されたひとりなのですよね。
クォーリーカー:そうです。彼は誠実であったが故、また当時の職業のために被害者になりました。どのカンボジアの家族も誰かを亡くしているので私だけが特別ではありませんが、幼少期の父の不在は私の人生にとても影響しました。母や周囲の人たちからたくさんの愛情を受け、いつも愛を感じていたので孤独ではなかったですが、それでも父の不在ということは常に心の中にありました。今でも葛藤はありますが一生抱えていくことだと思っています。
渡辺:そういう背景があったのですね。『シアター・プノンペン』を作ろうと思ったきっかけについてもお聞かせ下さい。
クォーリーカー:2001年頃『トゥームレイダー』でライン・プロデューサーになって以来、映像作家になりたいと思っていました。『トゥームレイダー』の撮影セットでは、見たもの全てに非常に感動し、その後映画が完成しロサンゼルスのプレミア上映に招待された時は、あの撮影セットで見たもの全てが実際にスクリーンに映し出されている様子を見てまた感激しました。国際的な舞台でカンボジアが映画の中に出ていることに心を動かされ、私もいつかカンボジア人として自分の手で国際的な舞台にカンボジアと映画を届けることができたらと思ったのです。
『シアター・プノンペン』は思い入れのある映画です。2005年でしょうか、私は自分が物語を語りたい、カンボジアとカンボジア人の物語をカンボジア人の視点から語りたいと思っていたことに気がつきました。様々な国の映画人によってカンボジアの映画が製作されるようになりましたが、それは外国人の視点から見たカンボジアであり、どちらかというと情緒的ではなく情報的な映画でした。世界は、カンボジアを外から見る視点だけでなく、中から見る視点も必要としている。私たちの国の、私たちの家族、私たちの感情の物語を、内部の視点から語る必要があると感じたのです。
歴史を用いて、よりよい未来を築く
渡辺:クォーリーカー監督をすごいと思うのは、ご自身のお父さまが軍人に殺されたにも関わらず、主人公の父親の職業を軍人にしたというところ。幾重にも苦しみがあったでしょうに、あの役を父親にしたという、その時の気持ちを聞かせていただきたいんです。すごいことだと思います。映画による力を信じて、自分の父親とだぶらせるその役を軍人にしたその意味をお聞きしたいのですが。
クォーリーカー:いろんな理由があって、父親役をとても興味深い人に仕立ててみました。まず家長としての父、そして娘と家族を守りたい父という、カンボジア人の伝統的な父親を描きたかったんです。今の先進国からみると、彼の守り方は間違っているように映るかもしれませんが、カンボジアや発展途上国では娘を守るという伝統がとても強いので、伝統的なやり方で娘と家族を守るカンボジア人的な父を描きたかったんです。そのやり方が間違っているか正しいかは、見る方に判断していただければいいと思っています。
加えて彼のキャラクターは多層的です。彼は元クメール・ルージュであり、そして現在の社会では非常に高い地位である軍の大将、大佐です。1998年、カンボジア政府は、和解プロセスのひとつとして元クメール・ルージュのメンバーを政府に招き入れ、それによって国をひとつにしようとした経緯があります。「私たちは共に生きお互いの声を聞かなければならないんだ」という理念の下で行われた、このカンボジアの近代史の一部を、映画の中に反映させたかったんです。また、彼の役が元クメール・ルージュの強力な軍人で父親であるという設定にしたのは、同時に彼も人間なのだということを描きたかった。彼は元クメール・ルージュであるけれども、彼も犠牲者であり罪を背負って生きています。映画の中では、彼が娘に対して、「罪を背負って生きるしかなかったんだ。それが分かるか?」と言いますが、彼は既に自分自身を裁いている。それはカンボジアの人々も聞く必要のある言葉だと感じました。彼を許すことは簡単ではありません。しかし、私たちは遮られた社会に生きているので、お互いの声に耳を傾けるのは大事だと思います。この映画は彼を許すためではなく、カンボジアの人々に彼の声を聞かせるためのものです。この役に内なる声を与えることで、他の犠牲者も彼の声を聞くことができます。そのことで彼をもう少し理解し、互いの隙間を近づけることができるのかもしれないと思います。
渡辺:監督自身のお父さまがそういう目に遭って殺されてしまった事実がありながら、客観的に物事を見る目を持っているというのが、すごいと思うんです。そうやって観客に、「さあ皆さんどうですか、この映画から何を思いますか」と投げかけている。その回答がひとつではないことを、映画の中で伝えたいと思ってらっしゃる。その心が、強くて優しい女性ならではの心なんじゃないかなと私は感じているんですね。主人公の少女に悩ませ成長させ、世界のことを分かろうとさせる。少女とご自身の状況を重ね合わせているわけですよね。少女が監督ご自身となるのですか。
クォーリーカー:そうですね、主人公のソポンは私自身の声でもあります。14歳から私はいつも自分の家族の背景を知りたいと切望していたのですが、母に聞くことができずにいました。ただでさえふたりの娘を懸命に育てて日々苦労しているところ、母を泣かせたり動揺させたくなかったんです。家族のことを知る手段は全くありませんでした。記録も教科書もありませんし、学校の先生たちもほとんど何も教えてくれません。そのため、2000年になり、数多くの外国人ジャーナリストや映画監督がカンボジアに来て、クメール・ルージュを題材にした映画やドキュメンタリーを作るようになると、私は志願して通訳者やコーディネーターとして一緒に働くことにしました。
2005年にはイギリスのテレビ局BBCと仕事をし、ポル・ポトの生涯を題材にした作品で、本当に深くまで掘り下げることとなりました。撮影中のある日は生存者や被害者、どうやって人を殺害したかを語る加害者に会い、またあくる日は、ブラザー・ナンバー2と呼ばれるクメール・ルージュの指導者のひとりにも会いました。私はそのプロジェクトに関わったことで強いトラウマを抱えましたが、そこでふたつのことを理解したのです。
ひとつ目は、なぜ母やその他のカンボジア人たちは過去の話をしたくないのか、共有したくないのかということです。カンボジア人にとって、良い記憶と悪い記憶は表裏一体なのです。良い過去や時代を話すとすぐに悪い時代のことも思い出してしまう。同じ時代に家族や愛する人を失っているからです。だからそのことを話したくないということがよく理解できました。多くのカンボジア人にとっては、語らないことが、自らが抱く痛みから自分たちを守り、同時に子どもたちを守る術であるのです。
母は過去について教えてくれませんでしたが、それは悪意があった訳ではなく、私を守りたかったからです。親が抱える重荷は、本当に重く耐えられない程のものです。なので、カンボジアの若い世代の人たちは、両親を責めたり決めつけたりしてはいけないと感じています。責めるのではなく、カンボジアの国民として、自分自身が過去を知ろうとするべきなんです。今の世代の人たちはインターネットもあるし、親に聞かずとも色々なものを使って、良いことも悪いことも過去の歴史を知ることができます。大切なことは、どうやって自分の歴史を用いるかということです。トラウマになり泣き続けるのか、歴史を用いてよりよい未来を築くのか、それが重要だと思います。
それからふたつ目は、プロジェクトに関わったことによって、私が何をすべきかが分かったということです。それは、「私も物語を伝えたい」ということでした。私の経験したことや生きてくぐり抜けてきたことを、私の声と感情を使って伝えたいと思いました。ですので、ソポンは私の声であり、私の感情です。『シアター・プノンペン』は、「状況」と「感情」のふたつに基づいて作られた物語です。映画の中に描かれているのは、私の家族の状況であり、その他の部分はカンボジアの家族の状況を描いています。そして感情の面では、私の家族の感情を描いています。製作で難しかった部分は、私の状況と感情を反映しつつも、この映画を私の物語としてだけではなく、カンボジアの物語として伝えることでした。とても感情的になることはありましたが、この映画がカンボジアの物語としての大きなイメージを描けているかを、物語に関わる人物としてではなく、監督として一歩下がってみることが必要でした。
*1 東京国際映画祭では、同作品は『遺されたフィルム』という邦題で上映された。(英題:The Last Reel)
*2 ライン・プロデューサー…製作現場を総括し、一般スタッフの人件費や技術費用に関する予算やスケジュールに責任を持つ職務
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