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東南アジアの文化セクターをリードする次世代の社会起業家の姿 ――プリム・プルーン インタビュー

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

祖国でアートの仕事を始めたわけ

―まず始めにプリムさんの生い立ちについて伺えますか?

プリム・プルーン(以下プリム):私はクメール・ルージュ *1 の時代にカンボジアで生まれました。ご存知かもしれませんが、クメール・ルージュは約200万人の国民を虐殺しました。私は両親のおかげで生き残ることができましたが、幼かったのでその時代に生きたという感覚がありません。

―子どもの頃にカンボジアで過ごした記憶はありますか?

プリム:唯一の記憶は爆弾の音で、それだけです。本当に何が起きたのかを知らず、その時代の残虐な行為も見ていません。戦争を体験した両親を持つ子どもは両親と同じトラウマに悩むと言われていますが、私は幸運にも、その症状がありません。
私が3歳の時に、両親は私たち兄弟を連れて国境を超え、タイの難民キャンプに避難し、間もなく、カナダに移住しました。私の第一言語はフランス語で、今でもフランス語で物事を考えます。物心がついた頃から自分をカナダ人だと思っていたので、祖国に帰るという考えがありませんでした。しかし、人生はわからないもので、さまざまな巡り合わせによって人は生まれた場所に連れ戻される気がします。
私は大学を卒業し、カンボジアに行くと決めたのですが、それはカンボジアで事業を立ち上げたいという両親の夢に付き合うぐらいの気持ちでした。私は大学で企業経営を専攻し、国際企業経営の学士号を取得していたので、カンボジアで1年を過ごした後は、カナダで経営学修士(MBA)を取得するつもりでいたからです。

インタビューの様子の写真

写真:鈴木穣蔵

―カンボジアでは始めに何をされたのでしょうか。

プリム:カンボジアに到着してすぐに、シェムリアップ州で「アルティザン・アンコール(Artisans Anglor)」を立ち上げた人たちと出会いました。アルティザン・アンコールは伝統工芸を再生し、地方の若い人たちに職業訓練の機会を与えるプロジェクトです。プロジェクトに参加した若い人たちは伝統工芸のスキルを習得し、家族を養う仕事に就くことができます。当初は欧州連合(EU)の支援によるプログラムでしたが、プロジェクトの持続性を考え、ビジネス・モデルを模索しているところでした。
その設立者は私が大学で経営やマーケティングを勉強していたことを知ると、アルティザン・アンコールで一緒に働かないかと声を掛けてくれました。当時、私は22歳とまだ若く、人生で初めての仕事でした。私の役割は新しい市場を開拓することでした。私はカンボジアで成長している観光に目を付けて、プロジェクトのビジネス・モデルをつくりました。アルティザン・アンコールで働き始めたのが1998年で、当時の売上は4.5万米ドルでしたが、その10年後の売上は1,000万米ドルになりました。そして、EUの支援から財政的に自立した民間企業へと成長することができました。組織は民間企業ですが、若者に職業訓練と仕事の機会を与えるという社会的なビジョンを持っています。当初は社会的企業(Social Enterprise)という概念を意識していませんでしたが、手工芸の社会的企業として東南アジアで最も成功したモデルのひとつになったと思います。

自分のルーツを探す旅

プリム:それからしばらくして、大きな変化がありました。それは母と生まれ故郷の郊外の村を訪ねたときの出来事です。カンボジア国内で10年も生活をしていたのですが、母が勧めてくれるまでは生まれ故郷を訪れるという発想がありませんでした。
生まれ故郷に到着すると、私を覚えている様子の老者が近づいてきました。私の母が「内戦の時の子、一番年下の子よ」と話しかけると、老者は親しみを込めて私を撫で始めました。そこは都会から遠く離れた小さな村なのですが、初めてこの土地で生まれたのだと実感しました。老者が「生まれた場所を見たいか」と聞くので、後を追いかけて行くと、よく知っている何かが蘇ってきました。それは暑さとにおいで、人の記憶に鮮明に残るのは「におい」だとよく言われますが、今までに抱いたことのない感情でした。老者が足を止め、「この場所に家があって、そこで君は生まれた」と言うと、突然、すべての記憶を取り戻したような気がしました。そのような感情を抱くとは一度も想像したことがありませんでした。それから、私はカンボジア人のひとりで、母国のために何かができると確信しました。その情熱が私を駆り立て、今の活動があるのだと思います。それは仕事ではなく、私の情熱を満たすためにしている活動です。結局、その旅は母国の発展に貢献する意義を理解する、予想以上の成果がありました。

  インタビューの様子の写真

写真:鈴木穣蔵

―それはアルティザン・アンコールの仕事にも影響があったのでしょうか。

プリム:その旅を終えた後、アルティザン・アンコールを辞めると話しました。アルティザン・アンコールの仕事でも成し遂げていたことかもしれませんが、私は何か別のことをしたい気持ちになり、自分の会社を立ち上げたいと考えました。私は設立者のひとりで、副最高経営責任者だったので、周りの人たちはなぜ組織を離れたいと思うのか理解してくれませんでした。それでも、それまでの生活とは何か違うことをしたいと思ったのです。
最初はビジネスについて考え、韓国から建設資材を輸入する事業を始めました。カンボジアにその需要があることがわかっていたので、貿易を始めました。しかし、すぐにその仕事を退屈に感じました。儲かる仕事でしたが、私がやりたいことではありませんでした。

ビジネスの視点で社会を変える

―それから、すぐにカンボジアン・リビング・アーツで仕事を始めたのでしょうか。

プリム:カンボジアン・リビング・アーツの設立者とは、カンボジアに帰国してからの付き合いで、理事を務めたこともありましたが、すぐにスタッフとなったわけではありません。ちょうど、新しい何かを探していたときに、その設立者から手を貸して欲しいと頼まれたので、彼らのプロジェクトを手伝うようになりました。
それからしばらくして、伝統音楽を若い世代の人たちに教えるクラスを視察するために、地方の農村を訪問しました。貧しい若者が伝統音楽を習っているのですが、なぜ、彼らが伝統音楽に一生懸命になれるのかが理解できませんでした。そして、その理由を知りたいと思ったのですが、彼らは伝統音楽を演奏する技術を学んでいるのではなく、何百年も受け継がれている伝統や人生のスキルを学んでいることに気が付きました。つまり、芸術だからということではなく、芸術が人々に与えるものがあるのを知ったのです。若い世代の人たちが芸術と関わりを持つ機会を増やすことができたら、国の未来を担う市民を生み出すことができると考えるようになりました。

―それはとても大きな発見ですね。

プリム:はい。それから、何か意義のあることをしたいという思いが強くなったときに、カンボジアン・リビング・アーツの設立者が、エクゼクティブ・ディレクターの職に興味があるかと誘ってくれました。しかし、私はビジネス出身なので非政府組織(NGO)の仕事はできないと答えました。手を取り合い、歌を歌い、それで世界を変えるというのが私のNGOのイメージだったからです。私は問題解決をとても合理的な方法でしたいと考えるタイプなので、自分のアプローチがNGOに合うとは想像ができませんでした。しかし、その設立者は社会起業について話をしてくれました。世界のNGOは大きな転換期にあり、民間セクターも同じだという話でした。例えば、ハーバード大学でビジネスを学び、卒業後に銀行や大企業、多国籍企業で働いている人の多くが、その人生を幸福と感じていないといわれています。世界のために何か新しいことをしたいと考える若者は営利から非営利に移り、非営利の運営方法を改革しています。ボランティアを頼りにする慈善事業のモデルでは、事業を長期的に継続できないからと考え、彼らはビジネス・プランを作成し、戦略を立てます。そして、ソーシャル・インパクトをもたらす合理的な工夫をしているのです。それが、社会起業家です。

  インタビューに答えるプリムさんの写真

写真:鈴木穣蔵

プリム:私はそれを知り、とても興味を持ちました。私はビジネス出身と言いましたが、ビジネスだけでは人生を満たすことができないと感じていたので、理事ともう一度話をして、何か新しいことに挑戦できるかもしれない、その挑戦をしてみたいという気持ちを伝えました。
なぜ私が文化や芸術で働くことになったのかについて話しましたが、結局、自分のルーツを見つけることがいかに重要なのかがわかりました。それによって、祖国に貢献したいという気持ちがとても強くなったのです。


*1 …1960年~1990年代に存在したカンボジアの反政府武装組織。ポル・ポトを中心に反対派を大量虐殺、粛清した。