「ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。
フィリピンとアメリカと日本。私の家族の歴史とこの三国の政治的・歴史的な結びつきとのあいだには、深い関わりがあります。本日私が話すのは、両者がどのように絡み合っているか、われわれが過去を解釈するとき記憶と忘却はどのように作用するのか、また、それらが日本とフィリピンの結びつきについてのわれわれの認識をどのように形作ってきたのか、についてです。ここでは学術的な長いエッセイを読むようなことはせず、数枚の写真を使い、19世紀末から現在にいたるまでの三国の複雑に入り組んだ関係を示すいくつかの話を紹介できれば、と思います。
親それぞれの日本
フィリピン史において日本は、ほとんどの場合第二次世界大戦、より正確に言えば太平洋戦争の経験の中で語られます。私の父は、若い頃から兵士としてこの戦争に参加しました。私は、1946年10月に生まれました。日本が敗戦して1年後、フィリピンがアメリカから独立を勝ち取った3ヶ月後のことです。
この写真は、1946年12月に撮影されたものです。アメリカ陸軍指揮官の制服を着た私の父ラファエルが、私を抱き上げて笑っています。沖縄でアメリカ軍を指揮していた父のクリスマス休暇中に撮ったものです。フィリピン人が日本の土地を「占領していた」ということを強調しておきたいと思います。
1920年10月に生まれた父は、アメリカの植民地支配(1901-46)の申し子のような人でした。父は1939年にフィリピン軍士官学校に入学志願して、幸運にも数少ない合格者の一人になりました。翌1940年、士官学校の新入生になった父は優秀な成績を収め、さらに高度な訓練を受けることのできる二人の枠に選ばれ、ウェスト・ポイントにある米国陸軍士官学校に転入しました。
父によれば、ウェスト・ポイントに送られたことで、アメリカに対する恩義の念〔utang na loob〕が芽生えたそうです。父の世代の前途有望な若い男女がみなそうだったように、アメリカに政府給費留学生〔pensionado〕として送られることは、誰もが夢見る最高の処遇だったのです。彼らはまた、フィリピン人たちを「近代的」で独立にふさわしい人間になるべく「指導」するというアメリカ占領の目的を遂行してもいました。
父がウェスト・ポイントで訓練を受けていた時期は、戦争の時期と重なっています。ここで父の物語のなかに日本が登場することになるのですが、日本は単に戦時の敵国であったというだけではありませんでした。多くのアメリカ人の目から見れば、自分はあいかわらずひとりのアジア人だということを、父に思い出させる存在でもあったのです。ここに『タルサ・トリビューン』紙の切り抜きがあります。この記事には、日本人に抗するために、父がアメリカとの協力関係にどれほど専心していたかが克明に書かれています。引用します。
米軍士官候補生として厳しい訓練を受けた彼〔=ラファエル M. イレート〕は、日本人の手から自国を取り戻すために尽くすことを自らに誓った。「俺はジャップどもを本気でブチのめしてやる、あいつらが俺の国の人間にしたみたいに」と彼は言うのだった。*1
*1 "Learning How, Now, Then Look Out! Filipino Trainee Just Itchin' to Smack Jap," The Tulsa Tribune, June 1943.
たしかに、今読んだ箇所には強烈な言葉が並んでいます。ですが、士官候補生だったイレートはこうした言明をする一方で、自分自身がいつも日本人と間違われることにひどく苛立っていました。ウェスト・ポイントの機関誌『イン・コラム』に掲載されたひとつの事件が、そうした事情をドラマティックに描き出しています。この事件で父は、農夫の集団からもう少しでリンチを受けるところでした。
犯罪多発――不時着した軍用機に搭乗していたフィリピン人士官候補生のひとりは、今まさに、農夫の集団の湧き立つような興味の中心に置かれていた。農夫たちはわれらが士官候補生を目撃するや、その興味は脅威へと変わり、彼らは熊手や鍬、鎌といった粗暴な武器を手にしたのだった。彼はあやうくリンチされるところだった。暴徒たちに、自分が日本人でないと分かってもらうのには長い時間を要した。*2
*2 ウェスト・ポイントの機関誌『イン・コラム』からの一頁。
長い軍人人生のなかでも、どうやら父がこれほどまでに命の危険にさらされたことはなかったようです。皮肉なことに、ここでの敵は日本人でも抗日人民軍(フク)*3 でもなく、アメリカの白人農夫だったのです。この事件は、過去の亡霊を呼び覚ますものでした――比米戦争(1899-1902)では、アメリカにとって太平洋の敵は、まだ日本ではなくフィリピンだったのです。
*3 抗日人民軍(フク〔Huk〕)は、「フクボン・バヤン・ラバン・サ・マガ・ハポン〔抗日人民軍〕」ないし「フクボン・ラバン・サ・ハポン〔反日軍〕」の略。ルソン島中部の農夫たちからなるコミュニストのゲリラ集団で、日本による占領に抗するレジスタンスの一部として、1942年に結成された。
軍人だった父には生涯戦いつづけた敵が、主としてふたつありました。ひとつは日本軍、ひとつはルソン島中部で結成されたコミュニストのグループです。スペインからの独立を求めた革命(フィリピン革命、1896-98)も、それに続く比米戦争も、父にとってはあまり重要ではなく、彼の過去の記憶に深く刻み込まれているのは、第二次世界大戦における抗日比米共同戦線でした。
これは、アメリカ陸軍フィリピン第1歩兵師団の将校たちを写した写真です。マッカーサー元帥の部隊とともにフィリピンに帰還する直前にサンフランシスコで撮られたものです。フィリピンに到着する前に、南西太平洋の「飛び石」作戦(別名「カートホイール」作戦)に参加した彼らの話は、太平洋戦争を学んだことのある人にとっては馴染みのものです。当時中尉に昇格していた父は、アメリカ陸軍のレンジャー部隊の一団を率いていました――この部隊はニューギニアで日本兵と戦い、本隊よりも先にルソン島に上陸して、カバナトゥアンにあった日本軍の捕虜収容所からアメリカ兵を解放する手助けをしました。
この話は、日本による支配からフィリピンを解放するために張られたフィリピンとアメリカの共同戦線の物語の一部になっています。アメリカとフィリピンが共有する歴史にとって欠かせない構成要素として現在も支持されつづけているのです。
これは1947年7月4日に、沖縄でフィリピン第44歩兵師団が企画した「アメリカとフィリピンの独立」を記念する祝賀会の謄写版の招待状です。ここにフィリピンとアメリカが共有する歴史を垣間見ることができます。この招待状を見ると、祝賀会のプログラムでは両国の唱歌や国歌が歌われ、アメリカとフィリピンの独立が「同時に」祝われたことがわかります。これは単に、アメリカ独立の日とフィリピンの独立の日が一致しているから、ということだけではありません。フィリピンの独立がアメリカの指導の賜物だと理解されていたからでもあるのです。父アメリカとそのもとで成長した娘のフィリピン共和国、また先生としてのアメリカとその生徒であるフィリピン共和国が、日本人を共通の敵としてともに戦うことで結束した、という解釈です。
この戦争の後、父はアメリカの市民権取得を打診されたのですが、これを断って再独立後のフィリピン共和国で軍の将校になりました。この写真は、当時少佐だった父が、スカウト・レンジャー養成部隊の第1期卒業式で、卒業生を前に祝辞を述べているところです。写真中央、聴衆のなかにアメリカ人将校とその妻が出席していることに注目してください。父イレートはコミュニストとの戦闘のなかにあったのですが、そんなときでも彼は、アメリカ人のアドバイザーから指導を受けていましたし、1946年にフィリピンが独立国家になった後ですら、彼はアメリカの存在に自らを重ね合わせていたのです。
彼らが戦闘をともにしたというこの歴史は、40年前に起きたもうひとつの戦闘を忘却することで、両国で共有することが可能になり、少なくとも容易に受け入れられるものになりました。たとえば父は、比米戦争が本当にあったとは信じませんでした。父はこれを、コミュニストが喧伝する反アメリカのプロパガンダだと無視してさえいました。彼は自分の父親がその戦争に関わっていたことさえ知らなかったのですが、それも当然です。
私は、アメリカ国立公文書記録管理局で、捕虜になった反乱軍兵士の記録のなかから、私の祖父フランシスコ・イレートが1900年にイシドロ・トーレス将軍(1866-1928)――ブラカン州のフィリピン革命軍の将校――に宛てたタガログ語の手紙を見つけました。いろんなことが書かれていましたが、そのなかに祖父がこの将軍に仕えていたことが記載されていました。ところが、この手紙はアメリカ兵に押収され、フランシスコは反乱軍のスパイとみなされたのでした。
この手紙を書いた当時、祖父は共和国の国民として、アメリカによる占領に対する抵抗運動に参加していました――祖父は自分の子どもたちにこのことを伝えていません。これは、アメリカによる新体制のなかで成功することを熱望した祖父の世代の多くの人がとった選択でした。こうして祖父は、植民地の公立学校制度のなかで数学の教師になったのでした。
私が公文書館で見つけた資料は、1900年の時点で祖父がアメリカの侵略を妨害するスパイであったことを明かすものだったわけですが、これを見た父は当然ひどく驚き、ショックすら受けていました。父にとって比米戦争は、「なかった出来事」だったわけですから。アメリカの教育システムは、この戦争を忘れさせようとする歴史記述を導入していったのです。こうした歴史記述は、フィリピン人たちと彼らの教師たるアメリカ人たちが結びつくよう促し、今なおつづく両者の「特別な関係」の鍵となっています。
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