さてここで、母についても語りたいと思います。母方の家族の話は、父方のそれとはまた違った物語を提供してくれます。この写真は、1946年に撮られたものです。母オルガが私を抱いているところです。背景に写っているのは、マニラ・ホテルです。このホテルは、フィリピン・コモンウェルス時代の1938年から41年のあいだ、マッカーサー元帥の司令部だった場所です。母は戦争を経験していません。学生として、アメリカにいたからです。父ともアメリカで出会ったのでした。
母の姉リダ・クレメーニャは、ヴィセンテ・ディンラサンという、勇ましいゲリラ部隊の将校と結婚していました。ところがこの彼女の夫は、憲兵隊という日本の秘密警察に捕まりました。叔母のリダは、自身が抱える果てしない喪失感を埋めるように、夫に対する愛や、彼が抱いていた愛国心、そして彼の亡骸を探し求めていることを、詩にしたためはじめました。叔母は戦争の不条理を書きましたが、興味深いことに、彼女の詩のなかに敵国日本に対する憎しみの言葉は見られません。おそらくこれには、戦時中、私の母方の祖父がついていた〔社会・政治的〕地位が影響していたように思います。
この写真の一番右に立っているのが祖父エングラシオです。彼の右隣にいるのがラモン・マグサイサイ(1907-57)です。彼はこのとき、大統領候補者に推挙されたばかりで、彼を推したのが、中心にいるホセ・パシアノ・ラウレル(1891-1959)です。彼については、後で触れることにします。
祖父エングラシオとラウレルは政治的な盟友でした。彼らはともにフィリピン大学で法律を学び、どちらも国民党の党員でした。祖父は立派な弁護士でした。しかし政治家としての才はあまりなかったようで、経歴としてはマニラの一国会議員どまりでした。一方、友人であるラウレルは祖父よりはるかに出世して、フィリピン共和国第3代大統領(日本の傀儡政権時代のフィリピン共和国初代大統領)になったのでした。
大統領就任の1943年、もちろん祖父はラウレル政権を支えていたわけですが――父方の祖父フランシスコと同じように――祖父は戦時の経験について誰にも語らずにいました。ラウレルと近い関係にあり、さらに義理の兄アウグスト・オンシアコが1930年代に東京帝国大学で医学を学んでいたこともあったために、おそらく祖父は、自分が日本の協力者であると見られることを恐れていたのでしょう。
祖父エングラシオの日本との結びつきは政治的な側面に加えて、年の離れた彼の妹プリフィカシオン・クレメーニャ――私は彼女のことをネネおばあちゃんと呼んでいました――が、日本と個人的な関わりを持っていたということもありました。1999年にインタビューをしたとき、彼女は、かつて結婚を約束したひとりの男性について語ってくれました。
この写真の男性は、名前は知らないのですが、フィリピンに駐在していた日本人将校です。〔隣の女性が、ネネおばあちゃんです。〕ふたりは戦時中に恋に落ち、長期にわたる文通を通して愛をはぐくみ、戦後には婚約するまでの仲になりました。フィアンセの家族に会うために日本に旅立ったのが、ネネおばあちゃんにとって最初で最後の海外旅行です。
ネネおばあちゃんによると、ふたりは愛し合っていたのですが、しかし日本人将校にとって、フィリピンへの移住はあまりに難しく、彼女にとっては、日本への移住はさらに難しいことだったそうです。この時代、日本に馴染んで生活するのは特別に困難なことだったからです。その上彼女は、叔母リダ〔=彼女の姪〕の二人の子どもの面倒もみていました。父親〔=ヴィセンテ〕が日本の憲兵隊に殺されていたからです。ネネおばあちゃんは彼らを置き去りにはできなかったのです。
このように、私の母方の家族のなかでは、日本は、父方のそれとはまったく違ったふうに位置づけられているのです。
メディアや大人たちが伝える日本兵の極悪非道の物語を浴びるように聞かされて、私は育ちました。日本は敵国で、アメリカは友人、味方、解放者だ、と。これが支配的な解釈でした。ところが日本に旅行したことで、日本に対する私のこうした恐怖は、たちどころに霧散したのでした。
日本とアメリカを異なる視点から見る
私が訪れた頃には、日本はもはやフィリピンの敵国ではありませんでした。1964年にオリンピックを主催した日本は、いわゆる自由主義諸国の砦へと発展し、産業社会の原動力として台頭しつつありました。このとき私は18歳でした。もちろん私も東京タワー、日光、箱根、秋葉原といった定番の観光地に行きました。日本に来た当初は、私にとって日本の魅力はテクノロジーとエンジニアリングで、たとえば私はアマチュア無線通信に熱中していたので、同じ趣味を持つ日本の人たちと連絡を取り合ったりしていました。しかし、しだいに日本の文化と歴史、さらにはアジアの文化と歴史のほうへと興味が傾いていきました。
私は基礎工学から転科して、1967年に人文科学の学位を取って大学を卒業し、その後奨学金を受けて、コーネル大学で東南アジア史と人類学の修士、博士課程に進みました。当時の特殊な時代状況を考えると、この頃アメリカで盛り上がっていたベトナム反戦運動からの影響を避けることはできませんでした。
これは1969年にコーネル大学の体育館で私が撮影した、反戦集会の様子です。私と同世代の多くがそうであるように、1968年から74年にかけて起こった反戦運動は、私のものの見方に深く影響しました。この反戦運動に参加したことで、私はフィリピンこそが「第一のベトナム」*4 であったことに気づかされたのです。60年代のおわりにアメリカで経験したことが、この国についての新たな理解を私にもたらしました。それは私がアテネオ・デ・マニラ大学で受けた教育からは抜け落ちていたものでした。アメリカは単にフィリピンに平和と民主主義をもたらした善意の父であったのではなく、帝国主義と植民地主義の凶暴な力でもあったのです。私が比米戦争に深く関心を抱くようになったのは、このときでした。
*4 この語は、ルズヴィミンダ・フランシスコの次の記事からの引用。"The First Vietnam: The Philippine-American War, 1899–1902," The Philippines: End of an Illusion 2, no. 2 (1973): 106–145.
コーネル大学での学生デモの際に掲示されていた貼り紙に、こんなものがあります。
カーペンター・ホール改め「ザップ=カブラル・ホール」は、解放区である。この名称は、ディエンビエンフーの勝者、ベトナム民主共和国の国防大臣ヴォー・グエン・ザップと、ギニアビザウの解放闘争の指導者アミルカル・カブラルからとったものだ。*5
*5 1972年、コーネル大学構内の建物の窓の貼り紙より。
このふたりはどちらも共産主義を象徴する人物で、冷戦時代にはフィリピン=アメリカ=日本同盟にとって「公認の敵」でした。ところがこの貼り紙は、いわゆる公認の敵を、学生たちの「非公認の英雄」として名指しているのです。ここで共有されている歴史は、公認のレベルに基づく歴史とは相容れないものです。ベトナム人、中国人、黒人、アフリカ人、フィリピン人、そして日本人の学生たちは、ここで何を共有していたのでしょうか?――それは、アメリカ権力の犠牲者としての経験です。
1970年代、私に重要な発見がありました。かつて横浜に亡命していたひとりのフィリピン人、アルテミオ・リカルテ将軍(1866-1945)のことを知ったのです。アルテミオ・リカルテは、フィリピン革命と比米戦争を戦った軍人でした。彼は、アメリカに対する忠誠の誓いを拒否し、そのために1915年から亡命者として横浜に移住し、1941年に日本の艦艇でフィリピンに帰還したのでした。彼は自分のフィリピン帰還に際し、熱のこもったスピーチをしました。そのスピーチは、タガログ語とスペイン語で活字化されています。以下がその冒頭箇所です。
わが国の親愛なる若者諸君――君たちの父親や周りの大人たちが、まだ今の君たちのような若者だった40年前のことです。私は彼らとともにアメリカと戦争しました……結局われわれは戦いに敗れましたが、それはわれわれに勇気や度胸がなかったからではなく、武器がなかったからです。彼らはアメリカ軍に心ならずも降伏したのでした。*6
*6 Artemio Ricarte, Sa Mga Kabataang Filipino [To the Filipino Youth], Manila, 1942.
リカルテは、比米戦争でフィリピン人が受けた苦痛が忘れられていることを力説していますが、それがこのスピーチの要諦です。なぜ若者たちは、スペインに対する革命での殺戮や破壊のことは記憶しているのに、アメリカとの戦争でのそれについては忘れてしまったのか?答えはアメリカの植民地教育にある、と彼は言います。それはスペインの残虐行為を記憶に定着させようとはするけれど、アメリカ軍が犯した同様の残虐行為については忘れさせようとするものだったのです。こうして、「フィリピンの盟友としてのアメリカ」が、支配的な物語になることができたのです。
私は1960年代の終わりになって初めて、リカルテと比米戦争の「忘却」について学んだのですが、このことは私がアメリカとフィリピンの「特別な関係」の歴史的基盤を問い始める決定的な契機となったのでした。
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