越境する映画制作の舞台裏 ――『アジア三面鏡』3監督シンポジウム

Interview / Asia Hundreds

アジア映画のたくましさとリアリティ

石坂:第3話の『Beyond The Bridge』にいきましょう。ソトさん、聞くところによると、非常に大掛かりな撮影で、政府や自治体など、普段では考えられないほどの協力があったそうです。

シンポジウムの様子の写真

クォーリーカー:最後のシーンは1990年の設定です。現在では日本カンボジア友好橋の隣にもう1本の橋がありますが、90年当時は存在していませんでした。もうひとつの橋を画面上から消さなければなりません。そこで橋を閉鎖して電気を消して撮影するわけですが、いろんな行政機関に許可を得るために奔走しました。
撮影は、カンボジアの暦でお正月(4月13日)の時期だったんです。カンボジアでは4月の第1週から企業も官庁も全部閉まるので、何もできなくなってしまう。橋の撮影許可を取ろうとにも、どこに電話をしても誰も出てくれない状況でした。やっと警察署につながって、「文化芸術省から許可を得ているし、どうしても撮影をしたい」と協力をお願いしたら、「僕はすごく日本が好きだ。日本の映画だったら助けましょう」と。ただ、警察の権限では橋の閉鎖はできても、橋の電気を消すことはできないというのです。
私は女優としても出演していますが、役の衣裳のまま、許可取りも懸命にやっていました。やがて市長とも直接電話で交渉することができて、なんとか許可を得ましたが、夜8時から明け方4時まで、と時間の制約がとても厳しかったです。それでも日本好きの警察署長の好意で、夕方6時から翌朝8時まで撮影できました。複雑なパズルを組み立てるような状況で、これは本当に大きなストレスでした。全部撮影できたことは私にとって、ミラクルだったと思っています。
振り返ってみると、本当に日本とカンボジアのスタッフの愛の結晶だと思います。全編10日間で撮影をしなければならなかったのですが、映画を作りたいという彼らの献身的な気持ちの賜物だと思います。

写真
『Beyond The Bridge』撮影風景

石坂:今日は『鳩 Pigeon』のプロデューサー、エドモンド・ヨウさんも来てくださっています。新進気鋭の監督ですが、今回は行定組のプロデューサーとして同僚のウー・ミンジン監督と一緒にスクラムを組んでいただきました。行定さんの現場はいかがでしたか?

シンポジウムの写真1
シンポジウムの写真2
行定勲監督の撮影現場について話すエドモンド・ヨウ

エドモンド・ヨウ:大変苦労いたしました。というのは冗談で、とてもいい経験になりました。プロデューサーという肩書ですが、メイキング撮影など、当初考えていたよりも中に入り込んでお手伝いさせていただけた実感があります。
私は日本に数年住み、映画撮影の参加経験もあるので、日本の現場はよく理解しています。今回、文化的なギャップがあったことは否定しません。たとえば、写真を撮ってSNSに載せるのも我々の気質ですから、ご理解いただければと思います。彼らにとっても、今回の撮影から学ぶことはたくさんあったと思います。プロ意識を持って現場をコントロールするには何をすればいいのか、何をしなければいけないのか。僕自身も含めて学びました。

行定:劇中に登場する家についてお話します。彼らが最初に紹介してくれたのは、以前クリストファー・ドイル*1 が撮ったホテルだそうです。ただ、ちょっとキレイすぎるので、次の場所へ移動しました。そこが今回の舞台になりました。スタッフの宿泊先でもあったんですが、古い家具もあって、圧倒的に素晴らしかった。

*1 オーストラリア出身の撮影監督。『恋する惑星』『天使の涙』などウォン・カーウァイ監督作品を始めとする、独特の色彩空間と映像構成で知られる。

撮影現場の写真

撮影の前日でしたが、「ここで撮影したい」と言ったんです。何の準備もしてないにも関わらず、エドモンドはちょっと考えて「OK」。撮影の前日にこんな変更が許されるのが、たくましい。おそらくダンテさんの現場でも、そうだと思うんです。インスピレーションを感じた場所で交渉して、OKだったらそこで撮る。もしくはOKじゃなくても撮る(笑)。アジアの映画のたくましさやリアリティは、きっとそこにあるんですよ。日本では絶対駄目です。「交渉や美術部がセットを作り変える時間が要る」「予定と違うのでやめてください」となるのが普通です。でも、彼らは臨機応変なんですね。一見困ったふりはしますが、考える時間は1分ぐらいで、「OK」。誰に聞くわけでもなく。全部きちんとかなえてくれる。たとえ、時間がかかったり、不完全でもあってもね。

シンポジウムの写真
マレーシアでの撮影を振り返る行定勲監督
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