歴史から見る今のミャンマー映画
藤岡:そのように映画界全体のことを広く考え、捉えられるのは、映画一家だったご家族の影響でしょうか。お祖父さまも映画監督、お母さまはプロデューサーであり、アカデミー賞を受賞するほどの脚本家でもある。歴史の流れの中で今のミャンマーはどうでしょう。
チィー:私の祖父の時代、1988年以前の時代ですが、映画は非常に盛んでした。*3 その当時は、映画監督が映画プロデューサーを兼務していました。自分の機材で撮影し、家にはミニシアターがありました。監督は本当に王様みたいに俳優から尊敬されていました。映画を撮影してはすぐに上映するから、随時お金は入ってきましたし、観客のほうも映画を非常に熱心に見ていました。当時は映画の黄金期でした。
1988年以降、映画は衰退し、ビデオ作品というものが登場して、1990年代以降に盛んになりました。しかし、監督にとってもプロデューサーにとっても、いい時代ではなくなっていました。この頃になると監督とプロデューサーが兼務、ということはなくなっていました。
私がこの業界に入ったのは1995年頃です。当初、映画ではなく、市場が広がっていたビデオ作品を撮っていました。1999年になって、初めて映画の製作に挑みました。ビデオだけの時代を経て、映画も再開される時代となっていました。まだ映画が非常に少なかったため、映画館は、製作された映画をほぼ全て上映してくれましたし、興行収入から支払われる割合も良かったです。
私が映画を撮るようになった時代の監督たちは、まだ若く業歴が浅い者ばかりで、ベテランの俳優を恐れるような空気がありました。昔からの役者さんを使ったほうが興行的に成功しますので、その方々に仕事をお願いすると、ストーリーが気に入らない、監督が信頼できないなど、仕事を受けてくれないこともありました。
*3 1988年、民主化運動が大きく沸き上がり、ソウマウン率いる軍部がクーデターを起こして政権を掌握し、まもなく諸外国の経済制裁が始まった。
藤岡:スター制度ですね。
チィー:2008年頃になると、私も映画監督として10年ぐらいの経験を積んでいましたし、新人俳優も出て来て、映画監督の地位が少し上がり、力を持てるような時代になりました。当時、会社は競って、男優さんと10本、20本という契約をするようになっていて、会社に所属する専属契約のような形が増えて、それは現在まで続いています。有名俳優を自由に起用できないため、私たちの会社では、新人俳優を使って映画を撮影するようになっていました。新人俳優をうまく売り出して、次の作品につなげていくようにしたのです。
2013、2014年以降は、売れている有名な俳優でも、新人映画監督を受け入れ、信用するようになってきました。2015年には、新人監督の数が増えてきました。現在では、俳優と監督の間に、お互いに尊敬し合う関係が生まれてきています。
藤岡:今、監督と同年代である30から40歳代の監督さんはどのぐらいいるのですか?
チィー:私と同年代の映画監督は2名ぐらいです。少し若い30代の方が4人程登場してきました。彼らのアーティスティックなセンスは、現在活躍している映画監督よりも素晴らしいものがあると思います。現在、観客は、彼らが撮った作品を知っていても、彼らの名前はまだ知らない状況です。その4人は非常に優秀な監督です。それから、作品がすでに公開された監督が4名ですが、まだ初監督作品を製作中の人もいますので、合計で6名程でしょうか。男性3名、女性3名ぐらいで。非常に優秀だと思います。
藤岡:撮影、照明、編集など映画の技術者は、お祖父さまの時代から育ってきていますか?
チィー:技術的にも非常に向上してきていると思います。カメラや機材自体が向上していますので、自分たちの祖父の時代とは全く違ってきています。特に2015または2016年以降は、非常に変化が激しいです。例えば、軍事政権時代は禁止されていましたが、現在は機材を簡単に自由に輸入できるようになりました。また、インターネットやEメールが発達してきて、オンラインで注文さえできるようになりました。
2016年はタイ人など外国人の監督を雇って撮影をする、ということがありましたし、ミャンマーの俳優を使ってタイで撮影するようなこともあります。また、マレーシアの監督と撮影クルーと撮影するようなこともあり、地域間での協力が盛んになってきていると思います。
藤岡:ご自身が影響を受けた外国映画はありましたか。
チィー:スティーブン・スピルバーグ、ジョン・ウー、それと韓国の映画。ミャンマーで人々に好まれるようなものと、似通ったような作品を見ます。ハリウッド規模のアクション映画をミャンマーで撮影するなんて夢のようなことですが、例えば、恋愛ものやドラマ、ミャンマーでうまくいきそうな作品をよく見ます。
ドキュメンタリーに関しては、外国の講師の先生から学びました。2005年から2007年の3年プログラムで、毎年1カ月の研修トレーニングに参加し、ドキュメンタリーについて学びました。*4
2本目に製作した2006年のドキュメンタリーが、アメリカのナショナル・ジオグラフィックのドキュメンタリー短編賞を受賞しました。当時は外国の撮影方法を教えてもらったわけですが、その手法は100パーセント自分のものにしたと思っています。
*4 ヤンゴン・フィルム・スクールという欧米系のNPOが主催するワークショップ。
藤岡:今回、日本に2週間滞在しながら、いろいろなネットワーキングの機会や、日本文化を知っていただく機会があったと思いますが、一番印象的だったことは?
チィー:一番、というのは言いにくいんですが。今回、私を招へいした国際交流基金が、非常によくお世話してくれました。それから、規模の違う三つの映画館を訪問して、短い期間の中で日本の状況を知ることができました。また、フィルム・アーカイブや映画撮影所を訪問した経験も実に有益でした。
日本人というのは、常に微笑みを浮かべていて非常にやる気に満ちている人たちだと気づきました。タクシーに乗っても、運転手さんは丁寧、親切に微笑みを浮かべて対応してくれる。通訳を通じていろいろ質問してもきちんと答えてくれる。目についたレストランに入って食事をしても、どこもサービスがよく、笑みを絶やさずに活動的に仕事をしている状況を目にしました。いつもお客さまを敬い、彼らを気にかけて仕事をしているというのが非常に印象的でした。
あと、日本人は歩くのが非常に早くて、私、置いて行かれてしまいます……(笑)。
藤岡:社会の歩みはミャンマーの方が加速しているようですが!
【2017年2月24日、国際交流基金にて】
インタビュアー:藤岡朝子
映画配給会社を経て1993年より山形国際ドキュメンタリー映画祭のスタッフに。2009~2014東京事務局ディレクター。2006年より韓国釜山映画祭のANDプログラムと助成金のアドバイザー。アジアのドキュメンタリー映画『長江にいきる』『ビラルの世界』を日本で国内配給し、アジアの映像製作者の合宿型ワークショップの連続主催を続ける。日本のドキュメンタリー映画『祭の馬』『三里塚に生きる』『FAKE』等の海外展開プロデューサー。
編集:滝本亜魅子(国際交流基金アジアセンター)
通訳:細川隆憲
写真:佐藤基