ミャンマーには、ほとんど映画館がないんです。市街地のショッピングセンターにいくつかあるぐらいで、アート系映画がかかることはまずありません。
―ミャンマーの映画界がどうなっているのか知らないことだらけなので、基本的なことを教えてください。たとえば商業映画では、どのような作品が主流を占めているのですか?
アウンミン:2012年までは事前検閲があったので、それに引っかからない無難なコメディー作品が主流でした。 以降は多少自由に制作できるようになってきたので、ホラーやラブストーリーも増えてきましたし、政治的なトピックを多少扱った作品も出てきましたね。
The Monk(2014)
―ただ、ミャンマーはたとえ都市部であっても映画館がほとんどないですよね。みなさんどうやって映画を観ているんですか?
アウンミン:たしかにミャンマーにはほとんど映画館がありません。市街地のショッピングセンターにいくつかあるぐらい。そういう場所で上映されているのはハリウッド映画ばかりで、アート系映画がかかることはまずありえません。国内・海外映画問わず、DVDを手に入れて自宅で見るケースがほとんどだと思います。
―現在のミャンマー映画業界についてはどう思われますか?
アウンミン:ミャンマーの映画界における一番の問題点は、エンターテイメント作品を作るために必要な技術を身につけた監督、撮影スタッフ、役者がほとんどいないことにあると思います。これは特にメインストリームの商業映画に関して言えることで、われわれのようなインディペンデントなアート系映画を作っている人たちは、こうして海外の関係者と触れあう機会もありますし、海外の映画関係者によるワークショップに参加することもある。でも、商業映画の関係者は基本的な技術を学ぶ機会がほとんどないのです。そうしたことを学ぶ場所がもっと増える必要があるでしょうね。
―アウンミンさんは、ヤンゴンフィルムスクールで教鞭も取っているとのことですが、学生たちはどのような目的意識を持って、映画業界にやってくるのでしょうか。
アウンミン:ヤンゴンフィルムスクールは、2005年に開設された学校で、ドキュメンタリー映画の制作に重心を置いています。1回のコースで15名ほどの学生を募集しており、監督志望もいれば、カメラマン志望の学生もいます。講師は海外の映画関係者がつとめることが多いですね。ミャンマーで映画を学べる場所は本当に少ないので、私も最初はヤンゴンフィルムスクールのワークショップに参加していました。The Monkを撮影後、これまでのノウハウを学生たちに伝えるべく、講義にも携わるようになったのです。
―アウンミンさんが映画の脚本を手がけるようになったきっかけは、なんだったのでしょうか?
アウンミン:20歳のころから小説を書いていたのですが、1988年以降、一度作家活動をやめてしまったんです。2000年までの8年間は地方に住んで、医療活動に従事していました。2005年に日本の清恵子さん(キュレーター、メディアアクティビスト)がミャンマーに来る機会があって、いくつかのアートフィルムを上映されたんですね。それまでの私は、映画を芸術として意識したことがなかったのですが、恵子さんが観せてくれた作品によって、映画も小説のように芸術表現である、とようやく理解できるようになりました。それからFAMU(プラハ芸術アカデミー映像学部)主催のワークショップにも参加するようになりましたが、当時はストーリーを書ける人が誰もいませんでした。私はヤンゴンフィルムスクールで脚本の基礎を習っていたので、FAMUでも脚本を書くようになったのです。
The Monk(2014)
The Monk(2014)
―清恵子さんが上映したアートフィルムとは、どのようなものだったんですか。
アウンミン:The Man With A Camera(ロシアのジガ・ヴェルトフ監督の1929年作。邦題は『これがロシヤだ』)やイングマール・ベルイマン(スウェーデンを代表する映画監督・脚本家・舞台演出家)、シュールレアリストの作品などを観ました。それまでに見たことのあるミャンマーの作品とはなにもかもが違っていて、映画という表現芸術の可能性をそのとき実感しました。
―2000年までの8年間、地方で医療関係の仕事に従事されていたとのことですが、アウンミンさんは医者でもあるんですよね?
アウンミン:私は1992年に結婚したのですが、妻が地方の病院勤務になったので、一緒にヤンゴン郊外のカティアという村に行くことにしたんです。カレン族の小さな集落が点在している地域で、あまりに人手が足りなかったもので、私も医療に携わることになりました。そこでさまざまな人と会うことになりましたし、The Monkを作るうえでは、ここでの経験がとても大きかったです。
―ヤンゴンという都会で生まれ育ったアウンミンさんにとって、カティアのような地方での生活はカルチャーショックの連続だったんじゃないですか。
アウンミン:そうですね。カティアは電灯もほとんどない暗い集落ですので、最初は息苦しくて仕方がなかった。でも、そこでの生活に慣れてしまうと、ヤンゴンが明るくて仕方ありません(笑)。