ASIA center | JAPAN FOUNDATION

国際交流基金アジアセンターは国の枠を超えて、
心と心がふれあう文化交流事業を行い、アジアの豊かな未来を創造します。

MENU

エリック・クー&カーステン・タン――シンガポールにおける映画製作の系譜を紡ぐ

Interview / Asia Hundreds

シンガポール映画の復興

滝口:1980年代にはシンガポール国内では映画はほとんど製作されていませんでした。しかし、1990年代にはシンガポール映画の復興があり、この時期にエリック・クー監督を含む新しい世代の映画監督たちが登場しました。その理由は何だと思われますか。

クー:シンガポール国際映画祭の立ち上げ時期にプログラム編成を担当していたフィリップ・チア氏の功績が大きいと思います。彼は1991年にシンガポールの短編映画のコンペティション部門を設けたのですが、これは、当時のシンガポールには長編映画を製作することが可能な映画産業が存在せず、若い映画監督が製作できる可能性があるのは短編映画だけだったからです。私も、このコンペティションに出品し、あわよくば賞を取ってやろうと、短編映画を撮り始めました。
1994年の第8回シンガポール国際映画祭で私の短編『Pain』がスペシャル・アチーブメント・アワードを受賞したことは、大きな転機でした。この作品は、実はシンガポールでは上映禁止になったのですが。これは新しく設けられた賞で、撮影後の編集機材や撮影機材の貸し出しなど、次回作のための支援が賞品でした。この賞を獲得した後、私はスポンサー企業を訪れ、こう言いました。「商品としてご提供くださるのは、次の短編映画製作のための支援だというのはわかっています。でも、もう少しだけ積み増して、長編を作らせていただけないでしょうか」と。こうして私は長編デビュー作となる『ミーポック・マン(Mee Pok Man)』(1995)を製作したのです。

タン:そうだったんですね。全然知りませんでした。

クー:この賞のスポンサーの一つだったコダックは、確かに積み増しはしてくれたのですが、それでも十分とは言えませんでした。ですから『ミーポック・マン』では、多くの場面が広角で撮影されています。クローズアップで撮影するために十分なフィルムがなかったのです。私のシューティング・レシオ(撮影された映像素材の長さと実際に映像作品として仕上がった長さの比)は2対1でした。つまり、一度しか失敗できなかったのです。

滝口:タン監督、あなたの世代はこのようなシンガポール映画の成長を目の当たりにしていたわけですね。

タン:そうですね。でも、正直に言えば、シンガポールの映画に関心を持ち始めた10代のころ、芸術的に注目すべき作品を生み出しているのはエリック・クーただ一人なのではないかということに気付いたのです。
ですから、ロールモデルとなる人物を見つけることはとても難しく、結局は自分自身のやり方を模索していくしかないと思うようになりました。私が海外に出て視野を広げ、映画というものをより深く理解したいと思った理由の一つはそこにあります。

滝口:1990年代は政府が映画製作を広範囲にサポートし始めた時期でもありました。1991年にナショナルアーツ・カウンシル(NAC)が設立され、1993年にはニーアン・ポリテクニックに映画メディア学部が設置されました。クー監督が、シンガポール製の映画に資金提供をし、市場に出すための組織の設置を提案する提案書をNACに提出したのもこの時期でした。これは、1998年のシンガポール・フィルムコミッション設立につながりました。この時期から今までの政府による映画支援についてどう思われますか。

クー:1997年に長編二作目の『12階』を撮り終わったころ、映画を支援する組織が必要だと強く感じるようになりました。それで、提案書をNACに提出することにしたのです。NACはそれを3か月放置していました。やっと返答してきたと思ったら、「映画は芸術ではない」というのです。「何を言ってるんだ?」と思いましたね。「NACは写真を扱っている。パフォーマンスも、音楽も扱っている。みんな映画の要素じゃないか!」とね。
でも、私は幸運でした。その年に、ゴー・チョクトン首相が、ある演説の中で私の映画について言及したのです。シンガポールの人々に「皆さんは、『ミーポック・マン』のような映画を作ることができるのです」と呼びかけたのでした。それを知って、今度は首相府に提案書を送りました。前回と違い、3か月も放置されることはありませんでした。1週間のうちに電話があり、検討すると言われました。
当時の情報芸術大臣は、ジョージ・ヨー氏でした。その年のシンガポール国際映画祭に出席した際、私はトイレで彼に偶然出会ったのですが、彼は私にウインクをし、「実現しそうだよ」と言ってくれました。そのすぐ後、1998年4月にフィルムコミッションが設立されたのです。

タン:シンガポールでは、支援策が映画発展の鍵であるように思います。私も含め30代の映画人は、公的資金によって成長してきたと言えます。両親は映画製作については私をサポートしてくれませんでしたので、公的な助成金がなければ映画を勉強することができなかったでしょう。ただ、上の世代が芸術の本質的な価値を理解するのは難しいのだとは思いますし、それを責めているわけではありません。私が言いたいのは、こうしたイニシアチブのおかげで、私たちの世代はまず短編映画を、そして長編映画を作ることができ、それによってスキルを磨いて成長することができたのだということです。これは素晴らしいことです。

クー:私は、若い映画製作者にはシードマネーが必要だと政府に言い続けてきました。資金がなければ映画を撮ることはできません。才能ある新人監督は十分な資金提供を受ける必要があるのです。今では25万シンガポールドル(約2,000万円)までの長編映画製作資金を支援する助成スキームがあります。以前には、資金援助は投資という形でおこなわれていましたが、それを助成に切り替えたのはよい判断だったと思います。シンガポール・フィルムコミッションは、若手の映画監督をより大きな視点から支援しているのです。『ポップ・アイ』が受けたのは……。

タン:ニュー・タレント・フィーチャー・グラント(新人に対する長編製作助成)です。

クー:そうでした。これは1本目、2本目を撮ろうとする監督を支援するためのものです。

インタビューに答えるクー監督の写真

滝口:つまり、キャリアの非常に早い段階から、このような助成金を得ることが可能だということですね。

タン:はい。私はニーアン・ポリテクニック在学中、情報通信メディア開発庁の奨学金を受けていました。フィルムコミッションを管轄している機関です。また、私の短編映画はすべてシンガポール・フィルムコミッションからの資金提供を受けています。そのおかげで私は映画製作を始め、実践を重ね、やがて『ポップ・アイ』を作ることができたのです。

滝口:現在の政府の助成制度についてはどう思われますか?

クー:かなり良い状況だと言ってよいのではないでしょうか。他国と比べても、シンガポール政府は全般に協力的です。これからも協力的であってほしいと思います。『ポップ・アイ』はサンダンスとロッテルダムで賞を獲得しましたが、この成功は、政府が若手監督を支援すべきだという証左です。今、私たちにはカーステンという才能がいます。政府の支援が続けば、二年後には若い女性監督がもう一人登場するかもしれません。(笑)
冗談はさておき、シンガポールの商業映画について言えば、大ヒットを生み出すことのできる映画監督はただ一人しかいません。大成功した『Ah Boys to Men』シリーズで知られるジャック・ネオです。世界的に映画・テレビ界を席巻しているマーベル・スタジオの作品に比肩する興行収入を期待できるシンガポール人監督は、彼だけなのです。
私に近いアート系の映画監督の観客数は、それよりもはるかに小さいのです。しかし、ロイストン・タン、アンソニー・チェン、ブー・ユンファン、そしてもちろんカーステンなど、若い映画人に目を向けると、こんな小さな国にこれほどの人材が存在することは素晴らしいといえます。クリエイティブな才能は、今後も増え続けることでしょう。フィルムコミッションが成長する若い才能を支援する限り、シンガポール映画は今後も続いていくことでしょう。

滝口:そのような方向に政府を向かわせるよう、シンガポール映画人がみんなで声をあげることはあるのでしょうか。

タン:ええ。シンガポールの映画人のコニュニティは、政府、特にシンガポール・フィルムコミッションと情報通信メディア開発庁に対して頻繁にフィードバックをおこなっています。また、新しい政策が検討されている時には、シンガポールの映画人たちは情報通信メディア開発庁と連絡を取り、対話をおこなうように努めています。

映画のスチル画像
カーステン・タン『ポップ・アイ』(スチル)2017年
(C) Giraffe Picture Pte Ltd, E&W Films, A Girl And A Gun 2017

滝口:『ポップ・アイ』はタイでロケされ、キャストはタイの俳優です。スタッフもほとんどはタイ人だったと聞いています。長編第1作をタイで撮ろうと決めたのはなぜだったのですか?

タン:この作品には私の個人的な経験が反映されています。私はシンガポールで育ちましたが、旅をすることも多く、ニューヨークに渡る前の二年間はタイに住んでいました。長編映画のためのブレインストーミングをしていた時、タイで撮影しようという考えがなぜか頭から離れなくなったのです。ストーリーもどんどん膨らんでいきました。
もう一つの理由は、ロードムービーを撮りたかったからです。旅をすること、そして「旅」という概念そのものを映画にしたかったのです。でも、ロードムービーを作るには、シンガポールは小さすぎます。

クー:何しろ、交通渋滞がなければ、国の端から端までたった45分で移動できるんですから。(笑)

タン:それに、タイの映画が大好きなのです。20代前半に滞在していたタイでは、インディペンデント映画のコミュニティをよく知る機会があり、彼らを非常に尊敬するようになりました。だから最初の長編をタイで作りたかったのです。

滝口:クー監督も、外国を舞台にした作品を作っておられます。アニメーション作品『TATSUMI マンガに革命を起こした男』もその一つですね。「劇画」のスタイルを確立した日本人漫画家、辰巳ヨシヒロの作品と、彼自身の人生をもとにした作品でした。

クー:はい。私は長年、辰巳さんの大ファンだったのです。私の短編作品の多くで、彼の作品からアイデアを拝借しています。ですから、辰巳さんに恩返しをし、私の「センセイ」に敬意を払うべきだと考えました。彼の人生についてはよく知らなかったのですが、自伝的作品『劇画漂流』(2008、英訳2009)を読んで圧倒されてしまいました。そこで、日本にいる私の友人に先生に手紙を書いてもらったのです。彼は非常に格調高い日本語で書いてくれたそうです。先生からは、「わかりました。このシンガポール人に会いましょう」とお返事をいただきました。
3か月後に東京にきて、古い喫茶店で先生にお目にかかりました。そこで作品の構想を説明したのです。通訳を通して3時間ほどお話しした後で、先生は私の方を見て、英語でこう言いました。「その映画を作りなさい」。私は、夢中で「わかりました!」と答えました。実は、その時には作品をどう作るか、まったくわかっていなかったのですけれど。なにしろ、アニメーションを作ったことなどなかったのですから。でも、最終的にはやり遂げることができましたし、結果にはとても満足しています。

滝口:最近では、新作を群馬県高崎市で撮影されたんですよね。

クー:そうなんです! 日本の文化、食べ物、そして美的な感覚がとても好きなのです。シンガポール以外で一番好きな国は日本なんじゃないでしょうか。このプロジェクトはプロデューサーの橘豊氏のイニシアチブによるものです。彼に「エリック、日本との共同制作をしませんか」と声をかけられたのです。高崎市は、快く撮影を許可してくださいました。高崎市の象徴である白衣大観音像が気に入りました。私は、小さい頃からずっと観音様にお祈りしてきましたので。観音様は慈悲と寛容に満ちていると感じます。
達磨(だるま)も気に入っています。幸運のお守りで、高崎が発祥の地だと言われていますね。辰巳さんのために達磨を購入したことを覚えています。先生はカンヌ国際映画祭にとても行きたがっておられましたので、達磨に願掛けしたのです。後にその願いは叶いました。カンヌのレッドカーペットを歩いている時、先生は私の手をしっかり掴んで「映画を作るのが夢だったんだ」とおっしゃいました。そんなことは知りませんでした! 先生は常に映画に魅せられ、影響を受けていたのですが、人と話すのが苦手だったので、映画監督にはなれなかったのです。あれは素晴らしい瞬間でした。先生の物語すべてが映画になり、二人でレッドカーペットの上を歩くことができたのですから。

滝口:新作では、日本人スタッフと仕事をしたのですか。

クー:そうです。日本のスタッフと仕事をするのは楽しいですね。高崎では、ノック・オン・ウッドという素晴らしい制作プロダクションと一緒でした。感銘を受けたことがあります。高崎からシンガポールに戻った後も、日本のスタッフが大勢、自ら進んでシンガポールに駆けつけてくれ、残りの撮影を手伝ってくれました。「せっかくシンガポールに来たのだから、有名な動物園を見てきたらどうですか」と言っても、彼らの返事はノー。黙々と現場での作業を続けてくれました。日本人のスタッフやチームとの仕事は素晴らしいものでした。ぜひまた一緒に仕事がしたいですね。

実は、日本人俳優のシンガポール滞在には、少々懸念がありました。というのも、例えば高崎では、きちんとした弁当がきれいなテーブルの上に用意されていました。しかし、シンガポールでは、床に座って、発泡スチロールのパックに入った食事をとることになるでしょうから。しかし、実際に来てみると、みなさん、様々なスパイスの効いた食事を気に入って大いに楽しんでくれました。

日本人キャストとの素晴らしい相乗効果もあったと思います。この映画で主人公を演じた俳優の斎藤工さんは天性の才能があります。そして、日本のアイドル、松田聖子さん。私は子どもの頃、彼女の大ファンでした。ちゃんとレコードにサインをもらいましたよ! お二人は役に入り込んで、私の脚本に彼らなりの方法で対峙してくれました。とてもありがたいことでした。私はそのようにプロジェクトに貢献してくれる人たちと仕事をするのが好きなのです。また日本で映画を作りたいと考えています。

滝口:タン監督は『ポップ・アイ』の撮影中、タイの俳優やスタッフと仕事をされました。タイで仕事をした経験はどのようなものでしたか。

タン:『ポップ・アイ』の製作チームは、私を除けば、撮影監督、編集、プロダクション・デザイナー、そして俳優も全てタイ人でした。素晴らしい経験となりました。タイに住んだ二年間は、私にとっては自己の形成期であったと思います。人生や映画について、多くを学びました。ペンエーグ・ラッタナルアーンやプラープダー・ユンといった人物に会い、大きな刺激を受けました。

滝口:彼らの名前が『ポップ・アイ』のエンドロールに出てくるのはそのためなのですね。

タン:そうです。タイの文化で素晴らしいと思うのは、みんなが本当の家族のようであることです。だれもが互いを気遣い、手を差し伸べる。そしてお互いの仕事に関心を持つ。この作品を作ることができたのは、彼らのおかげである部分が本当に大きいと思っています。

滝口:お二人とも、国際的なプロジェクトを手がけていらっしゃいますが、「国際的」と聞くと、巨大で複雑だという感じがしてしまいます。でも、お話をうかがい、作品を拝見すると、むしろお二人の映画作りは親密で自然なものだという感じがするのです。このような親密さを制作チームとの間に感じたことはあったのでしょうか。

クー:非常に強く感じました。私の新作に出演してくれた日本人俳優も大きな刺激を受けていたのではないかと思います。彼らが慣れ親しんだルールに固執しなかったからです。「台本を読んで、リハーサルをして、あとは好きに演じてください」という感じで進めました。いざ撮影に入っても、少しでしたら即興もありということにしました。こうすることで、彼らには信じられないほどの自由が与えられました。これは、監督である私にとってもベストなのです。台本に従わなければならない場合、より良いパフォーマンスを見せてくれと常に強要できる方法はありません。私たちの間にある親密さが大切なのです。
そして、これも明白だと思うのですが、『ポップ・アイ』もまた、親密さにあふれた作品です。

タン:そうですね。ただ、正直に言えば、私たちのスタッフはとても規模が大きく、全員が互いに親しくなるのは不可能でした。平均して60名、時には100名という大所帯でした。これは、作品に象を使ったことが理由です。象の調教師や追加の助監督やスタッフが必要で、大人数になったのです。しかし、主要なスタッフに関して言えば、私たちの関係はとても親密だったと言えます。『ポップ・アイ』が初めての作品だったプロデューサー、助監督、そしてプロデューサーのアシスタント、私たちはみんな一緒に同じ家に滞在しました。私たちは一体感を強く感じていましたし、チームとして仕事をしました。ほとんど家族のようでした。本当に固い絆で結ばれた現場でした。

クー:象を監督したなんて驚きですよね。象が出てくる脚本をもらったら、私なら逃げ出しますよ。(笑)