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タウフィック・ダルウィス――インドネシアの新しい舞台芸術コレクティブ

Interview / Asia Hundreds

強制退去させられた人々とのプロジェクト

藤原:なるほど、大学院ですでにそうしたフィールドワークを実際にされていたんですね。今のお話の流れを受けて、BPAFの具体的なプロジェクトについてもお聞きしたいのですが、先日バンドゥンで初めてタウフィックさんにお会いした時に、最近の活動についての映像を少し見せていただきましたよね。それは実際にコミュニティの中に入っていくプロジェクトで、やはりフィールドワークに基づいていたと思うのですが。

タウフィック:それはUS / NOT-USプロジェクトのことですね。家と記憶にフォーカスしたプロジェクトです。その地域はバンドゥンの中心市街地にあるのですが、昔ながらの伝統的な町並みの残っている場所です。周辺の町や村から仕事を求めてバンドゥンにやってきた人たちが集住しているんですよ。インドネシア語でこういう集落はカンプンと呼ばれるのですが、都市の中にもカンプンが存在するんです。例えば、同じ村の出身者たちが住んでいる集落を指してそう呼んだりします。私自身も、チアミスという町からバンドゥンに移り住んだ人たちが形成したカンプンの出身なんです。
このUS / NOT-USの対象となるカンプンは、オランダの植民地時代にバンドゥンの外から移り住んできた人たちの地域なんですね。インドネシアがオランダから独立した時、彼らは土地の所有権を主張するものを何も持っていなかった。登記簿がないとか、そういう問題がすごく多いんですよ。なにしろ彼らの祖先は自然に流れ込んでそこに住んできたので。ところが、バンドゥンを都市として発展させていくために再開発が必要になってきた。するとそういう流民たちが住んでいるカンプンがターゲットになってしまい、人々が強制退去させられる……。そんな事態が今あちこちで起きていて、どこでも起きうるし、中の下の階級に属する市民であれば誰にでも起こることです。
一方で、同時に、US / NOT-USプロジェクトでは、インドネシアの演劇界においてアーティストが英雄的な姿勢をとりがちになる、貧しい人々やマイノリティ(都市化から取り残された人々)の声の歴史というテーマについて、新しい道筋を示そうとしました。私たちの考えでは、都市化というものは常に進行し続け、たとえそのパターンが変わらなかったとしても、常に新しい状況をもたらします。社会階級を決定づける特徴も変化します。例えば、以前は身分証明書やオートバイを持っていない人は下の階級とされました。しかし現在、その両方を所有していても今なお下級とみなされます。「アーティスト」であることは私たちにとって緊張のエリアにいることを意味します。その緊張は「アーティスト」という言葉自体が持つ特権と、決して止まることのない都市化政策がもたらす社会経済的な枠組みの状態によって生み出されています。

バンドゥン・パフォーミング・アーツ・フォーラムの活動の写真
doc. BPAF

藤原:インドネシアのオランダからの独立、そして近代化や経済発展……。そういう歴史が生み出したひずみの中で、今を生きる人々が不条理を被っている……。

タウフィック:そうですね。都市化が彼らを犠牲にしているとも言えます。法律的には彼らは非常に弱い立場でしかありません。もう何十年もそこに住んでいるので所有権を主張はするのですが、書類を持っていないか、仮に書類があったとしても曖昧なものでしかないんですよね。もちろん抵抗する人もいるんですけど、負けてしまったり……。常に紛争が起きています。

藤原:タウフィックさんたちのプロジェクトではその状況を作品化されたと思うのですが、どういうアプローチを取られたんでしょうか?

タウフィック:長いプロセスです。いつも作品の前には4~5か月ぐらいリサーチするのですが、今回は1年かけました。まず実際に人々が強制退去された場所に行って調査を始めましたが、やはり複雑な問題がいろいろあって解決が難しいことを思い知りました。再開発後には政府が低所得者層に充てるアパートを建てる予定ではあるんですけど、まだその場所に留まって住んでいる人もいます。どちらの側も権利を主張している。そういう複雑な場所に私たちが入っていくこと自体、許可が必要だったりもします。
私たちは、その地域に物理的に何が残っているのか、人々はどういう生活をしているのかを見ていきました。リサーチにあたってはいろんなメソッドを使ったんですけれども、まずはその土地について語ってくれる人を探しました。その地域を研究している人や、アクティビスト(活動家)を招いたり。そうやって専門的に学ぶ一方で、マレーシアから劇作家のリャオ・プェンティンを招いて、バンドゥンのパフォーマーであるアリアンシャ・チャニアゴと共働してパフォーマンスをつくって上演しました。ワークショップも開催しました。

藤原:ワークショップは具体的にはどういうことをされたんですか。

タウフィック:プェンティンは以前、日本でもリサーチをしたことがあり、そういった経験について話してもらいました。一方、アリアーシャは、都市化によって乾いてしまった湖でサイトスペシフィックな作品をつくってきた。そういうそれぞれのプロセスをシェアして話し合う講座を開きました。アリアーシャは、現地でいろいろなリサーチをして作品をつくって、それをギャラリーやブラックボックスといった別の場所に移動させるんですね。スペースを移動したり置き換える方法について話し合いました。

バンドゥン・パフォーミング・アーツ・フォーラムの活動の画像
doc. BPAF

藤原:そのワークショップは誰を対象にしたワークショップだったのでしょうか? かなりプロフェッショナルな作り手に向けたものかな、と推察するのですが。

タウフィック:ええ、今のはアーティストに対するワークショップの話ですね。それとは別に、立ち退きを迫られている住民たちも参加するワークショップをプェンティンが行いました。その最後にはみんなでご飯をつくったんですよ。インドネシア人の習慣として、何かやった時にみんなで料理して一緒に食べるってことをよくやるので……。プェンティンのこのワークショップは、住民の人たちから物語を引き出す内容でした。携帯のカメラの機能を使って、例えば「あなたの印象に残っている好きな場所はどこですか?」というような質問をして、写真を撮ってきてもらう。それを見て「どうしてこの場所を撮ったんですか?」とさらに質問を深めながら進めていきます。「立ち退く前の家の中で何がいちばん好きだったか?」とか「今住んでいるアパートでどこがいちばん好きな場所か?」とか。過去と現在、それぞれの写真を撮ってもらう。子ども、若者、老人、いろんな人たちにやってもらうんです。私たち自身もその地域に住み込みながら、そういうワークショップをやっていきました。そして彼らが語り始めた時、それを聞き取って、物語を集めるんです。

藤原:方法論をかなりしっかり持っていらっしゃるんですね。あるいは、そうした方法論を持っているアーティストを招へいした、ということかもしれませんけども。そうした方法論も、大学院でカルチュラル・スタディーズを学ぶ中で習得されていったんでしょうか。

タウフィック:もちろん大学での学問からも影響を受けているとは思います。しかしそれ以上に、BPAFのメンバーと一緒に「いったい何が私たちに欠けているのか?」とか「ここをもっと先鋭化していくべきではないか?」と話し合いながら進めています。このプロジェクトに誰を招へいするかも、そうやって話し合って決めました。私たちはできるだけいろんな人たちと話すことで、アイデアを出そうと心がけています。

藤原:ちょっと羨ましいですね、そういうコレクティブをつくれるのは。私自身もこの数年、コミュニティと関わるプロジェクトを手がけているのですが、やはりコミュニティに入っていくのはそう簡単なことではないと痛感しています。それを一緒にできる仲間がいるのは、すごくいい関係だと思うんですよね。

タウフィック:ワークショップとかディスカッションをするだけではなく、それらの経験を持ち帰った後で、「本当にこのやり方は有益だったのか?」とか「うまくいったのだろうか?」といったフィードバックは常にするようにしています。

バンドゥン・パフォーミング・アーツ・フォーラムの舞台写真
US / NOT US, アジア・ドラマトゥルク・ネットワーク・ラボラトリ(ジョグジャカルタ、2018年)のショーケース
doc. BPAF

コレクティブの中での立ち位置

藤原:今のプロジェクトの中で、タウフィックさん自身はどういう役割を担ってらっしゃるんでしょうか。総合演出なのか。それともコーディネーター的なポジションなのか。

タウフィック:お答えするのは難しいですね。周りが言うにはドラマトゥルク*3 ですが、とはいえ本当にいろんな側面がありますからね。例えば、他のメンバーがすでにアイデアに溢れているのであれば、私はただのファシリテーターに徹しますし、あるいはただの邪魔者になる時もあるし(笑)。もちろんそのアイデアを現実的に落とし込むためのマネジメントも必要ですから、いろいろな役割を担っています。

*3 もともとはドイツの公共劇場に雇用された演劇の専門職を指していた。2000年代以降、この概念が各地に輸入されていく中で、旧来の演出家や劇作家や制作者といったポジションに当てはまらない人たちがこう呼ばれるようになり、現場によって異なるその役割も多様化していった。近年、その役割について継続的に議論や情報共有がなされつつある。

藤原:いわゆるサンガルや劇団のようなシステムだと、演出家や制作といった役割が明確にあり、そこに当てはまらない人がドラマトゥルクと呼ばれ始めたように思うんですけど、BPAFの場合はそもそもそういうヒエラルキー・システムとは異なるために、タウフィックさんはさらにフレキシブルな立ち位置になっているのかもしれませんね。

タウフィック:とてもフレキシブルだと思いますね(笑)。コレクティブの中でこのポジションがちょっと空白だなとなったら「じゃあ、ここは僕がやるね」みたいなことですから。カメラマンになる時もありますよ。私だけではなくて、コレクティブのメンバーそれぞれが役割を補完する関係です。

藤原:プロデューサー的なポジションもされるんですか。あるいは誰か専属のプロデューサーがいるんですか。

タウフィック:いないですね。外に向けて宣伝する役割もそれぞれが担っていて、内部のマネジメントにしても私ともうひとり別の人間が中心になっている。ただ、プロデューサー志望の人はいるので、これから話を詰めていくつもりです。

藤原:身も蓋もない話ですけど、活動資金はどうやって確保されているんですか?

タウフィック:1年のうちにひとつだけのプロジェクトに携わっているわけではないので、メンバーの中から何か企画をやりたいと声が挙がったら、共同資金から何パーセントかをそのプロジェクトに配分する、という形を採っています。自分たちがポケットマネーを出す時もあるし、そのあたりもフレキシブルですね。

インタビュー中のタウフィック・ダルウィス氏の写真

藤原:強力なスポンサーや、助成金を申請できる機関は、インドネシアにはあるんでしょうか。

タウフィック:BPAFは、法人格を取れるようなきちんとした住所がなく、かなりモバイルに活動しているので、助成金を得るのも難しいですし、スポンサーもいないのが現状です。ただ美術系の組合がバンドゥンにあって、それに所属することになったので、これから資金調達の方法は変わっていくかもしれません。