『献灯使』—日本の現状と懸念
プラープダー:『献灯使』の内容は、非常に現代的な感じがします。この本はしばしばディストピア小説と評されていますが、近未来が舞台でファンタジーとSFの要素があるにもかかわらず、それほどディストピア的ではないというのが私たちに共通する意見です。この小説はむしろ、大きな災害に見舞われた後、「鎖国」政策により世界から孤立した「いつかの日本」を描いた物語です。人々は外国へ出ることも許されていません。そして興味深いことに、外来語を含む外国の言葉と文化を禁じる政策も出てきます。そもそも何がきっかけで、このコンセプトを使われたのでしょうか?
多和田:私は2011年の福島第一原発事故の後、若い世代を中心に多くの日本人が海外に留学しなくなったことに気づきました。あの破滅的状況を経て、彼らは自分たちの意志で日本に残ることを選んだのです。それで私は、200年以上も世界との関係を断っていた江戸時代の日本について考えるようになりました。人々が自分たち独自の文化を育むことができた時代です。福島の原発事故の後、日本では平和な江戸時代や、人間味あふれる生き方を懐かしむ人たちが出てくるようになりました。ドイツでも同じように、東西統一後に昔を懐かしむ「オスタルギー(ostalgie)」という現象がありました。ドイツ語の「オスト(ost)」は「東」で、「オスタルギー」は東ドイツ共産主義時代への郷愁です。当時は絶対に幸せな時代ではなかったと思いますが、統一後に多くの問題が噴出したことで、旧来のやり方に戻りたいと願う人々もいたのです。そういったことが着想のヒントになりました。
プラープダー:でも実際には、状況の良し悪しは断定できません。この本では、年老いた作家がその政策に納得していないように見受けられます。私としては、そこがこの話のおもしろさだと思いますね。
多和田:第2次世界大戦中の日本では、実際に英語を使うことが禁止され、英語の言葉を日本語に置き換えていました。今の日本は英語を使い過ぎと思うこともありますが、だからといって完全に禁止するのはナンセンスです。
プラープダー:福島原発事故の後、日本を離れるのではなく、逆に残ろうとする人が増えたのはおもしろいですよね。それは皆で支え合うためなのでしょうか?もしそうなら、実際には極めて国家主義的です。
多和田:ええ、福島原発事故の後、ナショナリズム的な空気が強まりました。
プラープダー:多和田さん的には、いいことなのでしょうか?
多和田:いえ、まったく。
プラープダー:タイで同じことが起これば、多くの人たちが国外へ逃げ出そうとするはずです。例えば、タイの政治事情を考えても、この国を出たがっている人はたくさんいます。
多和田:ご存じのように、これがいわゆる日本の「島国気質」です。逃げる場所もありません。日本は何度となく自然災害に襲われてきましたし、いつ何が起こっても、逃げるのではなく、そこに残り続けることを良しとしてきました。実際、逃げ出すことはできません。仮に他の村へ逃げたとしても、その人は差別を受けることになります。それならそこに残り、支え合うほうがいいのです。
ティティラット:福島の大惨事の後、どうして日本人の結婚年齢が早まったのかという話を思い出します。
多和田:ええ、出生数も多くなりました。
ティティラット:それは命のはかなさに気づいたからだと思います。より多くの子孫を残し、日本という国を永らえさせていくために団結したい、そう考えたのではないでしょうか。
多和田:ドイツの作家ハインリヒ・フォン・クライストに『チリの地震』という短編小説があります。その話では地震の後、人々は協調性が高まり、互いに助け合った、そこには集団的な人間性があったと記しています。でもその1週間後、人々は地震が来る前以上に保守的になりました。それとまったく同じ現象が日本でも起こっています。
プラープダー:興味深いですね。なぜなら、この話がここまで普遍的なのは、それぞれ理由が異なるにせよ、今では多くの国が国家主義的になり、外国の影響を排除する方向に傾きつつあって、人々がそれを不安視しているからだと思うんです。この話を書かれた時、多和田さんもそこに関心を持ったのですか?
多和田:ええ、もちろん。ドイツという、非常にオープンで民主的な国でさえも、ナショナリズムの復権という、まさかが起こりつつあります。誰も予想していなかったことが、多くの国で現実になり始めています。
『献灯使』における言葉の役割
プラープダー:言葉を非常に大切なものとされる多和田さんは、『献灯使』という物語における言葉の役割をどう定義されますか?
多和田:この小説では、登場人物が単一文化の社会で暮らしています。言語も一つしかありません。しかし、彼らは言葉遊びを通じ、その唯一の言語を最大限に活かそうとしていて、言葉のつながりがより深く、広くなっていきます。イメージの網を縫い合わせていくように。この近未来の世界では、アメリカのような大国が貧しい国です。なぜなら、一つあるいはスペイン語を含めても二つの言語しかない国だから。逆にインドや南アフリカなど、多種多様な言語が存在し、それらを輸出できる国が豊かな国になっています。この多言語社会という概念は、私にとって特別な意味があります。遠い将来、自動車や工業製品ではなく、文化のようなものを輸出する国が現れると思っています。
プラープダー:往々にしてディストピア小説とされる『献灯使』ですが、ご自身で描かれた未来が本当にやってくると思いますか? ネガティブな未来が待ち受けているのでしょうか?
多和田:ポジティブなものではないですね。私たちはいつか、輸出するためにこれほど多くの自動車や工業製品を生産することはやめるべきだと強く思います。でも生産をやめてしまったら、何が起こるのでしょうか? きっとハンドメイドの人気が高まるかもしれません。実際、そのシナリオをユートピア思想の一部と考えることもできます。
プラープダー:それはまた別の話ですね。この物語の舞台はポストデジタル時代で、人々は新聞を読み、電子製品に頼らないなど、古い習慣に立ち返るアナログ回帰を志向しています。多和田さんご自身も、アナログの時代に戻るべきという意見に賛成ですか?
多和田:私自身は戻れると思いませんし、個人的にもインターネットを活用しています。ただしインターネットには、自分とは異なる意見を否定し、独断と偏見を助長するようなフェイクニュースも流れていて、今はそれを危惧しています。
プラープダー:多和田さんはこの小説の中で、保存方法はアナログ式のほうが効率的と論じています。本当にその通りですよね。現代社会にはデジタルファイルがあふれていますが、手書き文書のような、うまく保存すれば何百年、何千年と残る物理的なメディアと比較しても、こうしたファイルはもっと簡単に失われる可能性があります。文字で記し、書物が残されているからこそ、私たちは歴史を学び、後世に伝えることができるのです。100年後の世界ではデジタルファイルがなくなっている可能性もありますし、そうなれば歴史の証拠が失われることになります。たとえファイルが残ったとしても、中身を確かめられないかもしれません。つまり私たちの世代以降、多くのことが失われてしまいます。
ティティラット:とても興味深いお話しですね。私たちは今、あらゆる情報をデジタルファイルやデータベースに保存していて、すべてを記録していると勘違いしています。でもご指摘のように、そういった情報を語り伝える、あるいは書き残していないので、二度と呼び起こせない危険性もあるわけです。私たちの記憶を残す方法は変わりつつあります。
多和田:そうですね。できることといえば、心の奥深くに眠る記憶と自分の思考を組み合わせるだけです。つまりこれまで読んだ本を、それが忠実に自分の記憶に刻まれていないのであれば、自分なりの考えを反映させて何かを書くことに使えません。それに、あまりにもイメージが多ければ、思考の入り込む余地がなくなります。昔は写真が少ない代わりに多くの文章がありました。書き手は絵や写真の要素を伝える説明に何ページも費やし、読者がそれを読む。そういった文化はもう廃れてしまいました。今日ではあまりにも視覚に頼り過ぎていて、それぞれの写真が持つ意味も少なくなっています。私にとって言葉は本当に大切ですし、それは視覚も同じです。印刷されたものを目にし、それについて書けなければなりません。
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