シンポジウム「三陸国際芸術祭の歩みと未来」/響きあうアジア2019 開催レポート

Symposium / 響きあうアジア2019

「芸能の力を信じてみたい」

赤坂 憲雄(学習院大学教授)

赤坂憲雄学習院大学教授の写真

震災後、南三陸町を案内してもらった際、獅子踊りのリーダーの方にお会いした。彼は、瓦礫と呼ばれる自分たちの生活の記憶の中から、奥さんとの思い出である指輪を探し、見つけた。もう一つ彼が探したものは、獅子踊りの衣装や道具類で、これも見つけたとのことであった。使えなくなったものもあったが、5月の連休の前に避難所で獅子踊りを演じた。この方の話を聞いて印象的だったのは、それまで泣くことができなかった人たちが、獅子踊りが目の前で踊られているのを見たときに初めて泣いた、ということであった。泣くこともできなかった緊張感の中にあったときに、獅子踊りという、自分が小さい頃から見てきたその村の伝統というものに出会った時に、泣くことができたという。芸能の力はすごいと、その時から思い始めた。地域の人々にとって芸能がどれほど大切なものか、見せつけられる場面がたくさんあった。
東北の夏の芸能というのは、死者供養なのだと思う。お墓の前で演じられたり、お盆のころに演じられる。つまり死者との交わりをもう一度そこに回復し、自分たちがそこに生きていることの意味を問い直すような場が夏の芸能なのだと思う。だからこそ現場に生きている人たちが、誰に促されるわけでもなく、獅子踊りや剣舞といった民俗芸能を復活させていったのだ、ということに気付かされた。
民俗芸能や郷土芸能というものが神様や仏様と交わる場であるということを再認識させられた。
伝統とはなにか。三陸国際芸術祭は、甚大な被害を受けた津波の被災地、そこにあったある種の空白の中に入り込んだのか、という気がする。民俗芸能は、共同体、コミュニティの人々を支えると同時に、色々な形で地域社会に広がっていく、でもその芸能を支えてくれていた地域社会が壊滅的な状況になっていて、そういう状況の中で、三陸国際芸術祭という形で、例えば再デザインされた獅子踊りや、(芸術祭の)ポスターを見て私は格好いいと思った。格好いいというのはとても大切。芸能の担い手である若い人たちも、実はこの格好いいというのが重要。これを失い、宗教性からも切り離されて、というところに持ち出されては、おそらく芸能は生かされない。岡本太郎さんが、伝統というのは創造の現場である、という風に言われた。つまり伝統は伝統として守るのではなく、むしろ攻撃的に創造の現場に連れ出すことによってしか伝統は生きられない、という言葉だと思う。まさに三陸国際芸術祭の中でバリのダンスと出会った三陸の芸能の担い手たちが、強烈に感じたことに対して、共鳴を覚えた。宗教とかコミュニティに縛られた形では、芸能の次の時代はない。新しい担い手たちが外から入ってくる、そういう時代に今入ろうとしている。その中で三陸国際芸術祭はとても画期的な意味合いを持ちそうだ、という予感を覚えた。

「バリの人にとって芸能とは」

鏡味 治也(金沢大学教授)

鏡味治也金沢大学教授の写真

バリは1970年ごろまでは農業社会であり、人口の4分の3くらいが農民であった。島の総生産のおよそ3分の2は農業であった。1969年に国際空港が開設されてから、本格的に観光開発が始まる。外国人観光客数は、最初は数万人であったのが、今や、飛行機で直接入ってきた外国人だけで560万人。シンガポールの人口が550万人位。人口も1970年ごろから2017年までに倍増近い伸びを示している。ここ10年間では外国人観光客数が人口を超えた。1980年代からは続々と高級ホテルが建設される。一方、バリの社会では1990年代位から少子化が進んでいく。2000年代には島外からの移住者が増加していく。このように1970年代以降、バリ島はかなり社会変革が進んだ中で、ここで芸能に目を向けると、バリの人たち自身もそれまでは自分たちの芸能をお祭りの一環としてやっていたのだが、自覚をするようになる。自分たちがやってきた芸能はいったいなんなのだろう、観光客が見に来る、と。1971年にインドネシア政府がバリの観光開発の主導権を取り、マスタープランを作る。これに対し、州政府が主催してセミナーを開き、これに様々なバリの知識人、大学関係者や州政府の役人、宗教指導者たち等を呼び、これから本格的にバリにおいて国際観光が始まる中で、いったいどうやって対処したらよいのか、話された。最初のうちは、どっと観光客が来るのではということで、非常に警戒をし、色々防御的な対策をとろうとする。そのうちの一つが、芸能と言っても、本来は神に捧げるものとしてやってきた神聖なものを観光客に見せるのはけしからん、というようなことで、ちゃんと芸能を区別しましょう、というようなことを、初めてバリの人たち自身が考えるようになる。これがまさに自分たちがそれまであまり自覚せずにやってきたことを、初めて自覚をし、例えば芸能であれば分類をする、寺院に入るときはどういう服装で入らないといけないか、観光客にちゃんと守ってもらおう、というような政策をとったりするようになった。
それだけではなく、1979年からは、これも州政府の肝いりで、毎年1回、バリ芸能祭を開催するようになった。これは毎年6月に開催されるが、6月はインドネシアの学校の学年末休みの時期。つまり芸能祭といっても観光客向けの芸能祭ではなく、バリ人に自分たちの芸能をもっと自覚してもらおう、というものであり、一番人気があったのはガムラン演奏や劇のコンテストであった。
一方、芸能というのは本来儀礼の中でやってきたもので、寺院や、家庭で行われる通過儀礼の中で、おこなわれてきた。大事なところは、バリの人たちの生活はあくまで村が一番ベースになっていること。村は墓地を持っていて、この墓地は村人しか使えない。この墓地で火葬をしなければいけない。火葬をしないと祖先の霊になれない、浄化されない。そのため、バリの人にとっては、どれかの村に所属して、墓地を使わせてもらって、火葬をさせてもらって、それで先祖の霊になると、やっと子孫に再生できる、ここが一番根っこのところかと考えている。バリの芸能の根底には、霊的世界との交信のようなものがあって、そこをおさえるとよいのではないか。