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『昨日、今日、明日』 キム・ディナー/福富友子 訳

Short Story / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(カンボジア)

昨日、今日、明日

「みなさま、お電話番号とご住所を今すぐ書き込んでお申し込みください!この美白クリームのセットは、3日間の使用で内側から美白することを保証します!」

フェイスブックのライブ配信で美白クリームを販売する声だ。私は電話番号と住所を送信すると、画面をスワイプし、今度はファッション通販のページを見ることにした。洒落たデザインの服がいくつも並び、目が惹き付けられる。今度の日曜日は友人たちと遊びに行くことにしていたし、買おうと決めた。

おっと!自己紹介を忘れていた。私はミアリア、28才。ある民間企業で顧客サービス部のマネージャーをしている。家族は4人、両親と私、それに兄がいる。私と兄が両親と一緒に食事をすることはほとんどない。ふたりとも仕事が忙しいし、とくに夜はたいてい友達か同僚と何か食べに行ってしまう。私たちがそばにいて共に時間を過ごすことがほとんどないので、両親にとって子どもはいてもいないようなものだ。海沿いのケップ州やカンポット州、緑豊かなキリロム国立公園、あるいは新しく開店したレストランなどが、私が週末を過ごすサードプレイスになっていた。なにしろ月曜から金曜まで働いて心身ともに疲弊しているのだ。自分へのご褒美としても仕事への英気を養うにも、週末ぐらいは楽しくおいしいものを食べてリフレッシュしなくてはやっていられない。

ケップ州の浜辺にある東屋に到着してから、私と友人たちのグループは楽しく写真を撮り合っていた。よく晴れた青空は、メイクして買ったばかりの服を着た私にぴったりだし、私の魅力を際立たせているはずだ。写真を撮り終えると、私たちは東屋に腰を落ち着けた。しばらくくつろいでいると、店員が食事を運んできた。エビのスープ、カニの青胡椒炒め、エビのトムヤムに焼いたイカなどいろいろ。料理を見るなり私たちは急いでご飯をよそい、手を伸ばしてイカを取り、カニを取り、次々ほおばった。私と友人のサオピアは、ココン州産の魚醤をひとつの小皿に入れた。一緒にエビをつけて食べるためだ。店員が持ってきた皿は数が足りなかったし、といって店員を呼んで追加の皿を持ってきてもらうのも面倒だった。私たちは楽しく、和気あいあいとランチを楽しんだ。食べ終えた頃、オートバイに乗ったドリアン売りがやってきて、買う人はいないかと声を張り上げた。私たちは売り子を呼んでドリアンを買った。カンポット州産のドリアンのおいしいこと!大学で私と同期だった男友達のソカーは、ドリアンを食べきれず半分残していた。するとナリンはもったいないと思ったらしく声をかけた。

「ソカー、もう終わりにするの?」

「ああ、もう終わり。食べ過ぎて出てきちゃいそうだよ」

「欲張って大きいところを取るからよ」

「もったいないと思ってるんだろう?それなら食べなよ」

「ほんと、もったいないわ。私まだ食べられる」

ナリンはソカーが食べ残したドリアンを慣れたように取りあげ、平らげた。学校に通っていた頃からいい友人同士だった私たちは、何を食べるにしてもシェアし合ってきたし、それを気持ち悪いと思ったこともない。気持ち悪いなんてことなんてある?私たち、病気でもないのに。感染の心配なんて無用でしょ。

私たちの旅行は喜びとともに終了し、忘れられない思い出となった。来年は一緒に海外旅行する予定も立てたし、考えるだけでわくわくする!よその国に行っておいしいものを食べ、ブランド品をあれこれ買う!一生が何度あるって言うの?仕事で疲れて死にそうなのに、けちけちする必要なんかない。自分を幸せにするためなんだから。命があるなら意味のあるように生きなきゃ!

家に着いたのは夜10時頃だった。家に着くなり私は冷蔵庫から水を取り出しごくごく飲んだ。帰りの車では、途中でトイレに降りるのが面倒でほとんど水を飲まなかったから、ひどく喉が渇いていた。半分ほど水が残ったボトルを冷蔵庫に戻そうとしたとき、チェトラー兄さんが浴室から出てきた。

「まだしまわなくていいよ、俺が飲む」

私は、水のボトルをチェトラー兄さんに渡した。

「今日は早く帰ったのね」

私が飲み終えたボトルから水を飲み、チェトラー兄さんは答えた。

「今日はなんだか胃が痛くて、友達と飲んでたけど早めに引き上げたんだ」

「それで帰りが早かったんだ」

「おまえこそ、ずいぶん遅くまで出歩いてるじゃないか」

「夜だからゆっくり運転してもらったのよ。事故を起こしたくないしね」

「気をつけているならいいさ。俺はもう寝るよ」

「母さんと父さんはもう休んだの?」

「ふたりとも8時半には部屋に引っ込んだよ!」

そう答えると、チェトラー兄さんは自分の部屋へ上がっていった。私も、自分の部屋に入った。部屋に入ると、シャワーも浴びず即座にマットレスへ倒れ込む。今日は思いっきり遊んで疲れた!私はバッグから携帯電話を引っ張り出した。いつものように昼間に撮影した画像をフェイスブックに投稿するためだ。

今日は職場での会議が終わると、私は同僚と近くの店に食事をしに行った。ひとつのテーブルに5人ほどで座るのはやや窮屈ではあるけれど、こんなふうに集まって食べるのが好きだ。おしゃべりもできるし、お互いの料理も分け合える。5人いれば5品にもなって、ビュッフェみたい!ふふ。

おしゃべりしながらも、私たちはそれぞれ携帯電話を手にしていた。すると、あるニュースが目に入り私は思わず声を上げた。中国の武漢市で新型コロナウイルスの感染が広がっているというのだった。だが、同僚のダリンは言った。

「心配することないわよ。ここからずっと遠いところの話だし、どうってことないわ」

「そうよ、考え過ぎ心配し過ぎはかえってストレスで病気になっちゃう」

ソピーもダリンに応じた。私はうなずいて画面に指をすべらせそのニュースを消し、携帯電話をテーブルの上に伏せた。そしてみなに提案した。

「ねえ、ところで明日は映画を見に行かない?もう新しいのがかかってるのよ」

「あんた、明日は服を買いに行くと言ってたじゃない、50パーセントも値下げしてるからって」

と、ソピーに言われた。

「それじゃあ、映画を見てから服を買いに行こうよ」

「オーケー」

ダリンが提案し、他の友人2名が同意した。

翌朝は土曜日だったから、私は10時頃に起きた。シャワーを浴びて身支度して階下へ下りると、母が食事の支度をしているところだった。母が慌てたように聞いてきた。

「ちょっと、どこへ行くの?ご飯を食べて行ったら?せっかくたくさん作ったのに」

「友達と遊びに行くのよ。今日はご飯いらないから」

「この子ったら、ずっと外食ばかりじゃ栄養失調になるわよ」

「私にばかり言って。じゃあチェトラー兄さんはどうなの」

「ふたりともよ。どちらも同じ」

私は笑って母に歩み寄り、ハグした。

「明日ね。明日は家で一緒に食べるわ」

言い終えると、それ以上お説教されないように急いで外へ出た。

それからも私は自分のやり方で愉快に人生を送っていた。プノンペンで新型コロナウイルスが広がりだすまでは。そして何もかもが変わった。会社の勤務体制が変更され、家で2日仕事をして会社へ3日行くことになった。感染リスクを抑えるため、出勤する人数が減らされたからだ。私は、マスクをつけ、こまめに手を洗い、ソーシャルディスタンスを保った。昼食はダリンとふたりだけで行った。他の友人たち3人が家で仕事をしていたからだ。そのダリンとの食事でも、真ん中に取り分け用のスプーンを置き、安全を期してテーブルと椅子、手にはアルコール液を吹き付けた。外出するたびにこれほど気をつけたことなどなかったが、どうしようもない。注意しないでいたら、感染の危険に出くわすだけだ。

夕方、仕事が終わると私は家に帰るしかなかった。それまでのように学生時代の同級生や仕事の同僚と車に乗って出かけたり、何か食べに行ったりはしなくなった。みんな感染が怖かったし、私も感染が怖かった。夕飯は、テイクアウトして家に持ち帰ったり、アプリで注文して配達してもらったりした。家で両親と食事をすることも以前より多くなった。よく見ると、両親はいつの間にかずいぶん老いていた。どうしてこれまで気づかなかったのだろう。両親の近くにいることがなかったせいだろうか。

両親は私が家で一緒に食事をするのを喜んでいるようだったが、チェトラー兄さんのことは相変わらず嘆いていた。母は言った。

「チェトラーは夜まで飲み歩いてばかり、いつかウイルスを家に持ち込むんじゃないかと心配だわ」

「まったくだ。父さんも母さんも年だし持病もある。もし本当に感染したら望みは少ないよ」

父と母のそんな言葉を聞くと、私は両親が不憫になった。息子が夜遅くまで飲み歩く習慣をやめないせいで、毎日自分たちの健康を心配しなくてはならないなんて。私は一生懸命に両親をなだめた。

「大丈夫よ、母さん、父さん。大事なのは体に気をつけて栄養のあるものを食べて、精神衛生を保つことよ。チェトラー兄さんには私が話してみるから」

「あの子ったらもうすぐ結婚するというのに、ちっとも態度を改めないで毎晩飲み歩いてばかり!」

母はやきもきしたように言った。私も母同様に憂慮していた。チェトラー兄さんの行動を見ていると不安になる。兄はもともと酒飲みだし、もしこれで新型コロナウイルスに感染したら、兄自身も大変なことになる。おまけに家族への配慮がまったくないようでは、私たち家族全員、誰も安全ではなくなるのだ。集まって飲む席は確かに楽しい。でも何かうかつなことをすれば、誰よりもリスクが高くなるのは年老いた両親だ。新型コロナウイルスが人を選別したことなどない。ウイルスの方から私たちを探してくることはできない。私たちの方がそれに近づいて行くのでなければ!

自室に入ると私はため息をついた。マットレスに倒れ込み携帯電話を取り出したが、それは服や美白クリームや遊びに行くところをチェックするためではなく、新型コロナウイルスに関して保健省や政府が発表する、新たな感染状況の情報を見るためだった。ワクチン接種はいい選択肢ではあるが、重要なのは3つの禁止事項、3つの防御事項を実践することだ。但しそれが功を奏するかは、国民ひとりひとりが責任を持って実践するかどうかによる。兄のように、飲み歩いたり友人たちと集まったり状況や時期を見極めもしない人に、効き目のある説教ができる人なんているだろうか。家族の命よりも、酒の一杯を優先するような人に。私は、これまで思う存分散財してきた服や靴、カバンを販売する通販サイトのフォローを解除した。代わりに、安全な果物や野菜を販売しているページをフォローした。今は、栄養のある食事をとって健康を維持することが何より大事だ。言い忘れていたが、新型コロナウイルスの影響は私の勤める会社にも及び、私は月給の40パーセントを減額されていた。両親には心配をかけたくなかったので、このことは言っていない。私は、あらゆることがまともな状態に戻るまではと、海外旅行のための貯金を急場しのぎに取り崩していた。ローンで家を買う決断をしていなかったのは幸いだった。そうでなければ借金で首が締まるところだっただろう。考えて見れば、新型コロナウイルスは変異を繰り返しているし、ウイルスは誰がどういう人間かなどと認知するわけでもない。油断や軽視をしたときに、そのリスクに必ず足をすくわれるのだ。

私の家族を含め世界中の人々が、新たな習慣の中で生きることを学ばねばならなかった。端的に言えば、ワクチンがあるとしても、新型コロナウイルスとともに生きねばならないということだ。来月結婚することになっているチェトラー兄さんにしても、ウイルスの感染拡大が激しいことから、式は簡素な儀礼だけに変更された。双方の大人たちが、ひとまず簡素な儀礼と婚姻届の提出を行って、ウイルスが収束してから結婚式を行えばよいと決めたのだ。兄はかえって喜んでいた。結婚式をすれば儀礼だけ行うよりも金がかかるからだ。でも相手側の方はそれほど喜んではいなかった。結婚式は女性にとって人生で最も大切な日だし、その日に何が重要かと言えば、人生のいつどのときよりも美しく着飾ることなのだから当然だ。とはいえ、彼女にも選択肢はなかった。先祖から受け継がれてきた伝統的な儀礼であっても、新型コロナウイルスが暮らしや生計や伝統的習慣にもたらした変化を阻止することはできない。ウイルスの出方にこちらが合わせていかなければ、感染の危険にさらされるだけだ。ウイルスがこちらに合わせてくれることはない。ウイルスは恐れを知らないし、人間の気持ちに配慮などしてくれない。

結婚式の日が近づいているのに、兄は相変わらず夜中過ぎまで飲み歩いていた。なんてかわいそうな、私の将来の義姉さん!でもどうしようもない。彼女が兄を愛していると言うなら、兄のこんな欠点も受け入れるしかない。私だったら、兄のような性格の夫や恋人はいっそお断りだけれど。自分の家族の命すら顧みない人間に、何を期待できる?

数日後、兄にくしゃみや鼻水、喉の痛みといった症状が出始めた。兄は慌てて自分で抗原検査を行い、そして陽性とわかった。より正確に知るためPCR検査も受けに行くと、結果は明らかに陽性者であることを示していた。恐れていたことが現実になった。私たち家族は全員、検査を受けることになった。幸いにも最初の検査ではみな陰性だったが、気持ちとしては安堵が半分、不安が半分というところだった。それは、兄から感染していないことを確認するために14日間の自宅待機をして、2度目の検査をしなくてはならなかったからだ。私は両親の健康を心配した。できるだけふたりの気持ちに寄り添い、衛生面に最大限に気をつけながら料理を作って食べさせた。みな揃って家にいるしかなかったので、私は階下に下りるときや料理をするときにはマスクをした。食べ物についてはありがたいことにアプリで注文もできたし、野菜や惣菜を積んだ三輪タクシーが私たちの住む団地まで販売しに来ることもあった。私は三輪タクシーに向かって、今日は持ってきたのと大声で聞けばよかった。売り子は家の前にあるベンチに頼んだ商品を置いてくれて、私は家の前に代金を置く。家から出すもの、家に入れるものはすべて、アルコール液を吹き付けて消毒した。両親が食べたい野菜がなかった日には、近所の人に頼んで代わりに市場で買ってきてもらった。近所の人は良い人で、感染者の家族である私たちを分け隔てせず、頼んだものを買って届けてくれた。本当に、苦しいときに思いやりのある人に巡り合えると温かい気持ちになるし、その親切は忘れない。私たちは、その人たちが新型コロナウイルスから遠く離れていられますようにと願う。それでもなおその人たちが感染してしまったら、今度は私たちが助けよう。新型コロナウイルスはたちの悪いものだから、私たちは思いやりを持って互いに助け合うべきなのだ。

一日一日が過ぎて行き、私たちは2度目の検査を受け、結果は陰性だった。私たちは大喜びした。一方、病院で治療を受けていた兄も、私たちに何事もなかったのを知って喜んでいた。私は、兄が家族のことを考えるようになってくれること、退院して家に戻ったら飲み歩くのをやめて二度と家に病気を持ち込まないでくれることを期待した。

自宅待機期間が終了すると、私は会社が決めたスケジュールに従って仕事に戻ることになった。兄の一件から、私はこれまでにも増して注意深くなった。朝早く起き、家族のために食事を作り、弁当を持って仕事に行く。以前のように外食をする気にはなれなかった。どうしても外食する場合にはうつむいたまま食べ、食べ終えても感染しなかっただろうかと気に病んだ。やれやれ、もとからこれぐらい怖がっていたらどんなにお金が貯まっていただろう。でも、その頃は新型コロナウイルスなどなかったのだから仕方がない。注意深さが高じて、飲み水も毎日2リットル、家から持って行くようになった。会社のウォーターサーバーは大勢で使うし、気をつけるに越したことはない。トイレにしても、洗浄レバーには使用前と使用後に必ずアルコール液をかけた。感染を防ぐためだし、次に使う人がアルコールをかけるのを忘れてリスクを負うことがないようにだ。「誰か一人が安全ではないなら、すべての人が安全ではない」感染が拡大する状況に置かれて、私はこの言葉で個人主義的な考えを抑えこんだ。これまで会議のたびに10人近くが入った会議室は、4人までと制限され、残りの何人かはZoomで会議に参加する。インターネットの通信状態が遅かったり、会議が切断されてしまったり聞き取れなかったりなどやりにくいところもあるが、こうするより手立てはない。今の状況における仕事とは、いい結果を出すことや期限内に完成させることでよいスタッフだとか責任感があると評価されるものではない。重要とされるのは、マスクをつけ、ソーシャルディスタンスを守ることなのだ。他の人たちにも家族がいるし、私たちにも家族がいる。私たちは自分の家族が大切だし、他の人たちもそれぞれの家族が大切だ。私たちは気をつけなくてはならないし、他の人たちも気をつけてくれなくては困る。帰宅するたび、私はアルコールを靴や服に吹き付ける。急いで部屋に入り服を脱ぐと洗剤を入れた水に浸け、15分から30分待ってからシャワーを浴びる。家には浴室がふたつあり、ひとつは両親の部屋、もうひとつは階下にあって私と兄が共同で使っている。そのため、ドアノブをつかんだり蛇口に触れたりする前に、私はいつも手にアルコールをかけた。便器も同様で、使用前後にアルコール液を吹き付ける。私は、浴室で使うもの、ボディーソープからシャンプー、ハンドソープ、洗顔フォーム、水汲み用の器までを兄とは別にした。感染リスクを減らすためだ。私は両親とも食事を共にできなくなっていた。自分自身が不安の種になっていたのだ。外へ仕事に行き、外の人に会っていれば、どれだけ気をつけても自分がこの病気を持ち込み感染させてしまう可能性がある。だから、両親の健康を守るために感染リスクを減らそうと、皿やスプーンは自分のものを決め、食器用洗剤やスポンジも分けた。そう、コップでさえもそれぞれ別のものを使うことにした!ああ……家族団らんの機会があったときにはそこへ加わろうとせず、その機会を失い恋しくなったときには状況が許してくれないなんて。

私はこの新たな習慣をひたすら続け、慣れたと感じるまでになった。ひとつだけ耐え難いのが、退屈で飽き飽きする気分だった。遊びに行きたい!外出して、いい空気、涼しい風を吸い込みたい。我慢できなくなって私は友達にチャットで連絡した。家から食べ物を持って行ってピクニックのように過ごしみんなで気をつければ、出かけるのも可能なはず。私と同様にストレスレベルが9まで達した友人たちは、一緒に遊びに行くと決めた。互いに信頼していたし、全員がワクチンを打ち終えていたし、それに行き先はキリロム国立公園だ。空気は澄んでいて、誰かが私たちの近くに来て密になる怖れもない。私たちはとても楽しく時間を過ごした。マスクをはずすのは食事のときと写真を撮るときだけにしたし、どこかに触るたびにアルコール液を吹き付けたし、車に乗り込むときには靴底と服までアルコールで消毒した。これでこそ、責任ある行動と呼べるものでしょう。

ピクニックから戻ってほどなく、政府が、新型コロナウイルスの感染者がキリロム国立公園を訪れていたこと、同時期に訪れていた人は自分の症状を観察するように、そして14日間は人に会わず自宅待機するようにと発表した。ほんの一日楽しんだ見返りが14日間の謹慎だなんて!

自分には高い感染のリスクはないはずと思ったけれど、兄の件が心に引っかかっていた。家族や職場の人にも厄介ごとをもたらしたくはなかったので、私は14日間自室にこもることを決めた。この期間、食べ物は母にお願いするしかない。私は考えていた。もしよその国を旅行しているときだったら、今と同じくらい苦労するのだろうか、それとも?住むところ、家での食事、一連の衛生管理、不安なことはまだ残っている。これが海外だとしたら、両親が私にしてくれるような配慮を観光客はしてもらえるのだろうか?

今夜は、自宅待機期間の最後の夜だ。本を読み終え、過去に撮影した写真を見ている。私を含む地球上の人々がみな幸せで、いつでも好きなことができると考えていた頃が懐かしい。だが人は、うっかり見過ごしてしまう。私が、家族の団らんという何より価値のある時間を何年もの間ないがしろにした挙句、集いたいと思ったときには叶わなかったように。

感染が拡大する中で、私は健康の大切さを実感し始めていた。今では、家族の健康を願うだけでなく、世界中の人々が健やかで思いやりを持ち、助け合って生きてほしいと願っている。

そう、昨日の楽しい人生はどんなに素晴らしくても戻っては来ない。今日は新型コロナウイルスと生きるしかない。明日になったら何がやって来るのだろう?

未来の人生をどんなに良いものにしたくても私たちには決定できないし、予想してもそのとおりにはならない。それでも今日の人生は、大切に生き、事実を受け入れ、その事実とともに生きることを学べる機会だ。この日に存在するすべての困難に果敢に立ち向かいながら。今日は新型コロナウイルスが存在する。明日はこれに匹敵する凶暴な、あるいはもっと凶暴な疾病が現れるかも知れない。いま大事なことは……

鍵を開けて誰かが家に入ってくる音が聞こえた。それが誰かはわかる。夜遊びから戻ったばかりのチェトラー兄さんだ。思考を断ち切られて私は大きなため息をつき、心の中でつぶやく。

「新型コロナウイルスは確かに怖い。だがそれにも増して怖いのは、人間の悪しき習慣だ。それは幾度となく繰り返され、この先も、私たちにさまざまな災難をもたらすことになるのだろう。昨日と今日は違う。では明日は?」