We Mask Date——僕たちのマスクデート——
ジャズがスピーカーから流れ出し、オレンジ色の小さなカフェを心地よい響きで満たしている。古風な壁に大きな窓を設えたこの店が僕の職場だ。でも、僕の心はジャズの響きに反して空虚だった。人々が集いおしゃべりに興じているはずのテーブルと椅子は空っぽで清潔なまま、店内のすべてのものが動きを止めて、まるで地球も回るのをやめてしまったかのようだ。いつになれば諸々のことが日常を取り戻し動き出すのかもわからない。今はどんなに心地よい音楽も、心地よいと感じられなくなっていた。耳に入ってくるのは、うんざりした気分で押したり引いたりしている床洗浄機のギイギイという音だけだ。
「顔をまったく見たことがないままでも、誰かを好きになれるものかな?」
遠く空を漂っていた僕の意識を引き戻すように、同僚のパンニャーが問いかけてきた。
「つまらないことを聞くなよ」
床を磨きつつ冷めた表情のまま返事をすると、パンニャーはちょっと肩をすくめた。
「そうだけどさ。毎日毎日、手持無沙汰で互いの顔を眺めてばかりじゃあ、ストレスでおかしくなりそうだよ!」
パンニャーは背中を椅子にもたれさせ天井を見上げると、また聞いた。
「なあ、どう思う?」
「無理!」
僕は短く答えて体の向きを戻し、床磨きを続けようとした。が、その返事を言い終えるか否かのときに、何かの影が一陣の風のように目の前を通り過ぎ、もんどり打って3度4度と床を転がりそこらじゅうの机やら椅子やらにぶつかって止まった。あっけにとられて僕の脳は一瞬停止し、それからようやく人が転んだんだと認識した。
その小柄な女性は、巻毛に丸い近眼鏡をかけマスクで顔をしっかりガードしていたから、僕に見えたのは透き通った眼鏡の奥の小さな目だけだった。彼女は何事もなかったようにすばやく立ち上がったが、僕が拭いた床が濡れていて足を滑らせたのは間違いなかった。
「すみません!」
手を貸したほうがいいかと思い、僕は声をかけながら近づいた。だが彼女は後ろへ飛びすさって1メートルほどの距離をとり、そしてメモ用紙を1枚掲げた。僕は目を凝らしてそれを読んだ。
「アーモンドラテ、砂糖少なめコーヒー多め、氷は適量」
僕が読み終えたことがわかると、彼女はステンレスボトルをひとつ、手近なテーブルの上に置いた。外筒がサトウヤシの木で作られていて、「テピー」と名前が彫ってある。おそらくそれが彼女の名前なのだろう。
「承知しました」
彼女の滑稽な動作に笑いがこみあげたが、僕はうなずいて答えた。それからボトルをすばやく手に取り、注文されたとおりのコーヒーを作る作業に入った。できあがったアーモンドラテを渡す前に、僕はメモ用紙に一言書いてステンレスボトルに貼った。
「腰がなんともないといいけど。よい週末を!」
ボトルを手にすると同時に彼女はさっとお金を支払い、ドアにぶつかりそうな勢いでビュンと出て行った。来るときも駆け込んできて、帰るときも駆け出して行くなんて、わけがわからない。そんなに急いでどこへ行くんだろう?
彼女は今日最初の客だった。そして、ここ何か月かで初めて僕を笑わせてくれた人でもあった。僕は……また彼女に会えるだろうか?ふとそんな思いが湧きあがり、不思議な気持ちになった。何が不思議かって、早く明日が来ないかな、また彼女に会えたらいいな、なんて思ったことだ。
翌日は、胸が高鳴って明け方から目が覚めた。僕が淹れたあの1杯のコーヒーを彼女が気に入ってくれたかどうかは自信がなかったけれど。
座って思いをめぐらせていると、サトウヤシの外筒のボトルが僕の手元に置かれた。黄色いメモ用紙が貼ってあり、こう書いてあった。
「昨日と同じコーヒーをください。それに、ありがとう!腰は折れなかったみたい」
顔を上げてボトルの持ち主を見る前に、それが誰のものかわかった。メモを見ただけで口元が緩んでしまった。望みが本当にかなうなんて!でも僕はどう答えたらいいのかわからないでいた。なにしろ彼女は僕から1メートル離れたところに立っているのだ。どうしようかと迷った挙句、ボトルを渡す前に新しいメモ用紙にメッセージを書いた。
「このコーヒーは無料です。昨日、転ばせてしまったお詫びに!」
メッセージを見て彼女が笑みを浮かべたのがわかった。真ん丸の彼女の目が、はっきりと三日月のかたちになったから。
「ありがとう」
そう言って彼女はまた慌ただしく出て行った。僕はその後、何時間も思い出しては笑いがとまらなかった。たったこれだけのことでこんなにも楽しい気持ちになれるなんて?その瞬間、パンニャーの問いかけが僕の脳内によみがえった。
「顔をまったく見たことがないままでも、誰かを好きになれるものかな?」
昨日自分が返した答えにためらいが生じた。実際……顔をすっかり見ることがなくても、誰かを好きになることはできる。それが恋の始まりではないだろうか。現にこうして、顔がほとんど見えない小柄な女性の存在が、一瞬にして僕の鬱屈しきった生活の中で輝く光となったのだから。彼女は、僕が朝起きてカフェへ働きに来るための原動力となった。店内に流れるジャズが以前より心地よく聞こえ、ステンレスボトルの上に貼られたメモを読むたび僕は笑顔になる。
月曜日は、土砂降りの雨が朝から夕方まで絶え間なく降り続いた。カフェはひっそりと静まり、僕とパンニャーのふたりがいるだけだ。僕は落ち着かない気持ちで、ただ入り口を見つめていた。テピー、あの小柄な女性がいつものようにコーヒーをテイクアウトしに現れないからだ。そのとき僕は気づいた。本当のところ僕は、ステンレスボトルに留められた彼女のメモを読みたいだけではないんだ。彼女に会いたい!コーヒーを入れる店員とコーヒーを買う客としてではなく、もっと深いかかわりとして。彼女にちゃんと聞かなかったことが悔やまれる。君は誰?どこで仕事をしているの?そして何より大事なこと、もう恋人はいる?
一生のうちにチャンスなんてそうあるわけじゃない。だからもし、もう一度彼女に会う運命が定められているなら、正式にデートを申し込まなくては。今チャンスを掴まなかったら、いつ掴む?日常が戻ってくるまでなんて待っていたら、あと何年待つことになる?いい結果が生まれるように今日努力しなかったら、いい日がやって来ることなどないだろう。
「そうだよ!」
つい大声で叫ぶと、そばに立っていたパンニャーが驚いてびくっとした。
「何が、そうだよ、なんだ?」
パンニャーは訝し気な顔で聞いてきた。
「なんでもないよ」
僕は急いでパンニャーのそばを離れた。
火曜日の朝がやってきた。僕が願っていたとおりに、サトウヤシのボトルの彼女はカフェにぱっと現れた。でも今回はいつもと違う。静まり返ったカフェの真ん中で僕らふたりの視線が交差したとき、僕には自分の心臓がどきどきと飛び跳ねる音が聞こえた。それは、店に流れるジャズもかき消すほどの音だった。彼女がボトルを手渡すのを待つよりも早く、僕はあらかじめ書いておいたメモを高く掲げた。僕が書いた問いに彼女がどう答えるか待つ間にも心臓の跳ねる音は早くなり、もはや胸を突き破って出てきそうだった。
If you are single, would you go on a mask date with me?
「もし君がフリーなら、僕とマスクデートしないかな?」
僕は彫刻のように硬直し、つっ立ったまま答えを待った。でも彼女のほうがもっと、魂が抜けたみたいになっていた。ぴくりとも動かなかったのだ。思いもよらないことに、彼女は何も答えないだけでなくそのまま店を飛び出して影も残さず消えてしまった。僕は立ち尽くし、絶望的な気分で彼女が出て行ったドアに目をやった。それから、何とか笑顔を作り気持ちを立て直した。ばかなことをしたものだ。新型コロナウイルスが流行っているこんなときにデートに誘うなんて。彼女がオーケーしないのも当然だ。そう……いずれにしても僕はチャレンジしたのだ。答えがどうかは重要じゃない。彼女にはすでに恋人がいるということだってあり得るし、僕にまったく関心がないということだって考えられるじゃないか。
しばらくすると突然、店のドアが開き、ついさっき駆け出して行ったばかりの巻毛に近眼鏡をかけた小柄で細身の姿が現れた。僕はびっくりして目を見開いた。
何か、忘れ物をしたのかな?
尋ねようと口を開きかけたところで、あることが僕を黙らせた。読み間違えないよう目をしっかり開き、小さなメモ用紙に書かれた一語を読まなくてはならなかったからだ。読み間違えたら台無しだ。でも、何度見直してもその一語は変わらなかった。
Yes
“はい”
彼女は、マスクをしたまま僕とデートすることを承諾してくれた!
そのとき、僕たちは1メートルの距離をおいて向き合い、何も話さず立っていた。シン・シサモットの歌が流れて、僕たちに代わって感情のすべてを語ってくれるのにまかせておいた。僕がこのときどれだけ気持ちを高揚させていたかを表現するのには、それで十分だった。