ベトナムの若者と日本文学:映画化による関心の高まり―ダオ・レー・ナー

Report / アジア文芸プロジェクト”YOMU”(ベトナム)

映画の誕生によって、文学作品は新しいプラットフォームを獲得し、観客にさまざまな新しい体験をもたらすことになった。語り手の言説が「映画の言語」に変換されることで、意味が幾層にも重なり、観る人もそれぞれに異なるアプローチで物語を発見できるようになった。映画は視覚と聴覚に直接訴えるため、観客を魅了しやすい。複雑なストーリーや文化的なテーマ、作品が扱う分野独特の美学を伝えるのに効果的なメディアだといえるだろう。

1.原作を読む前に映画化作品を観るというプロセス

アダプテーション(翻案)研究において、長年研究者たちは、映画化によって原作に修正が加えられることや、映画制作者による作品の解釈の仕方、また、作品を観たあとの観客の反応等に関心を寄せてきた。映画制作者は、作品の中で自分が最も興味をもち、心惹かれたテーマや内容と対峙し、対話をしながら作品を作り上げる。文学作品を映画化するということは、結局のところ制作者が文学作品をどのように読み解くのか、ということに尽きるだろう。だが、一つの小説には多くのメッセージが込められていて、読者が感銘を受ける部分もそれぞれ異なる。そのため、原作を先に読んだ観客は、映画化された作品を観て、しばしば映画の内容と原作を比較せずにはいられないようだ。もし観客が原作に存在している多くのディテールが省略されていると感じたり、期待しているような出来栄えではなかったりした場合、この作品は低い評価を受けることになるだろう。しかし、このような評価は本質的に映画化作品にとって公平であるとは言えない。なぜなら文学作品一つとってみても、読者によって解釈の仕方、感じ方が同じではないように、映画化された作品で得られる体験も人によって異なるからだ。映画化作品は、文学作品を受けて誕生したものではあるが、文学とは別の言語で語られたものであり、この「映画の言語」を認めなければ、映画に込められたメッセージを読み取ることはできない。しかし、多くの観客は「映画の言語」を無視し、ストーリーだけで判断してしまうため、映画作品の真の意味を理解することができないのだ。

ここ数年のデジタル技術の発達で、映画は多くの観客を獲得することになった。以前は、文学作品の評判次第で映画版を観るかを決めていた人が多かったが、最近は映画を観てから原作を読むかどうか決める人が増えてきた。この流れは、多くの観客に作品を解釈する間口を広げ、映画化作品に対してより共感してもらうのに一役買っており、映画の良し悪しを文学作品と比べて評価するという傾向もはるかに少なくなってきている。

映画版を先に観てから文学作品を読むことで、観客は原作に新たに追加されたディテールや、省略されたり修正を加えられたりした部分を受け入れやすい。映画を観ている時点で、まだ文学作品を読んでいないので、両者の違いを知る由がないからだ。自分の期待に映画が応えられているかどうかを確認するために、監督と自分の解釈を比較したり、期待をかけたりすることもないのだ。

デジタル時代のいま、若い読者は日ごろから映画、テレビ、ソーシャルネットワークサービス等の多様なエンターテイメントに囲まれて過ごしている。彼らにとって、長い小説を始めから終わりまで一冊読むのに時間を割くというのは、大きなチャレンジだ。そのため、多くの人が文学作品との最初の接点として、映画化された作品を観るという選択をするのである。映画が十分に魅力的であれば、ストーリーへの理解を深め、文学作品の新たな側面を発見するために、原作を探して読むこともあるだろう。ときに文学作品は、セリフ、会話、行動を通して読者が登場人物の心情をより深く理解するのを助けてくれる。一方それらを「映画の言語」ですべて表現するには限界がある。映画そのものに時間的制約があること、また映画は一定期間しか上映されないこともあり、観客は作品に込められた意味のすべてを受け止めきれるとは限らない。

2.映画化が日本の文学作品の読解にもたらす影響

ここ数年、日本の映画や文学はベトナムにおいてますます人気を集めている。文化交流プログラム、映画や芸術に関する講演会や日本に関するコンテストなどが開催され、“Close-up Japan”のようなレクチャーシリーズや、わび・さびについての講演会、生け花のワークショップ、黒澤明映画祭、日本文学研究についての論文コンクール(井上靖賞)、日本—ベトナム俳句コンテストなどが盛んに行なわれている。『月の裏側』、『わびさび——完全に不完全な人生のための日本の知恵』、『能楽の芸術:世阿弥の主要な論説』等の日本の研究書も次々に出版されていて、ベトナムの若者が日本の文化に強い関心をもつきっかけを創り出している。しかし、あらゆるメディアの中でも映画は、日本の文化や文学を最も強力に、かつ効果的に宣伝するツールだと言える。

ベトナムの若者の中には、日本の文学作品を読むことに困難を感じている人も多く存在する。日本の文学作品はストーリーが複雑で多義的であり、哲学的なテーマを含んでいるため、映画化された作品を先に観ることを選ぶ人もいるようだ。原作をあとから読むということは、古典的な文学作品を理解する場合や、こだわりのある読者にとっては効果的な方法だといえるだろう。日本文学を研究しているある学生が、川端康成の『美しさと哀しみと』の映画を観たあとに原作を読んだ印象について語ってくれた。「映画を観てから原作を読むと、ストーリーがすんなりと理解でき、バックグラウンドや登場人物が視覚化されることで、私の読書体験がより生き生きしたものになりました。また、映画化された作品は原作の内容に修正を加えたものと知っても、ネガティブな感覚にはなりませんでした。」*1 川端康成の『美しさと哀しみと』は、文学的な言語の美しさを通して人間の内面の世界に深く切り込む作品であり、簡単に読める作品ではない。また、ストーリーに変化をもたせるドラマ的な要素もなく、道徳倫理の問題に焦点をあてているわけでもないため、テンポが非常にゆっくりしている。これは多くの若い読者にとって図らずも障壁となっているようだ。彼らは解釈に難しさを感じてしまうと、作品を読破することをあきらめてしまう。一方、映画化された作品においても、たいてい文学作品の魂を継承しているので、たとえ作品のプロットや細かな設定が変更されていたとしても、映画を観た人たちはその魂を感じることができる。映画化作品を先に観ることで、読者は人物や物語の背景、ストーリーの雰囲気を知ることができるのだ。映画の映像や音声は観る人に直接作用して、彼らがストーリーをよく理解し、記憶にとどめるのを容易にしてくれる。映画化作品を先に観るということは、読者がストーリーの骨子や作品の魂を感じ取るのに役立つという意味で、文学作品との最初の出会いだと言えるかもしれない。そして、映画を観たあとに原作を読むことは、2度目の出会いと言えるだろう。映像が読者の頭の中にまだ強く残っているため、ストーリーを追いやすく、映画にはなかった情報を補充したり、登場人物の心理をより深く理解したりしやすくなるからだ。木藤亜也の『1リットルの涙』という作品を、同名のテレビドラマ化された作品を観たあとに読んだという、ある若い学生は、そのときの感想を次のように語っている。「私は『1リットルの涙』というドラマを観たあとに原作を読みました。映像は多くのイメージを提供してくれたので、私は俳優の演技一つひとつに感情移入しやすくなっていました。しかし、綾の内面や、彼女がどのような人であったかは、本を読んで初めて気づくことができたのです。映像を観ていたとき、彼女は絶望の中を生きているに違いないと考えていました。でも本を読んで、彼女がいつも物事を楽観的にとらえ、その人生に多くの希望を抱いていたことを知りました。映像を先に観ていたので、本を読んだときにすぐに頭の中に情景を思い浮かべることができました。言葉がすらすらと入ってきて、本のページが本物の映像のように浮かび上がり、本を読むにも時間がかかりませんでした。会話の部分は、まるでドラマに出てきた人物の声を聞いているかのようでした。」*2

*1 2004年生まれ男子学生、日ごろから映画化作品を観てから原作を読む

*2 2000年生まれの女子学生、ときどき映画化作品を観てから原作を読むことがある

日本文学を学び研究する過程では、本のタイトルや装丁に惹かれたり、友人から紹介されたりすることによって、先に原作を読もうとする若者が多いようだ。しかし、ストーリーのテンポがあまりにも遅かったり難解だったりして、途中で断念してしまう人も少なくない。そのような中で映画化作品が世に出るようになり、彼らは映画を観たあとに、読みかけの文学作品の続きを読んだり、再度手に取ったりするようになったのだ。ある読者は、市川卓司の『いま、会いにゆきます』について次のように話している。「正直、自分が本を買ったのは、魅力的なタイトルと、美しい装丁に惹かれたからでしたが、何章か読み進めていくうちに興味が薄れてしまいました。冒頭の部分での日常生活の描写が淡く、あまり魅力を感じなくなってしまったからです。しかし、映画を観終わったとき、私は感動して号泣してしまいました。意を決して再び本を読み始めると、このラブストーリーの中に描かれた日々の生活や、シンプルな事柄の背後にあるさまざまな感情を深く理解できるようになっていました。同時に、私は夏のにわか雨のように優しく軽やかで、静かなこの小説の美しさに初めて気づかされたのです。読み終えたあともその感覚はなお、私の心の中に残っています。」*3

*3 1991年生まれの女性読者、就労者、ときどき映画化作品を観てから原作を読むことがある

ベトナムにおいて数多く翻訳され、あまたの愛読者をもつ村上春樹の作品も、若い読者にとって読むのが容易だとは言えない。そのためまずインスピレーションを得るために、映画化された作品を先に観るべきか思案する読者もいるのだが、実際本を読み終えてみると、映画よりも文学作品の方が好きになっている、ということもあるようだ。ある学生はこの点について、自らの体験をためらうことなく話してくれた。「『ノルウェイの森』をめぐる私の心情の変化は一筋縄ではありませんでした。原作を半分以上読んだところで、なぜだか読み続けることができなくなってしまったのです。映画が公開されたタイミングで観に行き、その後もう一度本を最後まで読みなおしました。すると私は原作の方がテンポが良く、好きだと感じました。映画も興味深くはありましたが、トラン・アン・ユン監督のスタイルを意識し過ぎているようで、本ほど共感できませんでした。」*4

*4 1994年生まれの若い読者、日ごろから映画化作品を観てから原作を読む

映画化作品を先に観てから原作を読むことは、文学作品を読むきっかけになり、読者がストーリーをより深く理解するのにも役立つ。また、原作への好奇心を満たすといった側面もあるが、何より個々の文学作品の宣伝になる。芥川龍之介の短編小説は映画『羅生門』で多くの人に名を知られているし、村田喜代子の作品は映画『八月の狂詩曲(ラプソディー)』で、かぐや姫はアニメーション映画『かぐや姫の物語』で、野坂昭如の作品は『火垂るの墓』で知られるようになった。

デジタル技術の発展は、多くの若者の本の読み方や映画の観かたに変化をもたらし、原作を読む前に映画化作品を観る傾向も著しく増加している。ただ、先に本を読むにしても、映画を観るにしても、文学や映画は、物語や知識、生活様式や文化などを多くの視聴者に広く伝える効果的なメディアであることに変わりはない。

ベトナム語からの翻訳:吉江亜希子


ダオ・レー・ナー
ベトナム国家大学人文社会科学大学ホーチミン市校文学部上級講師。現在2021-2022年度フルブライト客員研究員として、米国マサチューセッツ大学アマースト校に滞在中。アダプテーション(翻案)研究に関する著作があるほか、学術誌に多数のエッセイを寄稿。『Contemporary Japanese and Vietnamese Cinema:Cultural Exchanges and Influences』(情報通信出版社、2019年)の編集長を務めた。