みんな寂しいから、来てもらいたいのは来てもらいたいんですよ。どんなかたちであっても、とにかく付き合っていきたいという想いは……。(小岩)
—震災以降、三陸はさまざまな民俗芸能が息づいた場所であることが再注目されています。なぜ三陸には、このように豊かな芸能が残されているのでしょうか?
小岩:三陸はリアス式海岸のため、海と山のちょうど境目になっている場所で、海からも山からも人がやってきてぶつかり合うところ。いまでこそ中心的な交通ルートからは閉ざされていますが、過去に海の道、山の道といった異なる交流の文化があったからこそ、これだけの民俗芸能が花開いたんです。だから「習いにいくぜ!」でも、参加者と地元の方は問題なく関わり合えるのでは、と考えたんですよ。
三陸国際芸術祭
―一見、閉ざされている土地のようにも見えますが、歴史的に見れば、いろんな文化を受け入れるポテンシャルがあると。実際コーディネートされてみていかがでしたか?
小岩:正直やりづらかったです(笑)。それはやっぱり閉ざされてしまっていたんですよ。交通が内陸部で発達して以降、沿岸部は閉ざされ、岩手出身のぼくでも「見えない」世界になっていました。自分自身、岩手県一関市の「行山流舞川鹿子躍」の伝承者であり、どうやって地元の人と付き合ったらいいかはわかっているはずなんですが、特に民俗芸能に関わっていない人々にどうやってアプローチをしたらいいかは未知数だったんです。
―以前、プロデューサーの佐東さんから「習いに行くぜ!」を受け入れてもらえるまで、1年かかったという話を聞きました。
小岩:だって、ただでさえ震災でいろんな人たちが入ってきたのに、京都の方(プロデューサーの佐東は京都在住)がいきなり三陸にやって来て、「コンテンポラリーダンスだ、習わせてくれ」って言ったって、現地の人からすれば意味がわからないですよね(笑)。それは僕らみたいなコーディネーターがちゃんと話をしていかなければならないんですよ。
「大槌まつり」での臼澤鹿子踊 2012年 撮影:公益社団法人 全日本郷土芸能協会
―すごく繊細に気を遣いながら、芸能に関わっていない人へのアプローチも含めて、少しずつ味方を作っていかなければいけなかったんですね。
小岩:そうなんです。じゃないと、お金をかけてイベントしました、ってだけの話になってしまいますから。せっかく話をして、ご飯を食べて、踊りを習ったのに、1回きりの関係で終わってしまうのはお互いにとって不幸ですよね。芸能に関わる人だけでなく、地域のネットワークを用意することで、「また来やがった」と言われるほどの関係性を残していくべきだと感じていました。
―じっくり時間をかけて関係を築いていって、どこかのタイミングで「じゃあ、やってもいいぞ」ってなると思うんですが、そのポイントはどういうところにあるんでしょうか?
小岩:うーん……なんでしょう。でも、みんな寂しいから、来てもらいたいのは来てもらいたいんですよ。どんなかたちであっても、とにかく付き合っていきたいという想いは……。特に今回の被災地は外との付き合いのないまま70、80年生きてきた人たちも多いので、なにかしら新しい人たちが来てくれれば、ちょっと付き合ってみたいという気持ちは、被災地だけじゃなく東北全体でもあったように感じています。
―そうだったんですね……。
小岩:だから、アプローチをした人たちが「また来るよ」という言葉だけじゃなくて、ちゃんと次も来る約束をするのが大事。なんでもいいんですけど、今回は冬に教えたから、次は夏祭りに絶対来いよ、って約束して、夏に行ったら踊れなくてもいいから法被を着せられたりとか、ご飯の手伝いをさせられたりとか。役割を用意しておいてあげなければ、というふうに地域の人たちは思っているでしょうから、お互いにちゃんと考えてやっていけば、継続してつながれると思います。