東京にあるダンスの可能性 shoji×石井達朗対談

Interview / DANCE DANCE ASIA

ダンサーがいくら「ダンスおもしろいよ、観にきてよ」って言っても、そこには「ダンスが好き」というエゴが含まれていると思うんです。(shoji)

shoji:いま活躍しているストリートダンサーの多くはオールラウンダーを目指していて、あるジャンルのスキルを一定のレベルまで高めた後は、その次のチャレンジに向かっています。ぼくたちもハリウッドのミュージカル映画から、ジーン・ケリーなどに影響を受けて、ダンスと物語の融合を目指しています。

石井:ダンスは時間芸術ですから、30分なら30分の作品のなかに物語の構造があって、その展開を見せていくというやり方があります。その一方で、まったく意味もストーリーもなく、純粋に踊る喜びだけが持続する、あるいは「踊る喜び」とは別種の、クールに「ムーブメント(動き)」そのものを積み重ねる、極めてコンテンポラリーなスタンスもあるわけです。インドの伝統舞踊でも、「ヌリティア」という物語の流れの一端を演じて見せるダンスと、「ヌリッタ」という複雑なテクニックの歓びを見せる抽象的なダンスを分けて考えます。バレエの世界では20世紀前半にジョージ・バランシンという振付家が、身体の動きの構成そのものを魅力的に開示する「抽象バレエ」の美学を確立しました。ストリートダンスでも『A Frame』は、三人の演出家(oguri from s**t kingz、Jillian Meyers、スズキ拓朗)が、16名のダンサーのシークエンスをうまく構成して、物語性と抽象性をコントロールしていましたよね。

公演中の様子の写真

『A Frame』 (c)Tadamasa Iguchi / DANCE DANCE ASIA

shoji:『A Frame』の合同リハーサルは2週間と短かったそうですが、テクニックと演出が融合していておもしろかったですね。次の展開の可能性を感じました。1990年代生まれの若いダンサーたちにとって、優れたテクニックを見せたい部分も当然あったと思いますが、物語を紡いだり、他者と共感しあう経験は、ダンス表現の可能性にも意識を向けるきっかけになったと思います。

石井:「作品」としてのダンスに最終的に求められるのは、トータルな演出力だと思うんです。単に得意技と即興を見せているだけでは20分持たせるのが難しい。不特定多数の観客に身をさらすことは、そのスケールが大きくなればなるほど演出力を問われます。たとえば、伝統的なサーカスは、技を披露する芸人とその間をつなぐクラウン(道化、ピエロ)というスタイルが飽きられ、都市化により集団移動のシステムが困難になり、あわせて映画・テレビなどほかの娯楽メディアの興隆により、20世紀後半に衰退しました。しかし、1980年代になると、演劇、舞踊、美術、ミュージカル、ロックなど他ジャンルの要素を積極的に取り入れ、現代的な演出と構成によるパフォーマンス性を重視することにより、ヌーヴォーシルク(新しいサーカス)として甦りました。コンテンポラリーダンスの世界でも、ダンスのことだけ考えていても埒があかないことがあります。どう生きて、食べて、人と接し、世界を見ているかが、作品性と密接につながっていくわけなんですね。

公演中の様子の写真

『A Frame』 ©Tadamasa Iguchi / DANCE DANCE ASIA

shoji:いつも思うのですが、ぼくのようなダンサーがいくら「ダンスはおもしろいよ」「観にきてよ」って言ったとしても、そこには「ダンスが好き」というエゴが含まれていると思うんです。お客さんにダンスという身体言語の魅力を伝えるためには、ダンスそのものを見せるだけでなく、演出力でそのクオリティーをさらに高める必要がありますよね。

ダンスで時代に異を唱えることもアリなんです。(石井)

石井:一方で、いまのダンサーやアーティストには「歴史観」も問われていると思います。多くの先人たちによって紡がれてきた歴史の最先端に立って仕事をするためには、そこに至る流れをどう捉えるのかという眼差しも必要です。そこにその人のスタンスが表れます。自分たちが生きているこの時代をどう見るか? 自分の立ち位置をどう見るのかということですね。

shoji:最近アフリカのダンスにも興味があるのですが、彼らの身体のリズムがアメリカに渡ってストリートダンスの原点になり、新しい表現スタイルが生まれていくきっかけとなったとともに、近年のアフリカ社会の成熟により、また新しいダンスの波が起きようとしていると感じます。一方、イスラム社会の一部の国では外で踊ることも許されず、屋内の閉じたコミュニティーのなかで隠れてダンスレッスンが行なわれているところもあります。ぼくたちが生きているのは、やりたいことができる環境に恵まれている国・時代なのだと思いますが、その現状に満足せず、次の世代のためにもよりレベルを上げて、より良い環境を作っていく必要があるのを感じています。

インタビュー中の石井さんとshojiさんの写真

石井:ダンスで時代に異を唱えることもアリなんです。1980年代以来、イギリスのマイケル・クラークという振付家は、バレエ界のエリートダンサーでありながら、一部の人たちが眉をひそめるのをよそに、実験的な作品を作り続けています。舞台上にヌードや異性装、自分の母親を乗せたり、ロックやパンク、同性愛のイメージを前面に出しました。土方巽の「舞踏」も西洋のダンスの歴史に真正面から抗うように、「踊れない身体」を再発見しました。現実の世界は一見自由でありながら、制約に満ちています。コントロールしつくされた社会では、身体の行動様式のディテールにまで制約が行きわたる。そんな現実を作品でコピーしていても意味がありません。芸術であるからこそ、なにものにもとらわれない発想で自由に表現できるはず。10代と50代、60代のダンサーが同じ舞台に立つのを観てみたいし、訓練された特別な人だけでなく、病に倒れた人も老いた人も障害を持っている人も、体を動かして表現する自由をもっている。ストリートダンスにはそれがどんな難しいテクニックでも、街を歩いている誰かの身体から湧いて出てくるような、学びを超えた自由があります。世代論で片付けられない身体表現の無限の可能性を開拓して、言葉、世代、人種、性別などあらゆる違いを超えて新しいものを作ってほしいですね。表現者の特権はまさにそこにあるからです。