映画監督を志したきっかけ
土田環(以下、土田):現在、TIFFの「CROSSCUT ASIA」部門では、インドネシア映画特集を実施しています。そのインドネシア特集の中から、今日は映画監督のモーリー・スリヤさんにお越しいただき、皆さんたちとお話をしていただきます。皆さんには、事前に監督の作品『フィクション。』(2008年・長編第一作)と『愛を語るときに、語らないこと』(2013年・長編第二作)の予告編を見ていただきましたが、これから『愛を語るときに、語らないこと』の本編を少しだけご覧いただいてから、お話を伺いたいと思います。
それから、本日は山形国際ドキュメンタリー映画祭のプログラム・コーディネーター若井真木子さんにご協力いただき、通訳と解説をお願いしています。それでは、監督から一言よろしくお願いします。
モーリー・スリヤ(以下、モーリー):こんにちは、映画監督のモーリー・スリヤです。本日はありがとうございます。よろしくお願いします。
土田:モーリーさんはジャカルタのご出身ですか? オーストラリアで映画の勉強をされたそうですね。
モーリー:はい。19歳頃までジャカルタで育ち、その後オーストラリアに6年ほど留学しました。大学ではメディア・アートと文学を学び、その後、修士課程で映画制作を学びました。今はジャカルタに住んでいます。
土田:監督は元々、映画が好きだったのですか?
モーリー:実は、最初から映画に情熱を持って勉強してきた監督たちに比べると、私は遅いスタートだったと思います。子どもの頃は本やマンガを読むのが大好きで、『キャンディ・キャンディ』 *1 に夢中でした。私は元々、小説家を目指すほど書くことが好きで、10代の頃は詩もたくさん書いていました。手紙を書くのも得意だったので、よく友人に頼まれてラブレターを代筆していました。大学生の頃は小説家を目指して、いろんな文学を勉強し、読んで、書いていましたが、母国語でない英語で書物を読み、言葉を紡いでいく中で、ある時期から自分の書くものにぴったりとはまる言葉が出てこないというか、沸々と疑問が湧いてきました。とても素晴らしい文学を読んでいるうちに、自分は将来そういうものを書けないのではと壁にぶち当たりました。ちょうどその頃、アマチュアの映画作家である友人を手伝うことになって、そこから急激に映画にのめり込んでいきました。表現方法の一つとしては、映像も小説に似ているなと思います。
*1 1975年から1979年にかけて少女漫画雑誌『なかよし』(講談社)にて連載された人気漫画。1976年からテレビアニメ化され、世界各国で放送された。
土田:映画監督を志したのは、いくつの時だったのですか?
モーリー:21、22歳の時です。大学卒業後、1年半かけて映画制作の修士号を取り、その後インドネシアに戻って、2、3年くらい主に映画やテレビドラマの助監督をしていました。修士から現場に入って助監督をやる人は珍しいかもしれません。その中で私の夫、当時は恋人でしたが、彼に出会い、共同プロデュースで『フィクション。』を作りました。27か28歳の時でした。今も彼は私の映画を全てプロデュースしています。
土田:インドネシアの映画産業では、女性は多く働いているのでしょうか?
モーリー:結構多いですね。特に女性のプロデューサーが多いです。大手映画会社は男性の方が多いですが、私の知っているプロデューサーの多くは女性です。中でもミラ・レスマナ*2 という女性プロデューサーはとても有名です。
*2 1995年に映画製作会社MILES FILMSを設立し、ルディ・スジャルウォ、アグン・セントーサ、イファ・イスファンシャやリリ・リザといったインドネシアの著名な映画監督とタッグを組み、プロデューサーとして多数の映画を製作している。
土田:なぜ女性のプロデューサーが多いのでしょうか?
モーリー:逆に言えば、女性監督じゃなくて、女性プロデューサーが多いということですね。もしかしたら女性は整理整頓やオーガナイズするのが得意という、ステレオタイプみたいなものがあるかもしれませんが、夫婦で映画を製作する場合、夫が監督で、妻がプロデューサーというケースが多いです。なので、私たち夫婦はある意味稀で、夫婦で紹介される時、やはり最初は夫が監督だと思われることが多いです。実際は異なりますが、プロデューサーという職業が補完的な役どころという認識で、男性はプロデューサーよりも監督をやりたいと思うのかもしれません。
土田:今回、TIFFで上映されたカミラ・アンディニ監督の『ディアナを見つめて』(2015)で描かれる世界が顕著だと思いますが、やはりインドネシアというと、一般的にはイスラム教の強い影響、男性の方が社会の中で優位という印象があります。その中で表現する人が女性であるということは、なかなか大変なのではないかと想像したのですが。
モーリー:『ディアナを見つめて』は、男性が二人目の妻を娶る中で一人目の妻が葛藤するという話ですが、実際インドネシアで複数の妻がいる男性も多いですし、私たちが持っているムスリム社会のいわゆるステレオタイプというのは、ステレオタイプであると同時に、現実であることも多いです。ただ、ムスリム社会やイスラム教ということより、教育を受けていない女性がそういった状況に陥るという場合も否定できないと思います。そういった環境の中で何もできない、何もしてはいけないというふうに教え込まれてしまったということもあるかもしれません。
日本でもそうかもしれませんが、家父長制の社会ではどうしても男性を有利にする動きがあります。もしかしたらムスリム社会において、イスラム教は家父長制というものを正当化する一つの手段として使われているのではないかとも思います。だからもちろん映画産業だけでなく、こういった社会の中で女性がリーダーになること自体、やはり難しいです。男性が野心を持ってリーダーになっていく中で、女性は仕事を持ちづらく、家族や出産などで色々と葛藤があるので、他の業界と同じように、女性が映画監督になる難しさはあると思います。ただ私の場合は、夫は監督志望ではなかったので、共同作業として私が監督、彼がプロデューサーということが可能でした。
土田:オーストラリアへの留学もそうですが、映画監督になることについて、ご両親の反応はいかがでしたか?
モーリー:父は、私がオーストラリアに留学して文学を勉強することについて、一番の理解者で、本当に応援してくれましたが、修士課程で映画を勉強するとなった段階で、大反対されました。でも、私の兄弟たちが学費の援助や後押しをすごくしてくれて、夢を叶えることができました。それから帰国当時、私はまだ独身で、映画の制作現場で働いていたのですが、ご存じのように映画やテレビ番組の制作現場というのは夜遅くまでかかったり、朝早くから始まったりするので、結婚前の女性が夜中まで働いたり、出歩くことに対して白い目で見られていたのがちょっと大変でしたが、結婚後、それはガラッと変わりました。
これも家父長制の特徴かもしれませんが、インドネシアでは、結婚したら妻は夫に属するような形になります。逆に言えば、夫がオーケーであれば、妻はいろんな面で社会的に許されることがあります。例えば、私は煙草を吸いますが、独身時には周りから白い目で見られていたのが、結婚後には、それは夫が承認しているから吸っているのだろうということで許容されてしまうのです。だから家父長制も、ある意味で結婚後は一つの盾として使えるのではないかとも思います。
また話が戻りますが、私は小さい頃から反抗心旺盛だったので、オーストラリアに行って、やっと自分の表現が自由に出来る感覚を味わいました。同級生が自由に発言している姿を見て、自由に学んで表現できることを羨ましく思い、またそれに馴染みました。帰国してそういうことが出来なくなった難しさはあります。
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