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ダンス・プログラムのキュレトリアルな実践と研究――ヘリー・ミナルティインタビュー

Interview / Asia Hundreds

インドネシア舞踊界の現状を反映したプログラミング

――どのように舞踊のプログラムを実施していますか?

ヘリー:最近まで、自分は舞踊界では異質な存在だと思っていました。なぜなら、舞踊関係者のほとんどは、多かれ少なかれ似たような経歴だからです。たとえば、多くの人は伝統的な舞踊の踊り手として出発し、ジャカルタ、ソロ、バンドゥン、ジョグジャカルタのダンスアカデミーに入学します。卒業後はプロの踊り手か振付家または踊りの先生などになります。私は異なる経歴で、紆余曲折しています。ですので、舞踊関係の一部の人々が私のことを、地域のことよりも国際的なシーンに詳しい人として見ているかもしれないことに気づいていました。

これは、インドネシア舞踊の歴史、現在の実践について私が研究する理由のひとつになっています。舞踊にはたくさんの課題と問題があります。一時にすべてを解決するのではなく、明快な目標と方向性をもって忍耐強く、時間をかけて解決に向かうしかありません。今、緊急の問題だと考えているのは、ナショナル・アカデミーや他のナショナル・プロジェクトを通して制度化される経緯で、インドネシアの舞踊状況に批評的思考が欠けてしまったということです。
たとえば、カウンシルで前任者から引き継いだ『マエストロ!マエストロ!』というプロジェクトがあります。年長の踊り手が「マスター」として再紹介される場でした。でも私たちは、その場を伝統舞踊に関する深い議論を展開するプラットフォームに変えました。「マスター」は幅広くディスカッションするための媒体です。ですので、名称も『マエストロ!マエストロ!』から『Telisik Tari』と変えました。「ダンスを研究調査する」という意味です。ただ賞賛するだけではなく、背後にある多くの重要な問題―型そのものについて、何が変化したのか、しなかったのか、伝統は変えられないのかというような挑戦的な考えなどについて話し合う機会―伝統舞踊の問題を議論する場に、今はなっています。伝統は受け継がれるものです。しかし私たちは、概念を変化させ、私たちの伝統を創ることもできるのです。そして、それらを記録します。
舞踊の世界では批評があまり発展していないので、批評家たちに執筆を依頼し、古い/歴史的な記事や文書のセレクションから、インドネシア舞踊の研究をするアンソロジーを出版する計画もあります。1970年代の批評を読み、なぜ今がこうなっているのかを知るのです。
また、新進の振付家のためのプロジェクト、「振り付け実験室:進行中のプロセス(Choreo-Lab: Process inProgress)」も立ち上げました。最初は自分でリサーチしました。旅をして作品を観て回り、可能性のある3人の若手振付家をピックアップし、徐々に小さな「アカデミー」を立ち上げました。

――どのようなアカデミーですか?

ヘリー:昨年最初に選ばれた3人の振付家はそれぞれ、テキストを取り扱ったり、言語を使ったり、とても異なった方法で作品をつくります。彼らを4日間のワークショップのためにジャカルタに招き、舞踊以外の分野から参加してもらった2名のメインのファシリテーターと作業をしてもらいました。1人はスプラプト・スリヨダルモ(Suprapto Suryodarmo)というアムルタ・ムーブメント・アプローチで知られている人です。もう一人は、ハナフィ(Hanafi)という演劇と現代舞踊の文脈で仕事をしている映像作家です。ハナフィは都市の雑踏から離れたジャカルタの郊外にスタジオを持っていて、ワークショップはそこで行われました。それ以外に、舞踊分野ではない映画、演劇、文学分野から知識の源となるような人を招きました。

――メンターのような存在ですね。

ヘリー:はい。今年は、同じ2人のメンターとその他の人たちと同じプログラムを実施します。どのような結果がでるのか様子を見ています。

アジアハンドレッズのインタビュー中のヘリー・ミナルティ氏の写真3
写真:鈴木孝正

国際ダンス・プログラムのキュレーション

――国際交流の場面でもキュレーターとしてさまざまな事業に関係していますね。

ヘリー:私の最初の海外でのキュレーターとしての仕事は、2004年にベルリンで開催されたアジア-ヨーロッパ・ダンス・フォーラムです。その時はまだASFレジデンスの最中で北京にいましたが、当時アジア・ヨーロッパ財団にいて現オン・ザ・ムーヴの事務局長のマリ・ル・スール(Marie Le Sourd)が誘ってくれました。すぐに承諾しましたが、その時も、自分がアジアについてもアジアの舞踊家についても何も知らないことに気づきました。実践による学習の方法という意味で、です。すでにキュレーターのひとり、ベッティーナ・マーズッフ(Bettina Masuch)が枠組みを考えていて、「誤解(Mis/Understanding)」をいうテーマを提案してきました。「アジアとヨーロッパはいつも誤解し合っている。だから、まずは、正直になるところから始めましょう」というのが彼女の考えでした。賛同しました。その時は、16人の振付家が招かれ、そのなかの1人は、振付家・演出家の矢内原美邦さんでした。
その後、2006年に韓国で開催された「モンスーン」にも共同キュレーターとして参加しました。アルコ・レンツ(Arco Renz)と彼が主宰するコバルト・ワークス・カンパニーが主催したアジアとヨーロッパ間の2週間の交流プロジェクトです。それは、舞踊に限定されていなかったので、演劇のアーティストをインドネシアから派遣しました。

アジアハンドレッズのインタビュー中のヘリー・ミナルティ氏の写真4
写真:鈴木孝正

それから、インドネシアン・ダンス・フェスティバル(IDF)です。2014年に共同キュレーターとして参加しました。IDFは、フェスティバルを20年間続けて2012年に初めて市から大きな額の資金提供を受けました。前年度のフェスティバルは偶然にも20周年でした。すでにシンガポール出身のキュレーター/プロデューサー、タン・フクエンや日本の舞踊批評家・武藤大祐さんが2006年と2008年にキュレーター委員会に招かれていました。2012年度のプログラムは、正直に言って、批評的思考に欠けていたし、インドネシア側と海外から参加したキュレーターの間に、見せたい作品についてのビジョンの相違がありました。第一に、IDFは1992年に設立された当初からある種の仕事のやり方をしていて、それは私とは異なるものだったので、参加には乗り気でありませんでした。何カ月も話し合い、最後には大祐の説得で参加することになりました。彼は、2013年にバンガロールで開催されたアタカラリ・フェスティバルの最中に、フクエンと2人の重要なリーダー、マリア・ダルマニンシ(Maria Darmaningsih)とヌンキ・クスマストゥティ(Nungki Kusumastuti)と話し合いをしたのです。そこで大祐は、キュレーター委員会に加えコンサルティング委員会を立ち上げることを、IDFに提案しました。私は、そのキュレーターおよびコンサルティング委員会の両方に入り、中間に位置することになりました。そして後者を組織するときに、舞踊以外の分野から同僚を招きました。1人は詩人、劇作家、批評家のアフリザル・マルナ(Afrizal Malna)です。彼は、9年間ダンサーのフィトリ・スティヤニンシ(Fitri Setyaningshi)と仕事をしていたことがあります。もう1人は、ルアングルパ・コレクティブのアデ・ダルマワン(Ade Darmawan)、それからテンポ・マガジンから詩人のジョコ・スヨノ(Joko Suyono)、サリハラ・コレクティブの舞踊キュレーターのトニー・プラボウォ(Tony Prabowo)です。
IDFでの私の仕事は、フクエンと大祐から提案された国際的なことと、私と、地域の文脈とを「つなげること」だったと思います。