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ダンス・プログラムのキュレトリアルな実践と研究――ヘリー・ミナルティインタビュー

Interview / Asia Hundreds

舞踊における伝統と現代の関係性

――先だって舞踊公演で、隣の席のカンボジアの方に「日本は伝統とコンテンポラリー・ダンスが分断していると聞きました。とても興味深い考え方ですね。私たちにはそのような考え方はありません」と言われました。また「舞踏は伝統舞踊のひとつなのか」と聞かれることもあります。多くのアジアの国々では、伝統舞踊とコンテンポラリー・ダンスは継続したものとして扱われます。伝統と現代の関係についてはどうお考えですか?

ヘリー:伝統は非常に強い存在です。それは私たちの多様性が理由です。このテーマは学位論文でも扱いましたが、「インドネシアン」モダンダンスが何であるのかについては、まだよく話合われていないと思います。部分的にコンテンポラリーに飛躍する傾向があるので、そこに混乱が生じます。いつ、私たちインドネシア人は近代的になったのか。私はもう一度この問題について考えたいと思います。インドネシアの舞踊は、いつ近代化したのか。アフリザル・マルナからの引用では、「私」はいつインドネシア舞踊に登場するのか、ということです。インドネシアでは伝統舞踊とコンテンポラリー・ダンスの間にはほとんど断絶は起こっていないと言われていますが、私は賛同しかねます。断絶は生じているからです。たとえば、舞踊家サルドノ・W・クスモ(Sardono Kusumo)の初期の作品でラーマーヤナ物語を扱った、伝統舞踊とは非常に異なる形式で(再)創作された『Samgita Pancasona I-Ⅷ』という作品があります。ジャカルタで上演されたときには、観客はおもしろいと思い受け入れました。でも、その2年後の1971年に故郷のソロで上演したときには、観客は怒り、腐った卵を舞台に投げつけたそうです。一瞬の出来事でした。
なぜそのようなことが起こったのかというディスカッションはありません。尋ねてみたところ、ひとつの説明は、「そうね、従来の考え方をする純粋主義者が舞台に卵を投げつけたのでしょう」というものでした。身体を切り口に再検討されることはありません。私はそこに関心があります。伝統はいつもそこに存在している。でも、その使い方と見方、近代化によって、失った始原の身体を探す意識が必要です。
伝統と簡単に言っても、伝統とは何でしょう。身体には何が起こっているのでしょう。私はジャカルタ出身で幼い時期の短い期間を除いては、いかなる伝統舞踊のトレーニングも受けたことがないので、これらの疑問に情報を照合することで応答してきました。伝統の複雑さを理解するまでには時間がかかりました。 たとえば、200年の間毎年、中央ジャワのスラカルタ宮廷で演じられている儀式的な舞踊「ブドヨ・クタワン(Bedhaya Ketawang)」を観たときにわかったことがあります。それは、私が今まで観た舞踊のなかで一番美しいもののひとつでした。私は、彼らは踊っているけれども観客を満足させるためでなく、何か崇高な考えのために踊っていることを理解しました。古い舞踊教書によると、この舞踊は元々は12~13歳の処女によって踊られるものでした。しかし現在は異なります。今の時代に、踊るために処女である必要があるのでしょうか? 少なくとも、その公演の踊り手たちは、思春期の年代ではなく20代であり、それ以上若くはないのは明らかでした。だから私は、儀式的な舞踊も再文脈化することが必要だと考えています。

アジアハンドレッズのインタビュー中のヘリー・ミナルティ氏の写真5
写真:鈴木孝正

――観客は伝統舞踊をどのように観ているのですか?

ヘリー:視覚的な情報を受け取っているのだと思います。形、技術、衣裳、物語の形式によるもの、たとえば、ラーマーヤナ物語や地域の民俗芸能で使われている言葉など。伝統そのものではなく、伝統の軌跡をなぞっているような感じです。それは軌跡であっても伝統舞踊の核心となるものではないと思います。核心はどういうものであるのか、多くの人に尋ねました。ジャワとミナンカバウの踊る身体はとても異なっています。人々が「ラサ(Rasa)」と呼ぶ、ほとんど翻訳不可能なものがいつも存在しているのです。たとえばジャカルタ出身の誰かが技術を真似たとしても、「あなたは技術は習得したかもしれない。でもラサがないね。あなたのラサはジャカルタにあって、あなたはジャワ人ではない」と言われます。
私は、1970年代のサルドノがしたことを、研究の最初の段階で対象にしました。もう1人重要なダンサーがいます。サルドノの後に登場した、ベン・スハルト(Ben Suharto)です。彼は早くに亡くなったので会ったことはありませんが、著作を残しています。彼の著作を読まなければなりません。また、このことを述べるのには注意が必要なのですが、これまでインドネシアで出会ったごく少数の舞踊家たちは、自身の身体のなかに「伝統」を発見しています。なので、私は現在のインドネシア舞踊は、その複雑さを理解するという意味において困難な状況にあると思います。伝統は石に書かれたように静的なもので、流れる液体なようなものではなく、国によってつくられるようなものでもないと理解されています。
私は古い伝統的な人々の思考に関心があり、関係する著作を読んだり可能な時には話を聞いたりします。多分そこでいくつかの回答は発見されるでしょう。

今後の取り組みについて

――最後にあなたの将来的な計画について教えてください。

ヘリー:基本的にはプロジェクトごとに仕事をします。2015年末にジャカルタ・アーツカウンシルの任期が終了した後は、今まで研究や執筆に割く時間がなかったので、もっと時間のある生活に戻りたいと思っています。今までやってきた、執筆、キュレーション、プロデュースのすべての仕事は、研究とつながっています。
2008年にジョクジャカルタでアジアのコンテンポラリー・ダンスに関する小さな国際会議を開催しました。ジョクジャカルタのSanata Dharma私立大学と若い思想家たちのグループKunci Cultural Studies Centerとの協働作業です。会議を開催するためには大学とつながっている必要があると思い、最も進歩的で理解のある教授、セント・スナルディ博士(Dr. St Sunardi)にアプローチしたのです。教授はオープンな方で協力を承諾してくれました。最近私は、インドネシアン・ダンス研究アンソロジーの共同編集のために、彼をカウンシルの新しいプロジェクトに招き入れました。大学は博士課程を大学につくることを提案していて、教職員にならないかと誘われました。フルタイムでアカデミーの仕事に就きたくはないですし、いつそのプログラムが実現するのかも不明ですが、楽しみにしています。教えるかどうかは別としても、キュレーションとプロデュースと執筆活動は私の仕事の核として続けたいと強く望んでいます。教えることと実践がつながることは、すばらしい機会になるでしょう。
それから、2013年の後期から振付家フィトリ・スティヤニンシの製作をしています。彼女のことは2005年に知って以来作品を長く観ていますが、2010年か2011年にフィトリが自分をプロデュースするように言ってきたのです。2013年にIPAM(Indonesia Performing Arts Market)が開催され、政府にディレクターとして招かれたオーストラリアのアンドリュー・マーシャル(Andrew Marshall)がフィトリを紹介することに関心を示したので、いいタイミングだと思い、彼女をプロデュースすることにしたのです。彼女の作品は簡単ではなく、創作に何年もかかります。でも、彼女と私の方法はうまく合いました。今のところ、彼女と仕事をするのは楽しいです。フィトリは、だいたいにおいて直観的な方法で作品を創ります。決して知的な方法ではありません。日常生活に向かいあって自然を読み解くのです。純粋な思考で本質をみる人です。ゆっくりと仕事をします。そして直観的にプロジェクトからプロジェクトへと渡り歩きます。
私の役割は、インドネシアの文脈で、またはもっと大きな文脈で、彼女の作品を捉えることです。私はアジアで何が起こっているのか読み取り、彼女がどのようにそこにあてはまるのかを考え、論述します。

――9月にオープンする韓国の光州アート・コンプレクスでも仕事をするそうですね。

ヘリー:2013年の末に、 キム・ソンヒ(Kim Seong-Hee)が光州で行われたキュレーターたちのミーティングに私を招へいしました。考えているプロジェクトが大きすぎて1人ではできないという話をしていたと思います。そのあと彼女は、私が同行したインドネシアを含め、いろいろな地域でリサーチを行っていました。TPAM2014で再び会ったときに、彼女が「オリエンタリズム」というテーマを提案してきました。そして私がどのようにそれにどう応答するのかを聞いてきました。彼女は、アジアの同時代性の実践における重要な疑問をディスカッションするための窓口をつくったと思います。その後私は、カウンシルでの他の仕事をしながら、ゆっくりと考え始めたのです。
何通かのメールをあちらこちらで彼女のチームと交換しました。私はとてもゆっくりと仕事をするタイプなので、これは有機的な方法でした。

――いつ、プロジェクトは実施されるのですか?

ヘリー:2015年10月の第1週です。私は執筆活動に戻り、オリエンタルとはどういうことなのか、実践と論述としてのオリエンタリズムは、いつ舞台芸術界に、特に舞踊の世界に登場したのか、それは何なのか、熟考します。それは「眼差し」につながると思います。初期のモダニストたちのように、それは眼差しから始まったのです。最初に、オリエンタリズムとモダニズムの接点というようなことを考えました。それはひとつのコインの表裏のようなものだと思います。

――興味深いお話をありがとうございました。次のプロジェクトを楽しみにしております。

アジアハンドレッズのインタビュー中のヘリー・ミナルティ氏と久野敦子氏の写真2
写真:鈴木孝正

【2015年2月15日、ヨコハマ創造都市センターにて】


聞き手: 久野敦子 (ひさの・あつこ)

公益財団法人セゾン文化財団 プログラム・ディレクター 多目的スペース「スタジオ200」の演劇・舞踊のプログラム・コーディネーターを経て、1992年に財団法人セゾン文化財団に入団。96年より現職。現代演劇、舞踊を対象分野にした助成プログラムの立案、運営のほか、自主製作事業の企画、運営を担当。ヘリー・ミナルティとは、2007年アジアダンス会議以来親交を深める。