ファイブ・アーツ・センターの設立経緯
―それでは、本日の主題であるファイブ・アーツ・センターについてお伺いします。簡単に設立の経緯からお聞かせいただけますか?とくに30年前のマレーシアにおけるアートの状況が、ファイブ・アーツ・センター設立にどのような影響を及ぼしたのかについても、教えていただければと思います。
マーク:ファイブ・アーツ・センターの発足においては、「文脈」というものが、とても重要な自己定義をもたらしました。ファイブ・アーツ・センターが発足した1984年当時の重要な目標は、マレーシアという国における物語、地域に根ざしたクリエーションを振興していこうということでした。この潮流は、マレーシアのみならず、フィリピンやタイ、シンガポールなどの東南アジア各国で展開されたポストコロニアル運動と相関します。マレーシアが置かれていた状況に対し、5人の創設者*4 がリアクションを起こしました。オルタナティブなアプローチや言説、言語、イメージや形式を創造していくことに力を注ぎました。
*4 チン・サン・スーイ(Chin San Sooi/ディレクター兼劇作家)、クリシェン・ジット(Krishen Jit/ディレクター)、KS・マニアム(KS Maniam/劇作家)、ピヤダサ(Piyadasa/ビジュアル・アーティスト)、マリオン・ドゥ・クルーズ(Marion D’Cruz/ダンサー兼振付家)の5人
ジューン:つまり私たちは、「マレーシア人」であるとはどういうことなのか、「多様である」とはなにを意味しているのか、そうした自分たちに帯びているアイデンティティをみつめるということを、作品のなかに取り込んでいったんです。
マーク:いまとなってはアイデンティティって、オールドファッションですよね。ポストコロニアルも古い言葉ですが。
―基礎的な団体情報について伺います。当初5人からはじまったというファイブ・アーツ・センターですが、いま現在のメンバー構成はどのようになっていますか?
ジューン:コレクティブメンバーは、14人*5 。非常にさまざまな業種の人たちが集まっています。アーティストだけではありません。もちろん、皆アートのサポーターですが、職業的には、ダンサーや振付家、演出家、映像作家、弁護士もいれば、企業の財務担当者もいますし、外食産業や飲食業に従事する人もいます。ほかにも、女性人権運動や文化遺産の問題を扱うアクティビストもいます。
*5 インタビュー当時のメンバー数
マーク:それから、政治家もいますね。野党の広報を担当している人もいて、私たちは彼のことを「プロパガンダ・チーフ」と呼んでいます(笑)
―劇作家・パフォーマーのファミ・ファジル(Fahmi Fadzil)さんですね。もともと政治的なテーマを扱った作品をつくっていましたが、彼が実際に政治家の秘書になったと伺ったときは驚きました。
マーク:ええ。
ジューン:このインタビューをお読みになる方に、これほど幅広いコレクティブが、30年にも渡ってどうやって存続し続けているのかを理解いただくのは難しいかもしれません。
以前マークと話をしていたときに、「拡散」しているのではないかという言葉が出てきました。コレクティブメンバーの概念そのもの、あるいはファイブ・アーツ・センターの定義すらも拡散しているのではないかということです。私たちは、ファイブ・アーツ・センターをプラットフォームとして捉え、多様性や差異というコンセプトを根幹に据えています。関わり方もメンバー自身が決めることができるという自由さがあります。それこそが30年間続いてきた秘訣かもしれませんね。
ファイブ・アーツ・センターではよく、何をしてもいいと言われます。たとえば、プールをつくりたいと言い出す人がいてもいいわけです。ただ、それに対してなんでプールをつくらなければならないのかということを問い返したり、ポストコロニアルな状況のなかで白い色のプールでいいのかといったことを延々と議論しなければなりませんが(笑)。そうした議論を経てようやく、そういうプロジェクトをつくることの意味が共有されていくのです。つまり、多様性というものを真に考えている人たちが議論を通して共有していくというプロセスを重視し、それをグループの核にしているんじゃないかと思います。拡散するエネルギーというものは、非生産的なものではなく、むしろ拡散することを促すような作用をもたらしてくれます。ただし、3時間、プールをつくるべきかどうかということを議論し続けなければいけないということは、ついてまわるのです。
マーク:個人的な思いも込めて付け加えたいのですが、世代間の対話ということが往々にして生産的でない、あるいは葛藤を引き起こしたり、緊張を高めたりすることがあります。場合によっては、若者と年長者とが対立するばかりで、むしろお互いに向き合えないような状況が生じることもあります。もちろん、私たちにもそういう摩擦はありますが、ファイブ・アーツ・センターに特有なのは教育者が多いという点です。対話することが重要なんです。
人間同士の関係性と作品創作において、対話は欠かせない要素だと思います。たとえば、演劇作品においても、あるいはもっと奇妙な、プールをつくる話や家を運ぶというプロジェクトでも、作品というものは、その前後につくられてきた作品との連続性やタイムラインの上でつくられているんだということに対する自覚が、私たちにはあるんです。つまり、過去に学び、転用しながら前に進むのだという意識があるということです。
―マレーシアにおける宗教的な問題や民族主義の問題、そして、先ほどから話題になっている植民地主義といった過去から続く今日的諸問題をまえに、多様性は極めて重要な論点であり、切実さをもって身に迫る課題であると理解します。多様性を信じる人が集い、対話を重視すること、そしてそこから作品をうみ出していく。ファイブ・アーツ・センターが長きにわたって存続している理由を興味深く伺いました。
対話し続けること、つまりこれは、民主的な実践だといっても過言ではないと思います。他方で、対話することの困難さも同時に引き受けながら、それでもなお対話を積み重ねていく努力を怠らないという態度とそのコンセプトが、世代を超えて伝播、共有されていることにも感銘をうけました。
ところで、そのプールの話というのは、実際にあった話なのですか?
ジューン:いえいえ、たとえにすぎません(笑)
マーク:「家を運ぶ」というのは実際にやったプロジェクトですけれどね。
ジューン:あの時も議論が紛糾しましたね。それは文化遺産に関するプロジェクトなのかとか、助成金の申請にでてきそうな質問もたくさんされてしまいました。私たちがやりたかったのは、まちなかで家を運ぶということだったのですが、いろいろとつっこまれました。
せっかくなので、私の視点からこのプロジェクトについてご紹介したいと思います。これは、私とマークが共同でプロデュースしたもので、映像作家のリュウ・センタ(Liew Seng Tat)と取り組んだ「Projek Angkat Rumah (Carry a House Project)」というプロジェクトです。
ファイブ・アーツ・センターの25周年を記念した事業を実施するにあたって、私たちは企画を“アウトソース”することにしました。25年の歴史を振り返るプロジェクトを企画してくれるようアートの実践者に依頼したのです。私とマークは、ファイブ・アーツ・センターの偉業を振り返るといった、レトロスペクティブのようなことをしたくなかったんです。そうではなくて、外からみたファイブ・アーツ・センターを表現してもらいたいと4人のアート実践者と協働することにしました。依頼したのは映像作家、ビジュアル・アーティスト、サウンド・デザイナー、そして舞台演出家です。それでセンタは、マレーの昔ながらの伝統的な慣例をもとにした「家を運ぶ」ことを提案してくれたというわけです。
ハーデシュ・シン(Hardesh Singh)は、アミール・ムハンマド監督の『最後のコミュニスト』という映画の音楽を担当したサウンド・デザイナーで、ニュースや情報のためのデジタルプラットフォームづくりをしていました。彼は、ニュースというものがどのように広がっているかということに興味をもち、若い人がどのようなニュースを聞きたいのかに着目したプロジェクトを実施しました。
ビジュアル・アーティストのファミ・レザ(Fahmi Reza)は、60年代の学生運動を題材にし、かつて実際に大学にあった「スピーカーズ・コーナー」に関するレクチャー・パフォーマンス『Student Power』を大学持ち回りで開催しました。政治的な活動が禁じられている現在の大学において、学生たちの受けたショックは大きなものでした。
シンガポールの舞台演出家のナタリー・ヘネディゲ(Natalie Hennedige)とも演劇作品をつくりました。私たちのコミュニティがどのようにして暴力的になっていくのかという、当時もいまも変らず突きつけられるより骨のある問題に着目しました。
マーク:私の視点を加えると、ファイブ・アーツ・センター25周年にあたって、設立者のなかには、必ずしも私たちの提案を積極的にあるいは好意的に受け取らなかった人もいました。25周年記念ですし、歴史的、あるいは記憶に残る瞬間を振り返るべきだと考えたんですね。
その際、非常におもしろい議論が沸き起こりました。論点は「私たちは未来に向けて活動をしていくのか、あるいは過去を振り返るのか」ということに要約されます。実際、5年後の30周年のときには、創設者のひとりであるクリシェン・ジット(Krishen Jit)の没後10年を記念して彼の業績を振り返るカンファレンスを、さまざまな周年事業のひとつとして実施しました。
ジューン:「家を運ぶプロジェクト」に話を戻しますと、これは興味深い企画であると同時に、バカバカしい企画であったことが良かったんです。自分たちがやっていることについて真の理解には及ばなくても、なにか間違いなくおもしろいものになるという直感がありました。このバカげたアイディアに、一般公募したボランティア300人が集まったわけですが、当日の朝、「いち、にの、さん、はい持ち上げて!」と掛け声をかけたとき初めて、このプロジェクトのインパクトに気がつきました(笑)。コレクティブメンバーのひとりが私のもとに駆け寄ってきて「なんだかわからないけれど泣きたくなったわ」と言ったんです。バカげたことをするにあたって、心がひとつになる瞬間というものがうまれ、それがなにかわからない感動をもたらしてくれたんです。ひとつところに集い、みんなで巨大な”もの”を担ぎ上げるという行為に泣けてきたというのです。
―おもしろい話ですよね。このプロジェクトは、マークさんから何度も伺っていますが、聞くたびに、そこにいろんなエッセンスが盛り込まれているのを発見します。
高温多雨な環境で生き抜いてきた知恵に基づくマレーの伝統的な家を運ぶという風習や、そこにある住民自治に関する歴史的文脈もさることながら、単純でだれでもかかわることができる共同作業を通して、 民族間ないしは宗教間を横断する関係が希薄になりがちなマレーシアの社会において、多様な人々が集い連帯する状況をうみ出すこと。そして多くの人がまちを埋め尽くす、つまり、ストリートを占拠し自分たちの手に掌握していくということ…。まさに、ジューンさんが先ほどおっしゃった、2008年以降、自分たちで行動することの機運の高まりそのものを体現したアートプロジェクトであったのだと感じます。
もうひとつ重要な要素として、「バカバカしさ」とおっしゃいました。非寛容的な価値観で覆い尽くされる昨今にあって、ユーモアこそが力をもたらしうるという可能性が示されたように思います。
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