「ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。
アーティストのアイデンティティと方法論
コミュニティに耳を傾ける
佐野明子(以下、佐野):本日はお越しくださりありがとうございます。早速始めましょう。あなたのカルトグラフィック(地図的)な作品についてはすでに多くのことが語られていますので、そうした作品にも目を向けながら、あなたの方法論や、異なるメディウムや表現方法での制作について伺っていきたいと思います。そこで、まず最初にお聞きします。あなたはよく研究者や歴史家、考古学者そして時には文化人類学者などと呼ばれていますが、自身としてはどの肩書きがもっともしっくりくると思いますか?
ティファニー・チュン(以下、チュン):何よりもまず私はアーティストですね。正式な訓練を積んだわけではありませんが、最近では研究者としての役割にも少し自信が出てきました。ただ、私の方法論や学際的なアプローチは、リサーチをより民族誌的で文化人類学的なフィールドワークに寄ったものにしているのは確かです。
佐野:実際に外に出て人々と直接言葉を交わすからでしょうか?
チュン:ええ、コミュニティの一員となるのです。ただ出来合いの質問リストだけを持って行くのは、間違った方法だと思います。もちろん、制作のなかで扱っている社会歴史的問題に関するテクストをかなりの量読み込んではいます。でも「リアルな」物語――つまり直接に影響を被った人々の物語――も聞きたい。例えば《The Vietnam Exodus project》では、旧ベトナム難民キャンプのフェイスブックやオンライン・フォーラムに参加しましたが、オンライン上にはそうした複数のキャンプを渡り歩いた沢山の難民の人々がいました。そのなかに入ってゆき、グループの一員となるのです。
佐野:そこではアーティストだということを伝えますか、それとも偽名を使ったりするのでしょうか?
チュン:名前は伝えていますね。でも基本的にはオンラインで彼らと会話しているだけなので、難民生活などについて直接質問したりはしません。後をつけるんです(笑)。沢山コメントが寄せられていて、誰かがあるキャンプの写真を上げると、別の誰かがコメントを付けます。「あぁ、覚えてる。私もそこにいたよ」と。そしてまた別の誰かが「私は80年から82年のあいだそこにいたんだ」と言って話に加わるといった具合です。これが私の追跡方法で、つまり彼らの話に耳を傾けたり、チャットをしたりするわけです。それからリサーチ・アシスタントを雇って、難民の物語をすべて抜き出し、それらを巨大なスプレッドシートにまとめました。キャンプごとにひとつのスプレッドシートを作り、人物が同定できる場合はその名前と物語を記入します。そして名前ごとに、その人物がベトナムを離れた年、搭乗していたボートの番号、キャンプにたどり着いた年あるいは「East Sea」*1 ――南シナ海――で救助された年、キャンプで過ごした日数、別の地に移住できたか否か、その場合の国名と移住した年の列を埋めてゆくのです。
*1 南シナ海のベトナムでの呼称。
佐野:あなたの作品の興味深い要素のひとつですよね。つまりふたつのまったく異なるタイプの情報――ハードで客観的な情報とソフトで主観的な情報の融合という点で。
チュン:統計データと政策について知っていても、物語を完全なものにするためには、難民の人々の経験が必要ですからね。私は歴史というものを、たんに一面から見るのではなく、包括的に理解したいと思っていますし、突き詰めると、公式な見解を中和しその釣り合いをとることが目的ですから。香港でかつて難民だった人々と沢山の時間を過ごしました。彼らとともにバスに乗り、覚えるまで同じ物語を繰り返し聞きました。反射的に思い出せるほどに。
ただ、ひとつ強調しておかなければならないのは、ベトナムには、1975年以降のベトナムにおける難民大量流出の歴史に関する公式の物語が全く存在しないということです。それは国家によって消去され、忘却のかなたへと追いやられてしまっています。だからこそ、難民の人々が語る物語――なかには衝撃的なものも含まれます――は、トップダウン型の政治がこの人々の集団に対して与えた衝撃を理解するための助けとなる重要な証言だと思っています。
佐野:彼らは自身の物語をどのように語ったのでしょう? 辿った道程はきわめて複雑に入り組んだものだったと思うのですが。
チュン:そうですね。香港のベトナム人コミュニティと一緒に仕事をした時――彼らをおよそ2年間にわたって追いかけていたのですが――ひとりの男性がやってきてこう言いました。「私の旅の道程はとても興味深いので、記録すべきだ」と。席に着くと彼はラップトップを開き、グーグルマップと衛星地図を使って自身の逃走経路を見せてくれました。
彼らのなかには、私がこうしたリサーチを国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のためにおこなっていると思っている人もいます。私に逃走経路を見せてくれた方も、最初に私に尋ねたのは、彼のような無国籍者の事例についてUNHCRが調査することを決断したのかどうか、でした。彼は香港で生活していますが市民権を持っていません。渡航文書を持ってはいるのですが、そもそも正式な滞在許可を持っていないので、いまだ無国籍のままなのです。
チュン:他にもおもしろい話があります。シンガポールにあったベトナム難民キャンプのオンライン・フォーラムでまたチャットをしていました。この女性は家族とともにある商船によって救助され、シンガポールまで連れてこられたのですが、上陸したまさにその翌日に彼女は男の子を産んだのです。息子にその船にちなんだ名前をつけたのですが、私はその船を見つけ出すお手伝いをしました。
佐野:実際にその船を見つけたのですか?
チュン:そう。何枚かの写真を探し出し、それを彼女に見せました。彼女が「これかもしれない」と言った一枚を夫に見せると、彼は「これだ!」と言ったんです。その船の経歴と最終的にどうなったかについて伝えたら、その後、同じように自分が搭乗した船を見つけだしたいと頼んでくる人が続々とあらわれたんですよ! それから4隻の船を見つけ出すお手伝いをした後は、しばらくのあいだそのフォーラムから姿をくらまして……(笑)。
佐野:彼女もまた香港の方と同じように無国籍状態になったんですか? シンガポールにたどり着いた時、彼女はどういう状況だったんでしょう?
チュン:そうですね、シンガポールはまた興味深いケースです。もちろん、いくつか例外はあったんですが、方針としては、商船が救助し移住先を見つけることのできた難民のみを3ヶ月の間――移住の手続きを待つ間――受け入れるというものだったんです。だからこそ彼らは、シンガポールにたどり着いた時の船のことを特別よく覚えているんです。
UNHCRアーカイヴをくまなく調査する
佐野:そうしてコミュニティの一員となり、物語を聞き出すわけですが、統計データの方はどのように蓄積していったんですか?
チュン:ええ、さっき言ったように、こういう物語は双方から見ることが必要で、《The Vietnam Exodus project》に取り組むなかで、まだまだミッシング・リンクがあることに気づいたんです。そこで、次の段階としてジュネーヴにあるUNHCRに行き、そこのアーカイヴを調べることにしました。古い資料は国別・年別に目録化されているんですが、デジタル化はまったく進んでいなくて。実際の文書も手で触れる状態で、紙は擦り切れ、破れているものもありましたね。驚くべき体験でしたよ。
佐野:目録を辿っていくだけでも大変な作業ですよね。
チュン:そうなんです。探しているファイルの入った箱のIDナンバーを全部知っていないといけないし、自分が扱っている事例の歴史的背景を熟知して、大体の見当をつけることも必要で――移民がピークだったこの年とこの年の間にこの事件が起こったのだから、おそらくここで政治的な政策があったのだろう、といった具合に。
佐野:一度の訪問でどれくらいの時間をUNHCRで過ごすのですか?
チュン:だいたい1週間ほど滞在しますね。仕事をしている時、私は冷静な人間ですし、歴史への過剰な感情的反応(ヒステリー)には興味もありません。私の仕事はそうした性格を反映していると思っています。ただやはりじっと座って大量の古い通信電報を次から次へと読みながら「何か」を探すというのは、正直かなり疲れますね。
佐野:実際にあるかどうか分からないものを探しているからというのもありますよね。
チュン:まさしくそうです。たまにですが、みずからの理論を証明するためだけに、研究材料を分かった上で研究している学者や研究者っているじゃないですか。それは、やはり問題だと思うんですよね。私はそういう方法には興味がありません。他の人々が知らない、あるいは見過ごしてきたような隠された歴史を明らかにするためにそこで調べものをしています。だから、出会うすべての情報に対してオープンな姿勢をとっているし、とっていたいと思ってます。
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