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タイのアートシーン20年の変遷とBACCの挑戦 ――ラッカナー・クナーウィッチャヤーノン インタビュー

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

古代美術からの出発

吉岡:はじめに略歴をご紹介いただけますか?

ラッカナー:芸術大学として有名なシラパコーン大学の卒業ですが、学部時代の専攻は英文学でした。

吉岡:美術に関係する科目は勉強していなかったのでしょうか?

ラッカナー:いいえ、そうでもないのです。むしろ美術史、特に古代美術については、たくさん勉強しました。というのも、シラパコーン大学の英文学専攻は考古学部に属していたので、美術史に関する科目を選択することができたのです。なので、タイの古代美術に影響を与えた中国、インド、カンボジアの美術について学ぶことができました。タイの美術史も学びましたね。スコータイ、アユタヤ時代だけでなく、先史時代も勉強しました。美術に関していえば、キャンパスライフ、大学の交友関係にも感謝しなければなりません。私の多くの友人は絵画・デザイン・建築学部の学生だったので、美術についてもっと深く勉強したくなる環境にありました。

インタビューに答えるラッカナーさんの写真
写真:山本尚明

吉岡:では、それからすぐに美術の修士号を取られたのですね?

ラッカナー:いいえ、またもやそうではないんですよ(笑)。学部卒業後は、ネーション(The Nation)という英字新聞社に記者として就職しました。

吉岡:タイを代表する英字新聞のひとつですね。

ラッカナー:はい。英文学専攻だったので、英語を使って仕事をしてみたかったのです。1989年から2年間ネーションに勤務し、主に「フォーカス」という文化・芸術欄に記事を書いていました。この時期、取材を通じてたくさんの興味深い方々と面識を得て、視野を広げることができました。

吉岡:当時の文化・芸術欄の主なトピックは何だったのでしょうか。

ラッカナー:大学や国立美術館で開催されるアートコンペや公募展でしたね。

吉岡:主催者は文化省ですか?

ラッカナー:いいえ、当時は文化省はありませんでした。ご存知のとおり、タイの文化省は最近になってようやく設立されたところです。

吉岡:そうでしたね。それでも日本より早いですよ(苦笑)。日本には、文化庁はありますが、「省」レベルの機関はないですからね。ともあれ、アートコンペや公募展はどこが主催していたのでしょうか?

ラッカナー:シラパコーン大学が主催する公募展、銀行・企業が主催するアートコンペなどがありました。当時、民間ギャラリーはほとんど存在せず、開館・閉館の浮き沈みがいろいろとありました。ある特定の時期で見ても、10カ所もなかったと思います。アートシーンは、主にシラパコーン大学チュラロンコーン大学のギャラリーなど、大学周辺で活発でしたね。

吉岡:演劇の記事も書いていましたか?

ラッカナー:はい、でも少しだけです。当時、演劇は市民の関心を得ていませんでした。その頃、「28グループ」という劇団があって、『ラ・マンチャの男』など欧米の演劇やミュージカルなどを上演していましたが、同じコミュニティの知識人が集まっているという感じでした。その他のほとんどの公演や活動は、美術と同様に、大学の周りで活気づいていました。1975年に演劇学部を設立したソットサイ・パントゥムコーモン先生率いるチュラロンコーン大学、タイの演劇や舞踊の研究者として80年代から国際的に活躍するマッタニー・ラッタニン先生率いるタマサート大学が双璧でした。

吉岡:そうでしたか。当時の大学がタイのアートシーンに与えた影響と役割について研究してみるとおもしろいかもしれないですね。ご自身のお話に戻しますが、新聞記者を経験した後、海外に留学されたのですね?

ラッカナー:はい。オーストラリアのニューイングランド大学へ留学しました。オーストラリアには、当時、コンテンポラリーアートに関する科目や資料があまりなかったので、タイの美術に与えたインドの影響について研究することにして、古代の美術を勉強しました。でも、オーストラリアで西欧文化や西欧の影響を受けた文化に触れることを通じて、コンテンポラリーアートの知識を深めることもできました。

インタビューに答えるラッカナーさんの写真
写真:山本尚明

吉岡:その後、タイに戻ってきたのですね。

ラッカナー:はい。コンテンポラリーアート業界での最初の仕事は、ペート・オースターヌクロ氏とバンコク大学から始まりました。ペート氏は、バンコク大学(私立)創立者の息子で、現学長です。彼は、有名な歌手であり音楽家ですが、コンテンポラリーアートの熱心な支援者でもあって、タイ国内外のたくさんのアート作品を収集しています。彼には、自身の私設美術館を開くという生涯をかけた夢があって、私は大学で非常勤講師として教えながら、彼の美術館設立を1年半ほど手伝いました。それは90年代前半頃のことでしたが、美術館は今も建設中です。拙速にオープンしてしまうことに躊躇があるようで、とても長い時間をかけて準備していますが、近い将来、いよいよオープンするでしょう。
その後私は、「ラーマ9世アート・ミュージアム・プロジェクト」(現「ラーマ9世アート・ミュージアム基金」)に参加しました。

吉岡:インターネットで見かけたことがあります。「Thai Artist」と検索すると、真っ先にそのプロジェクトがヒットしました。

ラッカナー:そうですね。今はインターネット上の美術館のようなプロジェクトになっていますからね。でも当初は、1996年のラーマ9世(プミポン国王)即位50周年を記念して、50年を網羅した大型展を開催するというプロジェクトでした。私はキュレーターを補佐するアシスタント・キュレーター・チームに所属していて、1946年から96年までの50年間の美術作品を調査する仕事を手伝っていました。タイの近現代美術の歴史に真剣に焦点を当てた最初期の展覧会のひとつだったといえます。近代初期から現代まで、すべてのタイ美術の写真を収めたカタログも出版しました。教育プログラムも実施しましたね。
プロジェクトの終了時に基金として登録されることとなり、現在はタイの近現代美術の情報とアーティスト・ディレクトリーを提供するウェブサイトを始めています。
その後私は、1997年にタドゥ・コンテンポラリー・アートへ転職しました。

トム・ヤム・クン・クライシスと現代的な試みの勃興

吉岡:1997年といえば、アジア経済危機がありましたね。

ラッカナー:はい、「トム・ヤム・クン・クライシス」ですね。

吉岡:トム・ヤム・クン?タイの辛い、あのスープ?

インタビュー中の吉岡氏の写真
写真:山本尚明

ラッカナー:ええ、タイでは、そう呼ばれています。経済危機を、まるで私たちの有名なタイ料理、トム・ヤム・クンのように、タイからアジア各国へ輸出してしまったからです。
とても多くの銀行や企業が倒産して、美術作品を含む彼らの資産が押収されました。次の2年ほど、それらの美術作品は、オークションでとても安価で売り飛ばされました。
経済危機は、タドゥ・コンテンポラリー・アートの活動にも影響を与えました。当時、タドゥはBMWやシトロエンなど欧州の高級車販売を手掛けていたヨントラキット社が大口スポンサーとなって、商業ギャラリーとして運営されていましたが、経済危機の影響で、彼らの協賛金も大幅にカットされてしまいました。
私たちは、商業ギャラリーとして継続すべきか、運営方針と方向性を再考しなければなりませんでした。その結果、潤沢な資金なしに商業ギャラリーとして維持していくことは難しいとの判断に至り、映画や演劇も含めたアート全般の表現のためのプラットフォームとして場を提供するという、非営利活動へと舵を切ったのでした。

吉岡:ということは、ある意味、私たちは、タドゥ・コンテンポラリー・アートをオルタナティブ・スペースへと変化させたトム・ヤム・クン・クライシスに感謝しなければなりませんね。個人的な体験ですが、私は1999年から2000年代前半にかけて、タドゥで実験的、現代的なアート作品やパフォーマンスをたくさん見ました。今は無きプロジェクト304やアバウト・カフェと並んで、当時のバンコク・アートシーンにおいて、最も刺激的なスペースのひとつだったと記憶しています。

ラッカナー:アーティスト支援だけでなく、広い意味でコンテンポラリーアートに関する知識と情報を提供し、観客を育てていくこともミッションのひとつでした。ヨントラキット社だけでなく、他のスポンサーを探す努力もしました。運営資金を減らしても成果が現われていたので、ヨントラキット社は満足していたようですが、正直、私たちにとって90年代後半は生き抜くうえでとても厳しい時期でした。

吉岡:そうだったのですね。そんな厳しさも知らず、私はのほほんと、Bフロアやマカンポン、8×8などの劇団の初期作品を、タドゥ・コンテンポラリー・アートで堪能していました。

ラッカナー:マカンポンは、ほとんどの場合、劇団の作品というよりも、当時ディレクターだったプラディット・プラサートーン(トゥア)氏のソロ作品の上演でした。経済危機の後、タイ社会では、何が私たちの理想であるのか、私たちはどこへ向かうべきか、改めて考える動きがありました。そのような背景のもとで、タドゥではそれぞれ異なる若い劇団の新しい作品を上演していました。8X8も、初期は、ディレクターであるニコーン・セータン氏のソロ作品を上演していました。当時の代表作『Insomnia』は、とても興味深い作品でした。

吉岡ピチェ・クランチェン氏の作品も上演していましたか?

ラッカナー:はい、彼の作品も上演しました。ピチェとプラディット(トゥア)がひとつの作品で踊るという貴重な作品の上演もありました。振付は、チュラロンコーン大学文学部の著名な準教授、ポンラット・ダムロン先生によるもので、音楽はシンナパ・サラサスです。ふたりの魅力的なパフォーマーによって、伝統的な舞踊の中に現代的な要素を見つけて模索していこという実験的な試みでした。

インタビューに答えるラッカナーさんの写真
写真:山本尚明

吉岡:タドゥのキャパシティは、8X8の作品を上演したときの感じでは、100から150席程度でしたでしょうか。シートのある固定席ではなく、自由に空間に座らせるものだったと記憶しています。当時の実験的な試みに対しての、観客の反応はいかがでしたか?

ラッカナー:基本的には、とても好意的でした。かなりの頻度で満席でした。当時の演劇界では、こういった劇団の作品を紹介する場は、他になかったと思います。
若い世代は、新しい表現や媒体を模索したいと考えていたようです。タドゥは、業界の専門家に来てもらうという意味で、また、そこからさらに進んで一般客を引っ張ってくるという意味でも、とても成功していたと思います。

吉岡:観客のひとりとして、当時その場に立ち会うことができたのは幸せなことでした。しかし、タドゥ・コンテポンラリー・アートは、2000年代半ばに閉館・移転してしまいますね?あなたも転職されたのですか?

ラッカナー:はい、そうなんです。タドゥ・コンテポンラリー・アートで働いている間に、クイーンズ・ギャラリーという新しい美術館を立ち上げるプロジェクトが始まりました。確か2001年頃だったと思います。バンコク銀行というタイの主要銀行の支店として使われていた古いビルがあったのですが、改築にあたってシリキット王女がご寄附をされ、バンコク銀行の頭取に「タイの市民のために美術館をつくってください」とおっしゃったのです。
それで美術館にすることが決められたのですが、運営スタッフが足りません。そのとき同銀行から私に、クイーンズ・ギャラリーのプログラムを作り、スタッフを集める手助けをしてくれないかと声がかかり、2003年に同ギャラリーの設立に参加しました。1年半ほど勤務し、離職しました。当時、まもなく38歳になろうとしており、今辞めないと家族ができないかもしれない、甥や姪とばかり遊ぶのではなく、自分自身の子どもを持つタイミングだと考え、「辞めるための良い理由があると思いますので許してください」と伝えて、2005年に退きました。
その後、子どもを産み、フルタイムのお母さんを4年ほど経験しました。2011年にBACCに復帰するまでは、基本的には家族の面倒を見ながら、時々パートタイムの仕事をしていました。

BACCの離陸、タイ・シルクのように滑らかには行かず……

吉岡:BACCの2代目の館長でいらっしゃいますね?

ラッカナー:はい。2008年のオープン時は、チャトウィチャイ・プロマタットウェーティ氏が館長でした。私は、2011年5月から4年間の契約で2代目館長に就任しました。2015年に次の4年間の契約を更新したので、2019年まで従事する予定です。

吉岡:館長就任にあたっては、どのような採用プロセスがあったのでしょうか?

ラッカナー:館長ポストが公募されていたので、応募しました。BACCの役員会で何度か面接があり、幸いなことに、何人かの候補者の中から選ばれました。

吉岡:誰がその役員会のメンバーだったのでしょうか?

ラッカナー:チュンポン・アピスック氏、前・タイ王国文化省事務次官のアピナン・ポーサヤーナン氏、元・タイ国政府観光庁長官のプラーデート・パヤックウィチアン氏、前・BACC館長のチャトウィチャイ・プロマタットウェーティ氏、元・バンコク都知事のアピラック・コーサヨーティン氏などです。

吉岡:文化・芸術の有識者として説得力のあるメンバーですね。

ラッカナー:私たちは、設立初期にたくさんの教訓を得ました。設立初年の2008年時点で、バンコク都庁は、BACCの運営を担当するBACC基金を設立していましたが、役員会のトップが都知事でメンバーもすべて都庁職員という構成だったため、いろいろと問題がありました。バンコク都庁がBACC基金の予算を承認するのですが、その承認メンバーが予算を使う側でもありました。あまり好ましくない構造ですね。そのため、役員会は都庁職員ではなく、外部の有識者で構成することに変更したのです。

インタビューに答えるラッカナーさんの写真
写真:山本尚明

最初の数年は、いろいろと不明瞭で不安定なところが多く、予算もなかなか承認がおりず、おりても微々たる予算しか配分されませんでした。とても脆弱な運営だったのです。電気代や清掃費などの維持費を払うので精一杯でした。事業を行ううえでは、それはもう本当に、まったく不十分だったのです。最初の3年間は、本当に凍結していたようなものでした。
そのため、都民から多くの批判を受けていました。BACCに来ても空っぽで、ほとんど何も見るものがありませんでした。事業費がないため、外部の人がお金と企画を持ってやってきて事業を実施するのを待つしかありませんでした。自主企画はあり得ませんでした。最初の3年間は、本当に混乱していました。初代館長への同情を禁じえません。
2011年初、バンコク都庁は、この状況ではやっていけないと判断し、役員会のメンバーを総入れ替えしました。元バンコク都知事のアピラック氏は、既に都知事職を離れていたのでメンバーに加わりました。この総入れ替えでバンコク都庁の職員はメンバーから外れました。
文化・芸術の有識者として、財政管理のプロとして、教授やビジネスマンが呼ばれ、役員会メンバーに就任しました。その際に新たな館長とスタッフが必要とされ、2011年5月に私が就任したのでした。

吉岡:BACCとBACC基金はどういう関係にあるのでしょうか?

ラッカナー:BACCは、バンコク都庁からの補助金を主な資金源としていますが、その運営母体はBACC基金です。私はBACC基金に所属し、そのCEOのような立場です。

吉岡:バンコク都庁からの補助金が「主な資金源」とのことですが、全体の何%ぐらいですか?

ラッカナー:60%です。

吉岡:残りの40%はどうしているのでしょうか?

ラッカナー:自分たちで資金集めをしなければなりません。幸いなことに、バンコク都庁がBACCの建物を建設する際に、一部のスペースを賃貸用に確保していたので、家賃収入を得ることができています。もちろん、企業協賛や様々な団体との連携も必要で、その獲得に努めています。

吉岡:建物はBACC基金が所有しているのでしょうか?

ラッカナー:バンコク都庁の所有物件です。

吉岡:バンコク都庁からの補助金を得るには、事前に計画書や予算書を提出する必要があるでしょうか?

ラッカナー:はい。年間計画書を作成して説明する必要があります。バンコク都庁の文化スポーツ観光委員会(局)が窓口です。どれぐらいの予算が必要で、どういうプログラムがあり、支出計画がどうなっているか、私たちからバンコク都庁の担当部署に説明します。そして、今度はそれを、担当部署のスタッフがバンコク都議会に説明し、承認を得なければなりません。

吉岡:バンコク都議会のメンバーは政治家ですね?

ラッカナー:はい。都レベルの国会のようなものです。バンコク都民は、都知事を直接選挙で投票できるので、自治についての裁量があります。都議会は、バンコク都内の各区を代表する政治家で構成されています。これらの政治家は、近現代アートの知識と理解に乏しいため、バンコク都庁の担当部署は、毎回BACCの予算を確保するのに非常な困難を強いられています。都庁の担当スタッフは、都議会から戻ると、よく私にこう言います。「議員には内容が難しすぎるので、もっと彼らのわかるように計画書を作成してくれませんか」と。

吉岡:都議会に対しては、バンコク都庁文化スポーツ観光委員会がBACCの予算説明をしている。つまり、都議会議員は計画書の内容が理解できないけれども、バンコク都庁の職員は理解しているということでしょうか?

ラッカナー:ある意味、そうです。バンコク都庁の担当部署とは、数年にわたって一緒に仕事をしていますからね。当初は、私たちの活動やプロジェクトをバンコク都庁のスタッフに理解してもらうことも困難でした。でも、私たちは可能な限り彼らに関わってもらうように努力しました。来賓として招待したり、視察に来てもらったり、いろいろな形で実際に事業を見てもらったのです。今では、彼らは理解してくれる傾向にあって、時には彼ら自身の文化・芸術事業のために、私たちBACCが企画協力者として関与することもあります。
私たちのほうが文化・芸術分野のキーパーソンをよく知っているので、必要なときには、BACCに相談に来ます。担当部署との関係は、以前に比べてずいぶん良くなっています。
でも、都議会は様々な地区の多様な議員から成り立っているので、洪水の影響を受けた地区の議員は、洪水対策の工事ではなく、なぜアートに予算をかける必要があるのかと問います。こうした議員とたくさんの議論をしなければならないのは簡単なことではありません。それでも、彼らのアートへの理解を深めるために、コミュニケーションを続けなければなりません。

インタビュー中の様子の写真
写真:山本尚明
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