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ユエン・チーワイ――アジアの音楽と人をつなげる

Interview / Asia Hundreds

人をつなげる

畠中:最近『ステップ・アクロス・ザ・ボーダー』(Step Across the Border*9 というフレッド・フリス(Fred Frith)を取り上げたドキュメンタリー映画を見直したのですが、その中で自分たちのやっていることは「蝶の羽ばたきのようなものだ」という話がありました。60年代、70年代にはロックは世界を変えようとしいてけれど、今はそういう時代ではない。ちいさな結びつきがどんどん繋がって大きな変化をもたらすように、自分たちは、世界中を回ってそれをやっているのだと言っていました。プロセスとはそういうことであって、それは最終的に何になるかは全くわからなくて、その都度アーティスト同士の結びつきから立ち上がってくるものなのかなと思います。

*9 イギリスのギタリスト、作曲家、即興演奏家フレッド・フリスを取り上げたドキュメンタリー映画。Nicolas Humbert、Werner Penzelが監督、1990年に公開された。

ユエン:一番重要なのは定義づけしないことだと思います。一度定義づけてしまうと意味を失ってしまいます。それは誰かに「秘密がある」と言ってしまった時点でそれは秘密ではなくってしまうように。ですからとにかく続けること、そしていつも定義づけをしないようにだと思います。

畠中:それは常に変わっていくことでもあると思いますが、例えば東南アジアという地域に限定したとして、シンガポールを含む、東南アジアの諸国との結びつきをチーワイさんはどうのようにみていますか?

ユエン:私の個人の活動では多くの場合、人を繋げることをしています。ヒューマン・トラフィッキング(人身取引)みたいなものですね。もちろん合法的な意味でですよ(笑)。つまりミュージシャンがこちらに来てコンサートやパフォーマンスをしたい場合、私は彼らを他の色々なところへと紹介するのです。マレーシアやタイ、ハノイ、インドネシアなど、AMFを始めてからそういったことが多くなりました。そして、それはお互い話をしたり協働するなかでオーガナイザー同士のつながりも強くするのです。それと同時に、最近多くの人がもう少し抽象的な、例えばあるプロジェクトや別のアーティストとのコラボレーションをするにあたって私からの意見やアドバイスを求めて連絡してくるようになりました。東南アジアで起きていること、近隣諸国でコラボレーションをするにはどうしたらいいか、ファンディングの状況、政治、文化的相違などのトピックやリクエストにも対応しています。

シンガポールの環境

畠中:ある意味、音楽だけではないエスタブリッシュされたものに対して、アーティストやオーガナイザーたちがオルタナティヴな状況を模索していることがわかりました。

ユエン:私としてはもっとオルタナティヴに挑発的にできるとは思いますが、私たちにできることの限界や政治的状況もあります。シンガポールは世界でもっとも生活のコストの高い国です。この国が常に経済的な衝動で動いているために人々は余裕がないのです。そのため実験的な文化や、そのための時間が持てないのです。なので、自家製楽器を作るとても小さなシーンはありますが、その消費社会の強い影響のために自分で作る代わりにすぐに既製品を買ってしまうのです。

アジアハンドレッズインタビュー中のユエン・チーワイ氏と畠中氏の写真

畠中:それは生活するために時間を取られてしまうということですか?

ユエン:その通りです。フルタイムのミュージシャンはほとんどいません。多くの人は仕事が別にあって、小さな趣味としてやっています。それはバンドで1、2週間に一回ぐらい集まれたら集まってスタジオに入ってジャムするくらいで、私たちが希望しているほどみんな文化にコミットしていないんです。

畠中:例えばシンガポールから出て行きたいという気持ちはありますか?

ユエン:もちろんです(笑)! 以前そう考えてバンコクに住んでみたこともあります。シンガポールの物価がとても高くなり始めた時でアーティストやミュージシャンとして生活していくのが難しかったのです。ですからシンガポールの外に拠点を置くことも試してはみたのですが、実際は住んでいないとフリーランスの定期的な仕事が得られないので結局戻ってきました。ただ言えるのは、私はいつも自分を慣れない環境、見知らぬ場所に身を置いて不慣れな状況に対処する過程が好きです。シンガポールはすべてが整理されすぎていて心地よすぎるので、別の場所に行くことによって何か新しいものが生まれるかもしれないし、今までもこれからも常に他の場所に自分の身を置くことを考えると思います。しかし、家族の存在が私をいつもシンガポールに留めさせる理由の一つです。私の父が歳をとってきていて彼の面倒をみる責任が私にはあると思っています。もしかしたら、これもとても東南アジア的なのかもしれませんが。

アーティストとしての過程、大友さんとの出会い

ユエン:私はほとんどのシンガポール人と同じ教育システムを通ってきました。シンガポールの大学で経済を学びいい成績も残しましたが、卒業後は父が私が進むと思っていたものや想像できるものとはまったく違う道を歩むことになりました。大学卒業後は広告代理店にコピーライターとして就職しましたが大嫌いで、広告の仕事をする中で独学でデザインを学ぶようになりました。それは大学の時も経済学部にいながらいつも図書館にいて本を読んでいたのと同じです。社会学、哲学、建築、歴史など、経済学以外のものを読みあさっていました。その図書館で過ごした時間が自分を育てたのだと思います。

在学中は演劇に深く関わっていたので、自然と広告の仕事を辞めてからシアターワークス(TheatreWorks*10 でレジデント・デザイナーとして働くことになりました。そこで私のシアター、ヴィジュアル・アート、音楽、ダンス、文学への理解がより深くなったのです。それは大学教育の続きみたいなものでした。
その頃、2001年に大友さんがシンガポールに来てシアターワークスでの演奏を見ることができました。それは私の音楽に多大な影響を与えました。大学ではインディーズバンドで演奏をしていたのですが、かなりストレートな音楽だったのでフラストレーションが溜まっていました。そして大友さんのコンサートを見ることによって数多くの可能性が開かれたのです。その後シアターワークスで当時のディレクター、オン・ケンセン(Ong Keng Sen)からも影響を受け、またアソシエイト・ディレクターのロー・キーホン(Low Kee Hong)ともデザイナーとしてだけではなく、ミュージシャンの招へいやワークショップの企画などで一緒に仕事をするようになり、そこから活動が広がりました。それで2000年代の初めころからノルウェーのミュージシャンたちとこの地域でコラボレーションをすることになり、ここから私の活動のすべてが広がりました。
その時期にノルウェーのミュージシャンたちと深く関わり始めて、ジャズカマー(JAZZKAMMER)のメンバーであるラッセ・マーハーグとジョン・ヘグレとコラボレーションをするようになったり、同じく2000年代初期に初めて日本に来た時には灰野敬二やヴィジュアル系を聴きに行ったり(笑)。様々な音楽的影響を受けました。2000年代半ば、色々な音楽イベントをどうやってオーガナイズすればいいのかより探求していた時期でした。また、フラクサス(FluxUs)という、とても影響力のある実験前衛音楽のショップが2005年半ばから1年間存在しました。これは私の大学の友人であるハロルド・セア(Harold Seah)とジョセフ・タム(Joseph Tham)が開いた店で、ここで私は店内演奏会をオーガナイズするのを手伝ったり、もっと演奏をするようになったのです。

*10 シアターワークスは、1985年にシンガポールで設立されたインディペンデントな非営利の劇場。芸術監督にオン・ケンセン。

そして、2007年にシンガポールのコンサートホール、エスプラネード(Esplanade*11 が私の活動に気がついて、それまでやっていた「ハダカ」というシリーズのイベントを行うことになりました。その時に大友さんや伊東篤宏さん、それと東南アジアのアーティストを呼んだのです。それは、東南アジアと東アジアのコミュニケーションにおいて亀裂があると思い、そのコネクションをもっと促したいと思ったからです。韓国からジン・サンテ(Jin Sangtae)、香港からディクソン・ディー(Dickson Dee)、シンガポールから私のほか、ザイ・クーニン(Zai Kuning)、ジョージ・チュア(George Chua)の3人、ジョグジャカルタからベンザ・クライスト(Venzha Christ)、そして当時ホーチミンに住んでいたヴー・ナット・タン(Vu Nhat Tan)が参加しました。その後2008年に大友さんから連絡が来てFENをやらないかと誘われたのです。

*11 2002年に開館したシンガポールの国立舞台芸術センター。年間約3,000の催しを開催。

畠中:現在、あらゆる国にさまざまなジャンルやムーブメントが存在していると思いますが、共同体の外からはなかなか発見することができない。そういう意味では東アジアの国々はまだ東南アジアの状況を発見できていなかった。そのチャンスを作ったという意味で大友さんとの出会いは大きな出来事だったんですね。

ユエン:そうかもしれませんね。FENを結成したことと2009年に東京でAMFをやったことが、それをより確固なものとしたのは間違いないので、私だけの功績にはしたくはありません。東南アジアでは私たちは日本についての情報はたくさん知っていましたが、その後、東南アジアで何かが起こっているということがより多くの人に認識され、多くの活動が行われるようになったんです。

アジアハンドレッズインタビュー終了後のユエン・チーワイ氏と畠中氏の写真

【2018年2月21日、Gallery Cafe Bar Klein Blue(東京)にて】

関連情報

アジアン・ミーティング・フェスティバル Webサイト


インタビュー・文:畠中 実(はたなか みのる)
1968年生まれ。多摩美術大学美術学部芸術学科卒業。NTTインターコミュニケーション・センター[ICC] * 主任学芸員。1996年の開館準備よりICCに携わり、「サウンド・アート――音というメディア」(2000)、「サウンディング・スペース」(2003)、「サイレント・ダイアローグ」(2007)、「みえないちから」(2010)、「[インターネット アート これから]―ポスト・インターネットのリアリティ」(2012)等、多数の企画展を担当。このほか、ダムタイプ、明和電機、ローリー・アンダーソン、八谷和彦、ライゾマティクス、磯崎新、大友良英、ジョン・ウッド&ポール・ハリソンといった作家の個展を行なう。美術および音楽批評。

* 1997年に東京/西新宿・東京オペラシティタワーにオープンした、NTT東日本が運営する文化施設。
ICC

写真:田村武