シンガポールのTTRPへ
シャンカル:それから、ケーララ州で1年半活動しましたが、悲惨な結果となりました。これは、私が学校で仲間の俳優たちを演出して、学生たちと共に創作することに慣れてしまっていたためです。しかし、プロの俳優に接するようになると、自分が俳優というものの役割を当事者としては、あまりちゃんと理解していないことに気が付いたのです。そのため、演技の過程を理解したいと思うようになり、結果としてシンガポールのTTRP(Theatre Training & Research Program, 演劇訓練および研究プログラム)*2 に入りました。
*2 TTRP(Theatre Training & Research Program, 演劇訓練および研究プログラム)は、シンガポールを代表する劇作家クオ・パオ・クン(1939 - 2002)とT・サシタラン(生年未発表)を中心として、2000年、設立された俳優訓練のための学校である。現在は、ITI(Intercutlral Theatre Institute)と名称を変更して継続している。開校当初から、3年を要する徹底した俳優訓練のためのプログラムで、アジア各地の伝統演劇の技法も学ぶことがその大きな特徴となっている。
内野:ケーララ州にプロの俳優がいるんですね?
シャンカル:います。演劇で生計を立てている人たちです。
内野:どういったタイプですか? レパートリーなどはありますか? 劇団のようなものですか? それとも皆さん、フリーランスで活動しているのでしょうか?
シャンカル:旅回りの商業劇団があります。通常、劇団と1年のシーズン契約を結びます。もっと実験的な演劇に出演する俳優もいます。そういった人たちはフリーランスです。
内野:英語の演劇ですか?
シャンカル:マラヤーラム語の演劇です。
内野:マラヤーラム語ということは、主にケーララ州で上演されるわけですか?
シャンカル:そうです。
内野:シンガポールのTTRPはどのようにして見つけたのですか?
シャンカル:TTRPは門戸を開いていて、非常に幅広い実践のプログラムを提供しています。
内野:ええ。しかし、その情報はどこから得たのですか? 噂に上っていたのでしょうか? 開設されたのは確か2000年のことですよね?
シャンカル:開設の前の年に、クオ・パオ・クン氏*3 とT・サシタラン氏*4 が世界中を巡ってTTRPの宣伝をしていたのです。
*3 シンガポールを代表する中国系劇作家であったクオ・パオ・クンは、反骨精神に満ちた数多くの戯曲を中国語と英語で発表するだけでなく、自ら演出も手がけたことで知られる。また、シンガポールにおける演劇教育のパイオニアとして、インディペンデントの演劇学校を設立し、多大な影響を与えた。晩年は、アジアの伝統演劇と現代演劇の融合に腐心し、2000年、TTRP(註2参照)を立ち上げたが、その直後、惜しまれつつ夭逝した。多数の戯曲があるが、その代表作は、日本語でも出版されている。郭宝崑『花降る日へ―郭宝崑戯曲集』(2000年、れんが書房新社)
*4 T・サシタラン(生年未発表)は、シンガポールのインド系演出家、演劇教育者。クオ・パオ・クン(註3参照)の盟友で、TTRP(註2参照)創立に多大な貢献を果たした。パオ・クン亡き後は、TTRPの存続のために奔走し、ITI (Intercultural Theatre Institute)と名前を改め、旧TTRPの発展に尽力。現在はそのITIのディレクターを務めている。
内野:その当時、私も、東京でパオ・クン氏に会いました。
シャンカル:私は英国の高等教育機関への入学も考えていて、入学案内書を入手していました。また、別の学校も視野に入れていました。
内野:インドのアーティストは、通常、英国の学校を第一の選択肢として考えますね。
シャンカル:そうですね。特にインドのような元植民地の国では、普通は英国に留学して、学位を取得して戻ってくることを望む人が多いですね。ですから私もそう考えていたのですが、学校で偶然にもTTRPのパンフレットが目に入ったのです。それで、東方に行くのも面白いかもしれないと思いました。それに、TTRPは多様な伝統演劇だけでなく、私が望んでいた現代演劇の実践プログラムも提供していました。
内野:俳優というものを知ろうとするご自身の考えにそれが適していると思われたのですね。
シャンカル:そうです。
内野:シンガポールでの日々はどのようなものでしたか? たとえば、環境はかなり違っていましたか? シンガポールというと……。
シャンカル:作られた感じ。
内野:作られた感じ、人工的、そして非常に資本主義優位な雰囲気が強い地域ですね。当初、TTRPはITビジネス街に所在していましたね。
シャンカル:演劇学校ではなく、銀行に通っているような気がしました。最初の1年間は素晴らしかったのですが、次の年はかなりイラつきました。
内野:なぜですか?
シャンカル:3ヵ月ごとに講師が変わり、南アメリカや東アジアといったさまざまな地域から来た人たちが、演技の指導をするとか、プログラムの責任者になるという状態が続いたからです。ある意味では非常に多様性があると言えるのですが……。それでも、1年半ほど経つと、オーストラリアから来た人物が、演技部門の責任者として落ち着きました。
内野:それは、パオ・クン氏が亡くなった後のことですか?
シャンカル:そうです。
内野:シャンカルさんが入学したときには、パオ・クン氏はもういらっしゃらなかったのですか?
シャンカル:そうです。
内野:そうした変化の裏には何があったのですか? つまり、オーストラリアとその俳優育成方法についてですが、シンガポールなどの旧植民地の地域では、いつもシェイクスピアを教えることに長けているオーストラリア人講師を招へいする傾向がありますね。一種の商売にさえなっている……。それはわかっていたつもりですが、TTRPでもそういうことになっているとは、知りませんでした。
シャンカル:異なるモデルを試して、実験的に代わりの方法を見つけようとしていたのだと思います。たとえば、南アメリカ出身の講師から指導を受けた後に、夕方の授業で京劇を学んだりするのです。それでは、身体が混乱してしまいます。そうした問題を改善しようと努力はしていたようですが……。
内野:確かにそれでは非常に混乱しますね。知的にではなく、身体的にという意味ですが……。
シャンカル:まさに身体的にです。多少は理知的な面での混乱もありましたが……。
内野:そうですね。わかるような気がします。
シャンカル:ある授業では、ある特定の俳優訓練法にしたがって演技をし、次の授業では別の訓練法規律に身体を従わせなければならないのです。規律によってアプローチが異なります。その当時、おそらく学校側は、学部が統一してすべての事柄を管理する必要があると感じていたのだと思います。しかし、一元的アプローチで、他のものすべてを同質化するという体制は、私にとっては不満でした。その後また変化が起こり、学校が自然の溢れるエミリー・ヒルに移転したのです。ITビジネスに囲まれたキャンパスとは全く異なる環境で、制作活動に取り組むことができました。最後の1年は非常に良好でした。
内野:その経験から何が得られましたか? 知的に、また芸術的に、TTRPにおける経験から何を学ばれましたか? その頃の経験は現在のご自身の演出にどのように活かされていますか? また、TTRPでの経験において最も貴重だと思われるものは何でしょうか?
シャンカル:振り返ってみると、TTRPで学んだことで、自信をもって自律的に作品を創作するためのツールが得られたような気がします。空間、身体、行為(アクション)が異文化の中でどのように理解されるかといったような理解が自分の中で形成されました。つまり、行為(アクション)の見方や行為(アクション)を作品のビルディングブロックとして扱う方法における可能性です。こうしたことについて、徹底した細部まで煮詰めて演劇を作る姿勢は、このプログラムで学んだものだと思います。
内野:なるほど。スタニスラフスキーのような近代俳優術も学びましたか?
シャンカル:スタニスラフスキーは学びました。マイケル・チェーホフの演技術を教える講師がいました。ラバンを教える講師もいました。
内野:能楽は誰が教えていたのでしょうか?
シャンカル:最初の1年は、観世栄夫*5 先生が能楽を教えていました。
*5 観世栄夫(1927~2007)はシテ方観世流能楽師。一時(1958~79)能楽界を離脱して現代演劇のみならず、映画やテレビでも活躍したことでも知られる。能楽界に復帰してからも、多彩な活動を続け、国際的にその名を知られた。
内野:覚えています。私は1年目に観世さんと一緒にプログラムにいました。先生と同時期に、講義をしていました。
シャンカル:私たちのグループは、観世喜正*6 先生と桑田貴志*7 先生から能楽を教わりました。
*6 観世喜正(1970~)シテ方観世流能楽師。三世観世喜之の長男として生まれ、慶應義塾大学法学部卒。テレビ番組等を通した能楽の普及にも努めている。
*7 桑田貴志(1971~)広島県福山市出身。明治大学政治経済学部卒業後、観世九皐会 当主・観世喜之師のもとで住み込みの内弟子修業を積む。2001年、観世宗家より能楽師としての免状(準職分)を受け独立。舞台に立つ傍ら、能楽の普及活動にも積極的に取り組んでいる。
内野:しかし、異なるタイプの演技スタイルから抜け出ることが必要ですね。独自のスタイルを築かなければならない。作品を立ち上げるプロジェクトに取りかかるとき、演技に関しては、演出家として異なるアイデアを使うことになりますか?
シャンカル:プログラムに参加しているときは、すべてを試してみたいと思うものです。しかし、いざ試してみると、それが求めていたものでないと気付いたりします。能楽の課程が終わると、その課程後の期間があり、そこで、能楽で学んだ演技のボキャブラリーを盛り込んで、何か新しいものを創造しなければなりません。それができると今度はまた、それに飽きてしまったりします。そして、また他のことに挑戦します。そうしているうちに、テクニックではなく、何かが身体の中に蓄積されていくのです。
内野:それは、俳優としてご自身の身体に残る無意識的記憶の一種ですね。
シャンカル:そうです。しかし、特定のスキルやスキルセットではありません。
内野:それは、ご自身が能楽師になるわけではないからですね。
シャンカル:そのとおりです。
劇団「シアター・ルーツ&ウィングス」を設立
内野:なるほど。TTRPの課程をすべて終えた後はどうされましたか?
シャンカル:デリーに戻りました。
内野:デリーに戻られたのですか? ケーララ州ではなくて?
シャンカル:ケーララ州には戻りませんでした。今後の準備を整えることが大切だったからです。その頃は、キャリアを確立して、名前を知ってもらうことが重要でした。そこで、デリーに戻って劇団を設立したのです。
内野:シャンカルさんの劇団「シアター・ルーツ&ウィングス」ですね。
デリーで設立されたということですが、今もデリーを拠点にしているのですか?
シャンカル:いいえ。トリチュールに拠点を移しました。今は、アタパディのジャングルの中にあります。
内野:デリーで、キャリアの確立に取り組んだわけですね。デリーではどのような演劇を手掛けましたか?
シャンカル:無言劇をやろうと考えていました。
内野:それは、太田省吾氏の作品に出会う前のことですか?
シャンカル:太田省吾氏の作品は念頭にありましたが、当時の私が扱うにはあまりにも偉大すぎました。ですから、サミュエル・ベケットの『言葉なき行為』やオーストラリアの劇作家、リチャード・マーフェットなどに目を向けていました。彼の『即死』のような戯曲は『言葉なき行為』とよく似ていて、対話ではなく、一連の行為(アクション)から作品が作られています。ですから、非言語的なアプローチを考えるために、30分や45分の短時間で、かつ登場人物も少なくて済む無言の作品を探していました。これはまた、言語的に非常に多様な文脈で創作するために必要な私の演出手段でもあったのです。
内野:デリーでは、どのような観客が主でしたか?
シャンカル:いわゆる劇場観客ですね。
内野:それは中産階級の人々ですか?
シャンカル:ええ。そういうことになるでしょう。
内野:なるほど。どのくらいデリーで活動されましたか?
シャンカル:1年半です。
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