未知なる「民主主義」の希求と蹉跌
喜田:学生時代、喜劇演者として舞台に立たれているという写真も拝見したことがあります。そうしたキャリア初期の話もお伺いできますか?
ティン・リン:ミャンマー語で「アニェイン(Anyeint ミャンマーの伝統舞踊の舞台。幕間にコントや漫才のような喜劇が演じられる。)」といいますけれども、以前はコメディアンとしてその舞台に立っていました。当時はネ・ウィン大統領が権力を掌握した社会主義の時代です。大学生のとき、第一世代の時代が終わり、次世代のコメディアンとして私もその一人に選ばれました。ネ・ウィン政権の下で国がぼろぼろになり、国民が貧困に陥っているということを、喜劇を通じて伝えていました。
ミャンマーにとってアニェインというものは、かつては独立運動の舞台として、その後も常に政治・経済・社会の状況を伝えるためのとても重要な機会になっています。そして、1988年に「8888運動」と呼ばれる学生運動が起き、私はこの運動に関わるあるグループのリーダーになりました。
リーダーとして人々に運動の状況を知らせ、変革を求めなければなりません。しかし、9月18日、国軍がクーデターを起こして政権を握ります。私はまだ未熟だったので、民主主義というものを獲得するためには、武器を持って闘わなければならないと考えました。ミャンマー(ビルマ)では私が生まれてこのかた一党制の独裁政権だったので、民主主義の意味がまったくわからなかった。私は国境地帯まで行って、武装勢力の一員になりました。最初、インド政府からの支援を期待していたのですが、実際にはまったく支援が得られず、最終的には難民キャンプに入ることになりました。
喜田:そのキャンプで、セッツ・ニィエン・アイさんというマンダレイのアーティストとの出会いがあったという話をされていましたね。
ティン・リン:彼も私たちと同じく革命を志して難民キャンプに来ていました。ジャングルでの生活でしたが、学生たちが時間を無駄にしないように絵の描き方教室を開いてくれました。ただ、物資が不足していましたから、一日にA4サイズの紙2枚しか使えない。道具としては鉛筆しかありませんでした。画布も画材もその他に必要な道具はまったくなかった。アートの歴史についてもセッツ・ニィエン・アイ先生が講堂で講義してくれました。ヴァン・ゴッホやパブロ・ピカソのような有名な画家の話も聞かせてもらいましたが、参考となる本のようなものがまったくないので、自分の想像で絵を思い描き、覚えただけのものでした。
喜田:美術史上の名作との出会いは、想像上のものだったというのは面白いですね。美術史の知識をもとに制作を始めるのではなく、むしろ自らの身体を用いたパフォーマンスや演劇だったり、身の周りの物資で絵を描いたりという実践的な体験が先に来ています。難民キャンプでは他にどんなことがありましたか?
ティン・リン:その後、中国国境で全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)という別の武装勢力に合流しました。このとき初めて、武装して闘うという真の体験をしました。ただ、人が想像する映画『ランボー』(1982年のアメリカ映画)のような生活とは異なるものです。ジャングルの中でどのように生活するのか、迷ったときにどのように道を探すのか、雨が連続して降ったときにどのように生き延びる術があるのか、危険な虫や野獣をどのように避けるのか。徹底したサバイバルの技術を身につけなければならないし、国軍が激しく戦闘を仕掛けてくる場合に、どのように対応するかを一生懸命覚えなければなりません。
しかし、その後ABSDFは分派してしまい、片方の派閥がもう一方の派閥にスパイの疑いをかけて、電気ショックを与えたり、水責めにしたり、火あぶりにしたりと拷問にかけるようなことが起きました。友人の中には拷問の末、手足が不自由になってしまった人、首を斬られて殺された人もいます。私はジャングルを離れ、武装勢力から逃走しました。逃げている途中、中国の軍隊に捕まり、結局ミャンマー軍に降伏して武器を放棄することで、大学に戻れることになりました。そして、ビジュアルアートを始めることになったのです。
喜田:その後、現代アートの世界に身を置くことになったのですが、どのような経緯があったのでしょうか。
ティン・リン:1988年以降に経験した政治活動は地下活動でもあったので、これをおおっぴらに友人や公衆の前では語ることができない側面がありました。だからこそ、自分にとってアートというかたちで考えを伝えることは、一番ふさわしい方法だったように思います。ただ、ビジュアルアートでは、検閲があって難しい。喜劇だけでも足りません。私がやっているのは、その国の歴史を語るという部分もあるし、その次の世代に今まで経験したものを伝えるという部分も入っています。喜劇と根本的に異なるのは、演じているのではなくて、実際の経験に基づいているという点です。
だから、現代アートでなければ伝えることができないと感じるようになったのです。そう考えて始めた現代アート作家ですが、私はミャンマーの中では第一世代に当たります。当時、「これはアートではない」と批判されたこともありましたが、この表現を得て、力強さが増したと感じています。
他者の存在によって増す表現の強度
喜田:日本に住み、投獄という過酷な体験とは隔絶した私たちも、ティン・リンさんの作品を見ることで、なにかに気づき、救われ、勇気をもらうことがあると思います。まったく別の環境で描かれたものが今、美術館のホワイトキューブに展示され、世界のさまざまな人の目に触れるようになったこと、とりわけこの「サンシャワー展」で展示されていることに対しては、どのようなことを感じていらっしゃいますか? まったく異なる文脈で作品を見る人に対して、どのようなメッセージを発していきたいとお考えですか?
ティン・リン:ミャンマーの人は半世紀ぐらい、本当に苦しい時間を通過してきたと思います。日本の場合、数年前のミャンマーのような軍事政権下にないという意味においては厳しい状況ではないかもしれませんが、自然災害や戦争などがさまざまな苦痛をもたらしました。私は今回、広島を訪れましたけれども、平和記念資料館では原子爆弾によって亡くなった方々の映像や写真を見ました。あのように困難な時期を乗り越えて復興し、今や東京はもちろん広島なども大都市になっている。その一方で、日本では自殺者が多いということをよく聞きます。
広島のような戦争体験や、神戸のような自然災害を乗り越えて復興した日本人の精神面を考えると、自殺者が多いという話に奇妙さを感じることも事実です。強調したいのは、刑務所のような状況に置かれたとき、そこであきらめてしまうのか、立ち向かってチャンスと考えるのか。すべての人間は必ず選択しなければならないのです。
極限の状況でなくても、例えば社会の中で何か失敗した場合、そこでもたらされた苦痛を乗り越えなければならない。一部の人はそういう状況に置かれると、諦めてしまいます。囚人の中にも置かれた環境に絶望して病気にかかり、衰弱して死んでしまう人もいます。精神病やうつ病によって、亡くなる人もいます。しかしながら仏教の考え方によれば、人間には苦痛を乗り越える力が与えられています。それは人間だけに与えられているものです。
ですから「サンシャワー展」を通じて、日本の観客、あるいは他の国の観客に対しても、一人の人間の創造性、精神的な力といったことを伝えたい。過酷な状況に置かれても、あきらめずに乗り越えて、このようにアート作品を作ったということを知っていただきたいと思います。
喜田:今、現代美術は社会にどのように貢献するかという点が重要になってきていて、「サンシャワー展」でも「アートとは何か?なぜやるのか?」というセクションで展示によって考察しています。絵を描き、ものを作ることが、生きることにどのように作用しているかということについて、また最近の活動や、それがいかに民主化を経た現在のミャンマー社会に関わっているかについて、最後にお伺いできたらと思います。
ティン・リン:すでにお話ししたように、刑務所で絵を描く際は他者の協力が欠かせません。絵を描くことを通して、他の囚人たちとのお互いの理解を深め、秘密を共有していったという特徴があります。パフォーマンスもしていましたが、その際は、監視の役割をする人や、集合場所とかを決めないといけない。刑務所の中には、学生の囚人や、他の犯罪で刑に服している人もいるので、彼らと連携することになります。みんなから助けてもらって、一つの作品になる。そのように、私のアートは他者、さらに言えばコミュニティと連携しているのです。そしてこの国でどういうことが起きているか、どういう状況になっているかを反映させていきます。
ミャンマーは民主化に向かっていますが、今は移行期間です。その移行期間におけるアートとして、マンダレイ、ヤンゴン、タングー、マグウェなどで元政治犯たちと会い、石こうの手形をとって集めています。集めるだけでなく、インタビューもします。市場や公園、学校などで、「なぜ刑務所に入ったのか」「刑務所の中で、どういう体験をしたか」「どのように拷問を受けたか」といった質問を投げかけます。彼らがどうやって過酷な状況を乗り越えたのか、どういう秘訣、策があったのかを発見するのです。これまでに手形は500集まりました。つまり500人分のストーリーを集めることができたのです。
喜田:《ショウ・オブ・ハンズ》(2013-)という作品ですね。手というモチーフは非常に象徴的だと思いました。これらの手は、かつて刑務所で過ごした人たち同士をつないでいるだけではなく、刑務所での過去と解放された現在をつなぎ止め、過酷な経験の記憶を次世代へ手渡してもいるからです。また、「ショウ・オブ・ハンズ」という題名も、「挙手する」という民主主義の根幹をなす行為を意味していますね。この作品はお互いの信頼関係の上に成り立つ、と以前おっしゃっていましたが、やはりインタビューをしながら石こうをとる時間も作品の一部なのでしょうか?
ティン・リン:その通りです。元政治犯の中には女子学生もいて、15、16歳で刑務所に入れられ、拷問を受けるケースもあったのです。話を聞くと、彼女たちにはまったく恐怖感というものがなくて、勇気を持って拷問に耐えながら、一方で自分たちが置かれた状況を楽しんで乗り越えたということがわかりました。彼女たちはジョークを交えながら話をしてくれるので、つい笑いが起きることもあります。過酷な状況の中でも、あれだけの生命力があるということにとても感心させられます。こうしたインタビュー、つまり対話という過程を通すことで作品ができあがるのです。
今、ここで私が受けているインタビューの状況を見ても、喜田さんと通訳さんと私の体験談があって、そのコンポジションということがあると思うんです。インテレクチュアル・カンバセーション、知的な対話でもあります。単にアートについてだけでなく、アートと関連した歴史を語り、それぞれの経験だけじゃなく、そこにいる人たちの思いやりや、好意、愛情も立ち表れます。人間としての成熟度も関わります。先のご質問に立ち返ると、こうしたことを止揚する弁証法的プロセスも視野に入れてアートの作用とは何かと問われたとき、自分の経済的な側面や、勉強の側面もありますが、重要なのは、私も相手もコミュニティも、お互いに人間としての成熟度が深まっていくという側面だと思います。これが、今私が関わるアートに力強さをもたらしているのではないかと思います。
【2017年7月14日(金)国立新美術館にて】
参考
インタビュアー:喜田小百合(きだ さゆり)
京都市生まれ。ギャラリー勤務などを経て、香港中文大学大学院の修士課程(Cultural Studies)で、主にアジア美術におけるアーカイブの問題について研究。香港のアジア・アート・アーカイブ(AAA)やインドネシア・ヴィジュアル・アート・アーカイブ(IVAA)などの調査を行う。2016年より国立新美術館勤務、14人の「サンシャワー展」キュレーターの一人で、ティン・リンの展示を担当した。
通訳:マウン・ティン・タイ
写真(インタビュー):佐藤憲一