「ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。
ソムウムチャーン監督のルーツを探る
谷元浩之(以下、谷元):監督のバックグラウンドについて聞かせてください。
ウィットチャーノン・ソムウムチャーン(以下、ウィットチャーノン):イサーン地方(タイ東北部)のコーンケン県で生まれ育ちました。子どもの頃は、身の回りにいろんな疑問を持ち、じっくり考えるのが好きでした。親が教師で家にたくさん本があったので、読書が好きでしたし、映画を観るのも好きでした。ある時、父が富士フイルム のS5000という小さなデジタル・カメラを買ってくれて、何となく周りのものを撮り始めるようになったんです。デジカメで動画が撮れることを知ったのが、映画に興味を持つきっかけにもなりました。撮影と言っても、特に何かを被写体にしていたわけではなく、そこにある雰囲気を撮っていました。特に、太陽を撮るのが好きでした。
その後、同じくイサーン地方のルーイ県で写真館をやっている先輩がminiDVを貸してくれました。本格的に映画制作に興味を持ったのは、コーンケンの大学にいた頃に、芸術学部の友達に影響を受けたからです。子どもの頃は作家になりたかったのですが、なぜ映画を撮り始めたのかと言うと、映画にすればものを書くよりもっと多くのことを伝えられるんじゃないかと思ったのがきっかけです。
また、自分と同じ世代の監督たちは、まだフィルムの時代だったかもしれませんが、私は撮り始めるのが遅かったので、miniDVで撮影を始めました。
谷元:カメラに興味を持ったきっかけは、デジカメで遊び始めたこと、実験し始めたことのようですが、どのような作品を撮っていたのですか?
ウィットチャーノン:はじめは写真が動画になるのが楽しくて、次第にミュージックビデオのように音楽に映像をつけていきました。すごくシンプルですが、写真や映像と音を組み合わせていく、ビデオプレゼンテーションのような感じです。ミュージックビデオは大好きで、音楽もやっていたので、自分のミュージックビデオを作りたいとも思っていました。MTVやタイのミュージックビデオチャンネルもよく見ていました。バンコクで働いていた時は、先輩たちが参考映像としていろいろなミュージックビデオを見せてくれて、ジョナサン・グレイザーやスパイク・ジョーンズ、ミシェル・ゴンドリーなどが人気でした。
MTVはコーンケンでは一般に人気があったわけではなく、音楽仲間の間で「格好いい映像だね」とか「どうやって撮ってるんだろう、どうやって演奏してるんだろう」という視点で見ていました。ただ、ビジュアルアートを知ってからは、自分の興味もそちらに移っていきました。
個人的には、ビジュアルアートがタイで広がったのは比較的最近だと思います。ビデオアートが広まったのも、アピチャッポン監督の影響が強いでしょう。タイで実験映画を撮っていた人は前からいましたが、最近になって認知され始めたのは、デジタル化によってそういう実験映像を作りやすくなったからです。携帯など身近な媒体を使って、誰でも簡単に記録できる時代になりました。
谷元:監督は、アピチャッポン監督も映画の舞台としているイサーン(タイ東北部)を拠点にしていますが、都会的なバンコクとイサーンの文化的・地理的な違いは、監督の映画作りにも影響を与えていますか?
ウィットチャーノン:それは多少あると思います。やはりその土地によって文化は違いますから。まず、コーンケンは中規模の経済都市ですが、中心部を離れると田園が広がっていて都会と田舎が混ざったような場所です。イサーンについても言語でいうと、私の年代は共通語を話しますが、方言も話します。その交わる部分を表現したくて、ロケ場所やシーンの設定を考えています。
谷元:本格的な映画制作へはどのように関わるようになったのですか?
ウィットチャーノン:大学の図書館で、インターネットや映画に関する本や雑誌を調べて、映画制作を独学で研究しました。図書館は普通、勉強をしに行く場所ですが、私の場合は違ったんです。当時は工学部に在学していて、まさに『4月の終わりに霧雨が降る』と同じように、家族からは「映画は卒業してからやればいい」と言われていました(笑)。当時は音楽仲間と一緒にバカ騒ぎをしたり、写真スタジオでバイトしたり、勉強もしながら、映画への興味を持ってという時代でした。
自分がハッピーになる映画
谷元:監督が2009年に制作された短編『Four Boys, White Whiskey and Grilled Mouse』はロッテルダム国際映画祭で上映されていますね。
ウィットチャーノン: その前に、『A Brighter Day』(2007)という短篇を撮りました。当時は職業として映画監督になりたかったわけではなく、自分がよいと思う作品を作って、自分がハッピーな気持ちになれればよいと思っていました。そして、この『A Brighter Day』がきっかけで、インディーズ映画業界のいろんな監督たちとディスカッションするようになり、『Four Boys, White Whiskey and Grilled Mouse』という作品が生まれました。
谷元:『4月の終わりに霧雨が降る』の背景と、次回作についてお聞かせください。
ウィットチャーノン:もともと小説を読むのが好きだったこともあり、2007年より前に撮っていた作品は、自分自身とはかけ離れた、想像力を働かせた題材が多かったんです。コメディだとか、ヒットマンになったことはないけれども(笑)、ヒットマンものも作りました。その反動で、今度は個人的な経験を映画にしてみたいと思って生まれたのが、この『4月の終わりに霧雨が降る』です。アピチャッポン監督の『真昼の不思議な物体』(2000)、アンドレイ・タルコフスキー監督の『鏡』(1975)、そしてジェイムズ・ジョイスなどポストモダン文学にも、インスピレーションを受けました。
この作品は、自分で監督をしているという感覚がなくて、自分はいったい何をしているんだろう、映画って何だろうと考えながら作っていました。役者への演技指導も特にしておらず、あるシチュエーションを作り上げて、その状況を撮影しているという感じでした。だからセミドキュメンタリータッチとも言えます。脚本でも演技にはまったく重点を置いていませんでしたが、プロデューサーのアノーチャー・スウィチャーゴーンポンや編集のマッチマー・ウンシーウォンとたくさん議論を交わし、編集には時間を費やしました。観客がどう解釈するかを念頭に、シーンを組み替えたり、音楽の使い方を工夫したりしました。
アノーチャーとの縁は、彼女の長編監督作『Mundane History』(2009)に私がスタッフとして参加したことがきっかけです。彼女に『4月の終わりに霧雨が降る』の脚本を見せたら興味を持ってくれて、今度は私の映画にプロデューサーとして参加してもらうことになりました。2010年のNext Masters Tokyo——Talents Tokyoの前身なのですが——にも彼女と一緒に参加しています。
私の長編次回作『Beer Girl』は、『4月の終わりに霧雨が降る』とは異なり、完全にフィクション映画になる予定です。タイの社会を反映した物語で、脚本はほとんど出来ているというところまで、今はお伝えしておきます。
谷元:ありがとうございました。完成を楽しみにしています。
【2017年10月30日、六本木TOHOシネマズにて】
参考情報
Electric Eel Films(英)※タイのインディペンデントの映画制作会社。ウィットチャーノンも所属している。
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編集:谷元浩之(国際交流基金映像事業部)
タイ語通訳:高杉美和
写真:国際交流基金アジアセンター