舞台性について
佐々木:『フィーバー・ルーム』の成り立ちに話を戻します。アピチャッポンさんの初のパフォーマンス作品を、今回日本で僕も観たわけですが、事前に情報があまりなく、名前がクレジットされている俳優が出演するのかと思っていました。映像の中に出ている人たちが、演劇のように舞台に登場し、それと映像が一緒になるような勝手な想像です。そう考えていた人も結構いたようでした。でも実際には映像なわけじゃないですか。アピチャッポンさんはさまざまなタイプの作品を作っていますが、基本的には映像というものに非常に強いこだわりを持っていらっしゃると思うんです。映像の向こう側に生身の身体がある、例えば演劇やダンス、パフォーマンスのように出演者が実際にいて、その身体がそこで何かをすることは今回は試みられていない。その点について、アピチャッポンさんはどのようにお考えになっていますか。そういうことを今後てがける可能性はあるでしょうか。それともやはり映像が重要なので、生身の身体を自分の作品の中で映像に変換しないと成立しないと考えていらっしゃるのでしょうか。
アピチャッポン:役者がステージの上にいて、その後ろで映像が流れているような作品には興味があります。もしかしたら作ることもあるかもしれません。ただその役者が私であることは絶対にありません。なぜなら私はとても恥ずかしがり屋だからです。ステージに役者が立つとしても、観客と同様に考えていいと思います。舞台の上に上がる人が観客を、つまり役者が観客であるとして上映してもいいわけです。舞台の上の役者が、すごく強力なプロジェクターの光を後ろから浴びると手前に影ができます。その影が実際の観客に向かって映し出されていく。ストーリーが舞台の後方で流れていて、舞台にいる人が観客で、その影がその気持ちを表していくという方法をとる可能性もあります。興味はあります。
佐々木:ゆくゆくはそういった作品も見られるかもしれないっていうことですね。
アピチャッポン:可能性はあります。
佐々木:例えばヨーロッパでは、アーティストや映画監督がオペラや芝居を演出することがよくあります。アピチャッポンさんがどこかから依頼を受けて、アピチャッポンさんならではのやり方でオペラを演出するとか、シェイクスピアを手がけるとか、そういうことに興味はありますか。
アピチャッポン:分かりません。なぜなら私の作品は全て個人的なものなんです。今回の『フィーバー・ルーム』についても、嬉しいのと同時にすごく不思議に思っているのは、私の作品を見て共感し受け入れている人が多数いるということです。すごく嬉しいのですけれども、やはり不思議です。というのも『フィーバー・ルーム』にはストーリーがほとんどありません。ただ若者が出てきたり、ベッドの上で寝ている人がいたり、洞窟の中だったり。そこには全く関連性、ストーリーがありません。ですから、例えばシェイクスピアの作品を私なりに演出してくださいと言われ、私なりに手がけるとすると、シェイクスピアらしさが全く残らないだろうと思います。そうなると、それは果たして受け入れられるのだろうか。そういうことを考えるので答は出せないですね。
物語について
佐々木:これまでは『フィーバー・ルーム』の方法論をずっと伺ってきました。これからは物語で語られていることに関してお聞きします。今ストーリーがないとおっしゃいましたが、ストーリーの断片のような何かは当然あります。われわれ観客は、一番最初からセリフを聞きシーンを見て、一体そこでは何が物語られているのだろうと考えながら観ていくわけです。あなたの作品は全部そうです。だからといって、統一的な起承転結のある物語があるわけじゃない。けれどもあなたの作品の中に繰り返し出てくるモチーフはあります。今回『フィーバー・ルーム』の中にも、これまでのあなたの作品の中に出てきたさまざまな要素のほとんどが入っていると思いました。
この作品には、あなたの作品に繰り返し出演しているジェンジラー・ポンパット・ワイドナーとバンロップ・ロームノーイの2人が出演されています。その2人が叔母と甥という関係性にあると受け取れるセリフが幾つかあります。過去の作品にもそういうことがあったと思います。あなたは繰り返し、自分の作品は個人的なものであるとおっしゃっていますが、たとえばこの叔母と甥のように、アピチャッポンさんの作品に何度も登場する人物の関係性やモチーフは、作品の出発点なのでしょうか。当然何らかの理由やこだわりがあるのではないですか。
アピチャッポン:ジェンジラーとバンロップの関係は、叔母と甥ではなく、私の中では年の離れた友人です。
佐々木:叔母さんと言っていますが、親戚関係があるわけではないのですね。
アピチャッポン:特にそういう設定はなく、友達です。私の映画はフィクションとは違うもので、例えば今回の撮影時、ジェンジラーは事故で足をけがしていたという事情もありました。いろいろな個人的なことも中に入っています。例えば『光りの墓』の中でも語られている夢、それから記憶がテーマになっています。その記憶も、私の記憶、ジェンジラーの記憶、バンロップの記憶、みんなの記憶を共有してみたりしています。それを、映画の中にモチーフとして散りばめてもいます。あとは、タイ東北部イサーン地方の村の若者たちですね。その村には別のプロジェクトで滞在したことがあります。私の映画には、自分たちとは違う世代の若者を登場させています。私が伝えたいこと、記憶などを、世代を超えて語り伝え、継承していく。そういうことを作品の中で扱っています。特に何かにこだわっているわけではありません。その意味では『光りの墓』と共通するところがあると思います。
佐々木:最初の成り立ちの部分も含めて『フィーバー・ルーム』と『光りの墓』は、双子のような作品です。見え方としては結構違いますが、今伺っていてそう思いました。
アピチャッポン:そうですね。『光りの墓』では光の色が次々に変わっていきます。その点も『フィーバー・ルーム』では同じです。光の色を変えることによって、その話を伝えていくといいますか。そこをうまく出したいと思いました。
役者について
佐々木:あなたの作品はジェンジラーをはじめ、繰り返し同じ役者が、登場人物として出演するのが特徴です。先ほどからずっとおっしゃっている個人的な映画作りの中で、かなり長い間一緒に作品を作ってくると、言葉で説明しなくても分かる部分も多くあるでしょう。そういう人たちと、これからもずっと作品を作っていく。今まで一度も一緒にやったことがない、たとえば商業的な作品に出ているようなプロの俳優ではなく、ご自分の仲間もしくは友人と作品を作るほうを今後も選ぶということですか。
アピチャッポン:もちろん今までご一緒してきた仲間のジェンジラーほか皆さんを起用して、今後の作品は作り続けていきたい。と同時に他の俳優ももう少し受け入れてもいいのではと感じることもあります。ただ実際に有名な俳優を起用するとなると、いろいろ難しいと思います。なぜならその方は、今までにいろいろな仕事でさまざまな経験を積んでいるので、多数の仮面を持っています。私の作品は本当に個人的なものなので、ジェンジラーと一緒に仕事をするときは、彼女の体験も共有することができます。個人的なレベルで仕事をすることができます。でも有名な方と一緒に仕事をするとなれば、その方たちに多数の仮面を取っていただかないといけません。
佐々木:その人自身を出すということなんですね。
アピチャッポン:そういう意味で、難しいのではないかという気がします。もちろん誰だって仮面はつけているものですが、一緒に仕事をするには、本当の真っさらの自分に一番近い仮面になってもらう必要があります。つまり自分は親しい友人といるときのような状態にいられなければいけないんです。だから有名な俳優は多数いますが、まず最初に個人的に友達にならないと、私の作品に出ていただくことにはならないと思います。
佐々木:そうでしょうね。映画監督が役者に演技を付ける、あるいは演出をするといいますが、具体的に一体何をしているんでしょう。きっと映画監督にはタイプがいろいろあって、何回も何十回もリハーサルをする人もいれば、言葉で心理を説明する人もいれば、何も言わないでただやってくださいと言う人もいるのだろうと思います。アピチャッポンさんの映画を見ていると、出てくる人たちが、まさにその人自身としてそこにいるという感じを強く受けます。でもそれは、ただそういう人を撮ればそれが映るということでもない。
つまりそこには何かしら秘密があるのではと思ったりもします。その人自身感を出すためには、例えばジェンジラーほか出演者とどういうやりとりをして、その場のシーンを作っていくのでしょうか。先ほどから何度も出ている最新作『光りの墓』は、過去のアピチャッポンさんの作品よりもストーリーがはっきりしているという印象を受けました。ということは、このシーンではこういうセリフを言ってください、という指示をなさるようなことがあるのでしょうか。撮影現場で役者とどんなコミュニケーションを取ってらっしゃるのか、教えて下さい。
アピチャッポン:現場での指導については、役者によって変えています。役者でも、そのシーンをよく理解していない方も中にはいます。でも皆、私を信頼してくれているという共通点があるので、あまり深いところまでは言わないようにはしています。慣れている方だと何も言わず自由にやってもらいます。人によっては一秒一秒の動きまで説明することもあります。また、シーンによっても異なってきます。セットデザインとか、サウンドトラックによっても、あまり手を入れないでいいところもあれば、細かく言うところもあります。そのときに応じて、選んで、やり方を変えているというのが答えです。
他人の夢と現実
佐々木:先ほど、映画は他人の夢を模倣するものだとおっしゃいました。アピチャッポンさんの映画には、繰り返し夢のモチーフが出てきます。そのためには眠る人が必要です。それこそ『フィーバー・ルーム』と『光りの墓』の両方に、病院で横たわっている人物が出てきます。病院とは、昼間に夢を見ることができる空間です。入院していれば、普通夢は夜見るものですが、昼間にも見られる。あなたの映画と夢そのものは、もう本当にほとんど区別がつかないくらいで、すごく重要な概念だと思います。あなたの夢に対する強いこだわりには、何かきっかけもしくは原体験があるのでしょうか。
アピチャッポン:私の考えでは、映画に興味を持っている人は、夢にも興味を持っています。体には夢を見たいという欲求が常にあると思うんです。私の作品は個人的だとお話ししましたが、ひとりひとりそれぞれに個人的なストーリーがあるわけです。夢となると、もっと個人的になります。だからひとりひとりが見る夢は、さらに個人的なものなのです。それはとても深いものです。だから自ずからその夢が私の中ではモチーフになってくる。映画と夢はつながっているのです。
佐々木:他人の夢を模倣するというのは、ある意味ではすごく矛盾しています。つまり人間は絶対に他人の夢を見られないじゃないですか。でもそれを可能にするのが映画だということですよね。
アピチャッポン:そうです。映画によって他人の夢を見ることができると私は考えています。先ほどお話ししたように、将来脳科学が発達すると、他人の夢を共有することができるようになるでしょう。ただそれはもっと先のことです。現在では、人の脳波を分析し、それが映像とどのような関連を持つのかを調べる研究が行われています。まだ信頼に足る結果が出ていません。それができるようになるまでは、映画で他人の夢を見る、それが大切なことだと思います。
佐々木:僕もそのニュースを以前見ました。さっき「他人の夢は見られない」と言いましたが、そのうち見られるようになっちゃうんだと思いました。でももし本当にその技術が実現したとして、他人の夢がそれほど面白いものではなかったりしてがっかりするのではないか。想像しているときはいろいろな可能性があるのに、いざ実現してしまうと、人間ひとりひとりの個人的な夢が、あまり美しくなかったり、そういうこともあり得るのではと思うんです。
アピチャッポン:そうですね。
佐々木:夢という言葉で意味されているものは、人が眠っている間に頭の中で見ている映像のようなことだと思います。あなたの作品の中では、それがさらに拡張されています。つまり、この現実じゃないような現実、のようなもの。例えば前世、記憶の中のこと、過去、などです。そういった、そのときその場のその映画の中で、現在形、現実とされているものの中に、全然現実じゃないようなものや、過去の時間、別の時間がシームレスに入ってくるのが大きな特徴です。幾つもの作品に、そういうシーンがあります。その夢と現実が区別されないという特徴は、アピチャッポンさん自身の夢に対する認識とともに、現実に対する考え方や受け止め方が作用していると思うのですが、そこはどうですか。
アピチャッポン:夢は、シームレスなものだと思います。夢と現実の間に、あまりはっきりとした境界線がないという指摘はそのとおりです。映画には現実からかけ離れたこと、ストーリーがあります。でも夢には実に他愛もない普通のことが出てきて、いろいろお話があり、それを見続けていくと、時空を超えてジャンプしていき、過去のことを見ていたはずが、現実のことになったりします。でも個々の内容は大したことないんです。
佐々木:去年、アピチャッポンさんについての論集が日本で編まれました。その中に僕はまさに夢をテーマにした論考を書きました*1。『世紀の光』(2006)※英語サイト の中で女医が思い出を話すシーンや、『ブンミおじさんの森』(2010)※英語サイト の有名な最初の晩さんのシーンとか、あるいは『光りの墓』の中で女性2人が王宮に旅をするシーンなど幾つか例を挙げました。そういうシーンがどれもワンクッションなしに、とにかくそのまま来るのが大きな特徴です。それがシームレスだということですね。それを見ていると、この現実だと思われているもの自体も夢なのではないか。つまり、現実の外側にいろいろな夢があったり、現実に夢が入り込んでいるのではなくて、現実と思っているものも夢なのではという気がしてきます。そうすると、アピチャッポンさんの映画のどこが夢で、どこが映画の中の現実なのか、全く分からなくなる。全部夢なのでは。でもその夢の中で、夢を見ている人がいたりもします。そういうふうに見てしまいます。
*1 佐々木 敦「Beautiful Dreamer」『アピチャッポン・ウィーラセタクン─光と記憶のアーティスト』(夏目深雪・金子遊編、フィルムアート社、2016年)、263-274頁。
アピチャッポン:何が本当に現実で何が夢なのか、はっきりは分からない。もしかしたらそれは同じものかもしれません。映画を見て、映画館から出てきたときに、何が本当だったんだろうと考えることがあると思います。その辺は本当に曖昧です。それはもしかしたら、同じものかもしれないし、合わさっているのかもしれません。例えばこの水を入れてあるコップは物質ですが、それを現実ととらえると、コップにまつわる体験はひとりひとり違います。実際にコップがどのように現実のものになるかは、ひとりひとりによって異なるのかもしれません。この世界は常に変化し続けるものであり、物も動いていきます。それから意味もその時代によって変わっていきますので、全てのものは確かではない。
佐々木:常に変化していくし、変化し得るということですね。
アピチャッポン:そうです。動いていないように見えるものでも、常に動いているんです。例えば細胞は目に見えませんが、常に生まれ変わっています。人の記憶も、動いていないようでいて、いつも変化しているのです。
夢とSF
佐々木:アピチャッポンさんのその世界観といいますか、現実観を伺っていて思い出しました。先日、東京都写真美術館で開催された個展「アピチャッポン・ウィーラセタクン 亡霊たち」を拝見しました。その入口のインスタレーションに、ペーパーバックの本が何冊か差してありました。僕らの間では、それはアピチャッポンさんがきっと少年時代に読んだ本なのではないかと言われていました。それはSFで、結構有名な作品が数点入っていました。やはりSF的なものがお好きだったんですね。SFはまさに反現実の文学なので、夢とSFに対する興味は、やはり関係がありますか。
アピチャッポン:両親が医者だったので、病院が身近にある環境で私は育ちました。そのせいもあり、幽霊や精霊ということが身近にありました。過去と将来はシームレスなものだとも感じていました。あとは小説を読むことによって、自分の想像を大きく膨らませて、どきどきわくわくしたりしていました。幽霊とか精霊とか、あとUFOとか、そういう現実離れしたものも同じものだと私は思っています。そういうことを考えながら育ちました。
佐々木:日本には割とSFの読者が多く、僕もすごく好きなんですが、結構特殊なジャンルとされているように思います。今でもSF小説を好んでお読みになるのですか。
アピチャッポン:大人になってからはSF小説はあまり読まなくなりました。ただ80年代は世界的にSFブームだったようで、タイでもSF小説が多数翻訳・出版されました。現在私はSFより、政治的なことに非常に関心があります。
佐々木:実際あなたの作品では、短編も含め、実はとても政治的な、つまり現実の政治における問題に対する言及がなされてきたと思います。ただそれが直接的な形で分かりやすく描かれるわけではない。常にそれは夢の隙間の中に入っているようだと思います。『光りの墓』にも政治的な要素がありました。そういう傾向が、アピチャッポンさんの中で強くなっていくということは、やっぱり作風自体も変化しているということですね。確か新作を準備されていると伺いました。そのような傾向は今後強くなっていくのでしょうか。そうだとしても、今まで同様にストレートに政治的な問題を描くのではなく、寓話といいますか、あるいは夢のようなものを通して描くというスタイルは、やはり変わらないと考えていいんでしょうか。
アピチャッポン:私は政治活動家でも、専門家でもありませんし、そういう方たちとは違います。作品の中で自分自身の視点から政治的なことをどう伝えていくかは常に考えています。これからの作品においては2つのことに興味があります。ひとつ目はある程度長編の映画を撮ること。海外で撮影したり、外国の方と一緒に撮影して、もっと広いテーマを扱う。2つ目はもっと狭い世界で、芸術的なことに特化する。そこでは政治的な面や、社会的なメッセージを伝えていく。この2つに今興味があります。
今後の予定について
佐々木:最後の質問です。現在新作の長編映画の準備中なのか、もしくは既に撮影を始められているのか、今後の計画について何かお話ししていただけることがあれば、ぜひ伺いたいと思います。当然複数のプロジェクトが同時に進行していることと思います。
アピチャッポン:実は南米で撮影をしたいとは思っています。まだ情報収集と調査の段階で、具体的には始まっていません。資金調達などのこともあり、もう少し時間がかかると思います。幻覚と映画に関するアイディアを伝えられるような作品にしたいと考えています。
佐々木:今年7月に別件で来日されるそうですね。
アピチャッポン:はい、7月初旬にギャラリー SCAI THE BATHHOUSEで、展覧会「MEMORIA」が予定されています。また、森美術館で開催される「サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」*2 に参加します。
*2 「サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」展は、2017年7月5日より10月23日まで、国立新美術館、森美術館および国際交流基金アジアセンターの主催により開催。
佐々木:なるほど。きょうは本当にお忙しい中、長い時間取っていただいてありがとうございました。
【2017年2月12日、横浜桜木町ワシントンホテルにて】
インタビュアー:佐々木 敦(ささき あつし)
批評家。音楽レーベルHEADZ主宰。ゲンロン批評再生塾主任講師。早稲田大学、多摩美術大学、東京工業大学他で非常勤講師も務める。
『ゴダール原論』『例外小説論』『未知との遭遇』『批評時空間』『ニッポンの思想』『ニッポンの音楽』『ニッポンの文学』など著書多数。アピチャッポン・ウィーラセタクンの映画音楽をコンパイルしたアルバム『Metaphors』がHEADZより近日リリース予定。
編集:山口 真樹子(国際交流基金アジアセンター)
通訳:高橋 マリア 美弥子
写真:山本 尚明