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思考する身体――パドミニ・チェターレクチャー

Lecture / Asia Hundreds

アジア・ハンドレッズのロゴ
ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

第一部:チャンドラレーカーの生涯とその作品

こんにちは、パドミニ・チェターです。今日のレクチャーは二部に分かれています。前半では少し歴史の話、すなわち私自身が影響を受けてきた、舞踊についての思想の系譜についてお話ししようと思います。というのも、これはインドの舞踊史という大きな枠組において重要な意味を持っていると思いますし、またインドのみならずアジアの、現代の振付家が直面している問題に大変深く関わると思うからです。とりわけ植民地支配の歴史を背負った私たちにとって、ということです。つまり前半は主として私が10年ほど活動を共にしてきた振付家、チャンドラレーカーについてです。まずどんなアーティストだったのか、どんな振付家だったのかを簡単にお話しして、彼女が振付家としてどんな考えを持っていたのかを説明しようと思います。また後半は、こちらの方がいつも難しいのですが、チャンドラレーカーの考えたことが時代を超えてどのように生き続けているのか、そして私の作品の中にどう流れ込んでいるのかを、過去を振り返ったり、対比させたりしながら考えてみたいと思います。

しかしこのような場ですから、特に後半では、芸術表現や技術よりもむしろ別のことに力点を置いてみるつもりです。すなわち、私たちの市場(マーケット)の概念が芸術活動に実際どのような影響を及ぼしているかということ、そしてますます悪くなるように見える特定の傾向について、それがなぜ危険を孕むのかということです。私としては、今日この場所でこうしたお話の場を持つことは有意義だと思います。お付き合いいただければ幸いです。

舞踊家チャンドラレーカーの写真
写真No.1 Chandralekha portrait 写真:Sadanand Menon

これ(写真No.1)がチャンドラレーカーです。1928年にインド西部のグジャラート州で生まれ、南インドのチェンナイに移り住みました。私も同地で暮らし、活動しています。彼女は南インドの伝統舞踊バラタナーティヤムを学びたかったのですね。この街で彼女は高名な舞踊の師について学び、舞踊家として活動しました。とても2時間では詳しくお話しできませんが、バラタナーティヤムという舞踊自体、その起源についての議論が錯綜し、また社会的な変容も被ってきました。しかしそこに深入りはせずにおきます。その代わり、今日私たちが伝統的なインド舞踊と考えているものはたかだか1930年代に生まれたものに過ぎず、本当の古代の歴史的遺産とは見なせないだろう、とだけ言っておきましょう。むしろそれは、おそらくインドで初めての、舞踊におけるモダニズムだったのです。

チャンドラが舞踊家として出発しようとした時には、もちろん当時の形式に則って踊ったわけです。バラタナーティヤムは既に額縁舞台用に仕立て直されたものでしたが、意味内容や物語を選択する上でのある種の情緒、そして男性の観客が楽しむために女性を「差し出す」という考え方は変わらず残っていました。つまり、たとえバラタナーティヤムが寺院や宮廷に由来するものだとしても、要するに、宗教の文脈において機能してきたか、男性向けの娯楽として考えられてきたということですね。しかしどういうわけか、このモダニズムの時代に、舞踊が舞台上演の文脈に合わせて作り変えられてもなお、「魅惑的な女性」としての踊り手という古い概念や、二次元的な舞台の概念については、問い直されないままだったのです。

チャンドラは活動の初期に、従来バラタナーティヤムで表現されてきた意味内容や物語の妥当性を問うことを始め、それらはもはや時代遅れになっていると断じました。1950年代にはもう、そういう距離を置いて見ていたのですね。続く20年の間、チャンドラレーカーは国中を旅しました。ちょうど初期のサルドノ〔・クスモ〕が民族調査に出かけたのと似ています。国内のさまざまな地域にどんな舞踊があるのかを、自分の足を使って確かめたわけです。しかし同時に彼女は、独立後のインドで非常に盛り上がっていた国家再建運動にも関わるようになりました。1950年代、60年代、そして70年代に入ってからも、インドの活動家やアーティストたちは「過去数百年に失われたものに目を向けよう、かつてそれがどんなものであったのかを調べ、もっと広い公共的な議論の場に取り戻そう」と声をあげていたのです。チャンドラはこの運動に、すなわちインドの民芸や芸術を見直す動きに深く関わっただけでなく、初期の女性運動に関与して深い連帯関係を築いたこともまた、彼女がインドにおける新しい舞踊のための意味内容や物語を創り出す上で大変重要な意味を持ちました。

舞踊の現代性という考え方を彼女がどこから得たのかは議論の種になっています。アメリカを訪れた際にマース・カニンガムと出会ったことがきっかけだという人々もいます。物語ではなく身体と空間、あるいは身体と時間についての舞踊という考え方を彼女が実際に目にしたのは確かです。しかしながら、聡明な彼女は、そうした考え方をただインドに輸入して既存の何かと合体させようなどとは決して考えませんでした。むしろ1970年代にインドへ帰国した時、こう考えたのです。「焦ってもだめだ。舞踊を現代的なものにするという考え、これをインドで、自分たちの手で実現できるんじゃないか。でもそれは我々自身の身体の知の体系の中から生まれてくるべきで、西洋にやり方を教わる必要はない」。こうして彼女の、舞踊創作をめぐる旅が始まったのです。

作品Navagrahaの写真
写真No.2Navagraha』(1971)写真:Dashrath Patel

これ(写真No.2)は最初期のチャンドラレーカーが踊っているところです(後ろ姿)。この時すでに40代で、一緒に写っているのは名高い男性舞踊家のカーマ・デーヴです。舞台上で男女がデュエットで踊るというのは当時異例でしたが、チャンドラはインドでよく見られる図像を舞台上で再現してみることに強い興味を抱いていました。

少し時間を遡ってみるなら、これは何を意味しているでしょう。インド的身体性ということに関連して、これが彼女にどんな意味を持ったのか、少しお話ししても良いかと思います。彼女は自分の舞踊の基礎がバラタナーティヤムだと明確に意識していましたが、しかし、視覚的な美しさを求めるのとは違う身体の運用法にも目を向けていました。もちろんヨーガに惹かれていましたが、これは当時のインドではさほど親しまれているものではありませんでした。またケーララ州の武術であるカラリパヤットゥにも興味を持っていました。しかも、単に表現の語彙として捉えるのではなく(ここにチャンドラの活動に独特な知性と真摯さがあると思います。つまり動きを安易に混ぜ合わせたり、よそから持って来て一緒くたにするのとは違うのです)、彼女は自分の興味がこうした技法に含まれている身体的な観念にこそあると最初からわかっていました。またそれらの間に共通点が色々あることにも気付いていました。つまり体幹であるとか、エネルギーの流れであるとか、身体と空間の関係などにおいて共通の考え方があり、こうして異なる分野が出会うところに強い興味を抱いて注目したのです。

彼女は常に、こうした相互接続性を意識して活動していました。私の見るところでは、およそ15年間、作品を作り、身体を研究する期間を経てようやく、明示的にバラタナーティヤムの要素といえるものも、明示的にヨーガやカラリパヤットゥの要素といえるようなものも全く含まない究極的な形態へと到達できたようです。でもどこかで、彼女の言葉を使えば「身体において官能性と、セクシュアリティと、精神性が出会うところ」を提起してはいました。

作品Namaskarの写真
写真No.3Namaskar』(1986)写真:Dashrath Patel

これ(写真No.3)は初期のグループ作品の写真ですが、チャンドラが熱心に追い求めていたことの一つが、ソロの踊り手を重視する価値観からの脱却でした。活動を続けるにつれ、「身体と身体の間の空間」への関心を強めていきました。そこにおいてこそ舞踊は生きられ、実現されると考えたのです。

次は浜辺の様子です。彼女は浜辺の美しい家に暮らしていました。まだそのまま残されていて、Spacesと呼ばれています。

これ(写真No.4、5)は『Angika』です。振付家チャンドラレーカーの名を国際的に知らしめた初期作品の一つで、1980~90年代の代表的な振付家たちとの交流が始まるきっかけにもなりました。『Angika』は彼女がインドのさまざまな身体運動の文法を持ち込み、文法そのものを舞台に乗せた作品です。この写真に写っているのは武術におけるナマスカール(祈祷)に由来する部分で、複数の女性にこれをやらせるというのは当時、大変ラディカルなことでした。もう一つラディカルな点は、これら男性の、舞踊を専門としていない武術家たちに出演してもらったことです。彼らは武術で用いられる掛声まで発します。

この作品に関する批評としては、最後に上演された1990年代初頭までずっと非常に目立っていたのは、踊り手と武術家が共演する点についてでした。そしてどういうわけかよく聞かれたのが、「専門の踊り手でない者を舞台に上げることにどんな意味が?」という問いでした。実は、昨晩、エコ・スプリヤントの『イブイブ・ベル―:国境の身体』* を見ながら、同じ問いが脳裏に甦ってきました。「必ずしも舞台の慣習に馴染んでいない演者を使うことの意味は何だろう、そしてそれに枠組を与えることの意味は何なのだろう?」。こうして私たちは「上演(パフォーマンス)とは何か」と問うことにもなるのです。チャンドラの場合は、既存の約束事を迂回することが、上演(パフォーマンス)と実生活の隔たりを消すための戦略として不可欠だったと感じています。

* エコ・スプリヤント『イブイブ・ベル―:国境の身体』:2020年2月12日にKAAT神奈川芸術劇場ホールにてTPAMディレクションの一環で上演。

しかしチャンドラは実に思慮深いアーティストであり、演者全員と非常に緊密に仕事をしました。つまり全員で数か月もの間、毎日何時間も稽古を続けたのです。そしてただ私たちに振付やエクササイズやこの作品の全て(実際には私たちにかなりの部分が任されていました)を教えるのに多大な努力を払うばかりではなく、いつもこう言うのでした。「私は皆さんの体と仕事をしているのではない。皆さんの意識と仕事をしている」。彼女にとっては、仕事をともにする踊り手たち、そして若い演者たちが、政治的な意味で自分とともに運動していること、あるいは政治的な争点を理解していることが非常に重要だったのです。

何より重要なことに、というのもこの活動自体がこの世代のインドのアーティストにとって非常に重要な(それは私の世代との大きな違いですが)ナショナリズムの言説と関わっていたからですが、政治的な事柄をめぐる議論がいつもなされており、それがとても重要であったと思います。すなわち、「インド人であることはどういうことか? 現代的であるとはどういうことか? 現代的なインド人とは何か? そもそもこういうラベリングは必要なのか? この作品を世界の別の場所で提示することの意味は?」などといったことです。こうした闘争は、つまりチャンドラにとっては一種の闘争であったわけですが、作品そのものを作る作業の一部でしたし、教育の一部でもあったと思います。

作品Angikaの写真1
作品Angikaの写真2
写真No.4、5Angika』(1985)写真:Dashrath Patel

先へ進みます。この写真(写真No.4、No.5)は『Angika』の舞台の様子です。かなり大きな舞踊団であることがおわかりかと思います、それにこの上演…おそらく1992年のイギリス・ツアーの時の写真ですね…でも彼女の作品の美学はブレていませんでした。踊り手はいつもサリーをまとっていました。いつも同じダークブルーと赤と黄色のサリーで、このレベルのことに関しては何ら実験的なことはありませんでした。彼女は自分の目を通した現代インドの美学が私たち一人一人にどう見えるか、よくわかっていました。もう一つ面白いのは、同時期に、インドでは美術やデザインの分野で色々な動きがあったことです。チャンドラレーカーの密接な協力者であったダシュラス・パテールによって、アフメダバードに最初のデザイン学校が設立されました。こうした動きや議論はインド中のさまざまなところで起こり、そのいずれにおいても、同じ種類の厳密さと明晰さでもって形式、空間、時間について議論が闘わされたのだと思います。

現在の私の舞台を見た人から、「動きを遅くするこの発想はどこから来ているのか」とよく聞かれます。これはチャンドラレーカーが伝統的な形式を解体し始めていた初期の手法の一つです。「表層の美を取り払う必要がある。そのためには装飾を取り払い、明快にする必要がある」と彼女は言っていました。明快にするために、時間の経過を遅くするという手段を使い、そうして動きを踊り手にとっても観客にとっても明快にしようとしたわけです。これが彼女の提示するテクニックの一つとなりました。通常はかなり素早く展開する伝統的な型の速度を落とすことで、体の中で何かが、おそらく体にとっては未知の何かが起こります。例えばそういうことに彼女は取り組んでいたのです。