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思考する身体――パドミニ・チェターレクチャー

Lecture / Asia Hundreds

『Sri』から『Sharira』まで―チャンドラレーカー1990年代以降の作品

作品Sriの写真1
写真No.6Sri』(1991)写真:Bernd Merzenich

これ(写真No.6)はチャンドラです、たぶん65歳の時で、『Sri』という作品の初日ですね。独創的な作品で、インドにおける女性運動を集約的に表していました。彼女もそのように説明したと思います。そして冒頭部分…彼女はシャカンバリ、すなわち生命の樹と呼んでいました。しかしここでの生命の樹は、上下逆さまになった女性であり、この場面の最後でチャンドラが両足を広く開き、こう言います。「生命の樹は私の体から生えてくる」。この場面は、後にまた繰り返されることになります。この写真をお見せしたのは、私が彼女と作った最後の作品にも出てくるからです。そこでは彼女はこう言います。「しかし女は男を産むのだ。女は赤子を産んでいるのではないのだ」。彼女にしてはかなり意外な内容でしたが、彼女がある種の新しいフェミニズムとして提起していたことの起点ではありました。そう、チャンドラが世界に向けて発したかったのは、ある女のイメージなのです。家庭に閉じ込められた主婦、赤ん坊の母親、そして「家父長制のもとでの強制労働」によって虐げられた、女という観念への注目。これが『Sri』という作品の動機でした。

作品Sriの写真2
写真No.7Sri』(1991)写真:Bernd Merzenich

この『Sri』にもう少し的を絞ってみましょう。今日はフェミニズム的な話題も入れてほしいと言われていますので。これがその…生命の樹のあと、作品はこのマトリカ〔=母神〕たちの場面から始まります。チャンドラはここで、古代インドの、宗教が生まれる前の時代の女のイメージを扱っています。インドの歴史を渉猟する中から、女たちが武器を持ち、力を持ち、戦士として描かれた太古のイメージを見つけてきたのです。というわけで上演の最初の1時間はマトリカが占めることになります。次も非常に有名な写真ですが、伝統的な結婚式を思わせるような、女の手をつかんだ男のごく短い場面によって家父長制の概念が示されます。そしてこれが、「背骨を傷めた女たち」と題する場面に入っていくところです。私たちは「引きずり歩き」と呼んでいました。演じるには大変な苦痛を伴います。

作品Sriの写真3
写真No.8Sri』(1991)写真:Dashrath Patel

要するに、背骨は自由を象徴しており、男性が女性を特定の家庭内労働に押し込め、自由と活力を奪って来た、そうして背骨は傷められ、精神は弱められた、という表現です。『Sri』の最後の場面で彼女はこう言います、女たちはその背骨を癒し、女戦士として世界に戻ってくる、と。これが最後の部分で、ある種とても戦闘的な場面ですが、全員が腕を突き出して飛び跳ね、手刀を振るっています。作品の幕切れにはダシャブジャの大きな図像が用いられます。いくつもの腕を持った女神の姿が、チャンドラのイメージだったのです。「今日の世界で女性として生きるには、たくさんの腕が要る、たくさんのエネルギーが要る」。これ(写真No.9)が『Sri』の最後の場面です。

作品Sriの写真4
写真No.9Sri』(1991)写真:Dashrath Patel

『Sri』は、おおむね1990年代に上演していましたが、ある意味…もっと先に触れておけばよかったのですが、この場では違う話題をと思っていたものですから、しかし、チャンドラが作り、上演する作品はかなりの程度、ゲーテ・インスティトゥートの支援によって可能になっていたという点です。これは非難しているわけでも、帝国主義的介入の話をしようとしているわけでもありませんが、その時代から50年経った今でも、現代舞踊のための場や支援の多くがゲーテ・インスティトゥートによって提供されていることは皮肉に思えます。そこには固有の力関係が働いており、プラスの面もマイナスの面もあるわけですが、今この話を持ち出したのは次にこの1994年の作品『Yantra』に話を移したかったからです。これはある意味でピナ・バウシュへのオマージュでした。ゲーテ・インスティトゥートが、ピナ・バウシュの1994年のインド・ツアーを記念する作品を作ってほしいと委嘱してきたのです。ピナ・バウシュが作品『カーネーション』を上演して廻る都市をつなげたフェスティバルを開きたいというもので、チャンドラレーカーの舞踊団は『Yantra』を上演することになりました。これ(写真No.10)はその作品を写したものです。少し注釈を加えるなら、チャンドラ自身はやがて、インドで作る作品に対してヨーロッパからの資金提供や介入がなされることの意味に疑問を抱き始めたように思います。1990年代半ば、私自身が創作を始めた時、ヨーロッパから資金を得ることをよく止められました。この話を彼女としたことを時々思い返します…。

作品Yantraの写真
写真No.10Yantra』(1994)写真:Sadanand Menon

この世代のドイツの振付家たちとは、興味深い対話、相互への刺激、思考がたくさん生まれました。ピナ・バウシュはもちろんですが、他にももっと重要な舞踊家たちがいて、スザンネ・リンケなどはチャンドラの親友で、よく彼女の劇場へやって来て一緒に稽古をしたものです。型やテクニックを共有するのではなく、もっと寛容で開かれた、互いの身体的な感覚を使って遊ぶのに近いようなことをしました。私自身は若い踊り手でしたが、こうして異なる知識体系が相互作用し、対話が可能なのだということを目の当たりにしたことで色々な世界が開かれたように思います。こうした対話は、所有とか盗用とかいった問題ではなく、ただ本当の意味で開かれた場所でした。とても貴重な学びの時間だったと思います。つまりこの空間での10年間の活動経験はどんな舞踊アカデミーにも代えがたい学びでした。身体、舞踊、美学、倫理、政治が織り合わされることで、私自身が振付を考えていく理想的な出発点が生まれていたのです。

作品Ragaの写真1
写真No.11Raga』(1998)写真:Sadanand Menon

これ(写真No.11)は『Raga』(1998年)の写真です。チャンドラの最後期の作品で、インドの思想的伝統として既に先ほど見た相互接続性とは逆に、ある種の言葉による弁別についてまた深く考え始めていました。「ジェンダーに関わるこうした言葉の意味するところは何か?」「女性性とは何か?」「男性の身体において女性的なものを探ることにはどんな意味があるだろうか?」「古来の身体マッサージに内在するこの官能性はいったい何なのだろうか?」。チャンドラはいつも、遊び心をもって、しかし臆せず物事を探求しました。「そう、これが舞踊で、これは舞踊じゃない」などという風には決して考えません。彼女にとっては何でも舞踊になり得るのです。勇気をもってある種のリスクを冒していたと思います。

作品Ragaの写真2
写真No.12Raga』(1998)写真:Dashrath Patel

これ(写真No.12)も『Raga』からです。2人の男性武術家に出てもらっており、マッサージの技法を再構成したものといっていいでしょう。しかし彼女にとっては非常に明確でした。同性愛とは全く関係ありません。けれどもチャンドラが愉快なのは、性やジェンダーをめぐる彼女独自の先進的な思考から出てくる考えにはいつも非常にナイーヴな部分があるのですね。この作品がニューヨークのブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージックで上演された時、現地の批評家たちは作品の中に同性愛のエロティックなイメージを認めて、やんわりと言及するのですが、それ以上のものを全く読み取ってはいませんでした。すると彼女は驚いてこう言うのです。「いつになったらここを超えられるのだろう?いつになったら男性と女性という凝り固まった考えの向こうに進めるのだろう?」。時代がまだ追いついていなかったのだと思います。

作品Slokaの写真
写真No.13Sloka』(1999)写真:Sadanand menon

さて、締め括りが自分の写真(写真No.13)ですみませんが、『Sloka』(1999年)の時の私です。これは私がチャンドラのもとで関わった最後の作品で、やがて『Sharira』(2001年)として完成しました。この時点では、チャンドラは70代前半、私は30歳でした。最初の子どもが生まれたばかりの頃です。チャンドラの活動に痛手だったのは、年を追うごとに、彼女のところへ集まる踊り手が減って行ったことです。これも『Angika』の写真ですが、当時、舞踊団には16人いました。ところが『Sharira』の時には、主に私と、後から武術家のシャジ・ジョンが加わるだけだったのです。彼女はインドの舞踊界、保守層、文化官僚に向けてよく言っていました。「あなた方がどうあろうと関係なく、私は私だ」。最晩年にはこう言っていました。「踊り手が一人いれば十分だ。私は踊りを作る」。

この作品に取り組んでいた頃の思い出ですが、晩年を迎えた彼女がよく口にしていた言葉です。「意味のことは気にしなくていい。意味はついてくる」。こんな風に、ほとんど直観に従うようにして創作をしていたのです。ある時点で、意味はもはやどうでもいいのだということが理解できました。踊る身体と観客の間のエネルギーの交流だけで良かったのです。これを悟ったことで彼女も大いに解放されたと思います。