思考する身体――パドミニ・チェターレクチャー

Lecture / Asia Hundreds

『Beautiful Things』以降の創作

作品Beautiful Thing 1の写真
写真No.pc4Beautiful Thing 1』(2009)写真:Jirka Jansch

『Beautiful Thing 1』(2009年)は6人の踊り手による作品です。これは私にとって楽しい作業でした。全員が、意味や政治やイメージといった荷物を手放したからです。脳裏にはチャンドラの「意味は後からついてくる」という言葉が浮かんでいました。純粋に構造的な作品の創作に戻る贅沢を自分に許したのです。この作品でやりたかったことの一つは、踊り手が舞台上で別の誰かを代理=表象するという考え方を壊すことでした。そこで踊り手たちが自分自身について語るテクストを作品中に取り入れました。ごく簡単なテクストで、観客に自己紹介するような内容です。何年もの間、踊り手たちとツアーをしていて気付いたのですが、諸外国の人々はよく、インド人の踊り手は何やら特殊な人々で、宗教的な暮らしを営んでいるものと思っているのです。ですから私は、踊り手たちからそうした超人的なイメージを引き剝がし、あくまで普通の存在として示そうとしました。これが『Beautiful Thing 1』で検討したことの一つですが、ご覧の通り複雑な作品で、よく仕上がってはいるものの、これ以降、私の作品には寛容さが欠如していると言われるようにもなりました。私はただ舞踊を見る観客の期待通りにはしなかっただけです。それでプレゼンターからはよく「私は好きだけど、観客は耐えられないだろう」と言われました!

『Beautiful Thing 1』の後ですが、ブリュッセルに拠点を置くマネージャーと仕事を始めたばかりだった(ヨーロッパではもっと実際的に名前を売るべき、との友人の薦めでした)にも関わらず、招へいが減り始めました。舞踊団を維持することができなかったので、あらゆることを検討した結果、ソロ作品の創作に戻ることにしました。そうして、『Beautiful Thing 2』 (2011年) が生まれることになります。ベルギー人のマネージャーは、私の作品は売れない、ソロには誰も興味がない、と言ってこの時点で去りました!

『Beautiful Thing 1』から『Beautiful Thing 2』までの期間、パドミニ・チェターをヨーロッパのフェスティバル文化の文脈から救出し、アジアに呼び戻そうとする案が浮上していました。そこで『Beautiful Thing 2』を携え、ご存知の方もいると思いますが、タン・フクエンというプロデューサーとの仕事を始めたわけです。彼の固い信念によれば、私が新しい活動の段階に入るためには完全にアジア的な共同制作を、再び西洋世界で、しかし異なった視点で展開すべきだというのです。2011年のシンガポール・アーツ・フェスティバルで、大劇場を使って初演した『Beautiful Thing 2』は、舞台上で9つの線を描くというごく単純な構成です。私の問題意識もまたごく単純で、「空間の中を身体が移動し、異なる場所を刻々と占有していくとはどういうことなのだろうか? 空間内で線を描いて移動していく際に、ある一定の質感を生み出すには、動きの全体をどのように細かく分節していけばよいか?」といったものでした。

この作品に取り組み始めた頃、大きな舞台と小さな舞台のどちらを選ぶか話し合いました。そしてもちろん、私は空間というものに、とりわけ可能性の豊かな空間というものに強い関心がありますので、大きな舞台を使えるのはとても魅力的な選択肢でした。私は大きな舞台を使うことに決め、またそれは照明デザイナーにも非常に豊かな自由をもたらしました。シンガポール・アーツ・フェスティバルは当時、「スペクタクル」が必要だとはっきり打ち出していました。私たちはそれをやったわけです。私たちは大がかりなスペクタクルを作り出したのですが、結果として、まったく文脈から外れた、作品の政治性とも矛盾した、非常に耐え難いものになってしまいました。当然のごとく、困惑した観客にも、当てにしていた無数のフェスティバル・プレゼンターたちにも、大変不評だったのです! これでフクエンからも見放されました。後で彼は、私の作品はどんどん難解になっていると言っていました…それでも私は、それがアーティストの役目だとナイーヴに考えていたのです!

この時、私は作品をパッケージとして作り上げることについて深く考えるようになりました。誰のために、そしてなぜ、こうした制作活動を続けているのか? そしてそのことは実際どのように…どのように、作品の芸術的必然性と関わっているのか? 他方で財政面についても考えねばなりませんでした。この間にずっと明白になってきたことですが、私が活動を続けているのは過剰に膨れ上がった経済の内部においてであり、それはまずヨーロッパに支えられていましたが、それが今になってようやく(!)アジアで、同様の資本主義に置き換わったわけです。もっと自分の内側を見つめ、最初からやり直さねばならない、作品から虚飾を全部はぎ取っていかねばならない、と思うようになりました。

作品Beautiful Thing 2の写真
写真No.pc5Beautiful Thing 2』(2011)写真:SAF

『Beautiful Thing 2』に対する一般的な反応は、「もうたくさんだ。ラディカル過ぎる。スロー過ぎる。長過ぎる」というものでした。「難解過ぎて見ていられない」。他によく聞かれるコメントとしては、「これはダンスなんてものじゃない」。おそらく私の作品はむしろ美術の部類に入るのでしょう。なぜなら私の上演は、主張として行われているのであって、何ら解決を示すわけでもなければ、最後にクライマックスがあるわけでもないからです。観客が座席の上に立ち上がってしまうような興奮も生じません。そういうものとは無縁なのです。上演はある一定の仕方で枠付けられています。とはいえ文脈が違っていたら、作品の素材をもっと違う形で示せたかも知れません。つまり「舞台芸術」のマーケットからの厄介な期待がより少ない場であったら、ということです。

作品についての批評に耳を傾けつつ——初演以来、この作品を招へいしようなどという人は誰もおらず、仕事がなくなってしまったのも理由ですが——私は数年間、上演芸術よりももっと物質的な作品を作ることについて深く考えました。そしてギャラリーや美術館で働く人々による、キュレーションの世界に足を踏み入れました。

最初に試みたのは、『Beautiful Thing 2』の再演でした(ムンバイのクラーク・ハウス・イニシアティブの招へいによる)。ところが会場はかつて繊維工場だった建物で、使えたのはわずか6本の蛍光灯と土の床でしたから、照明デザイナーのヤンには気の毒でした。作品は5時間の展示として構成され、動きと言葉の間を境目なく行き来しました。この形態は作品に見事にはまり、これまでとは全く異なる創作活動の始まりとなりました。「もう誰とも共同制作などしたくない」と自分に言いました。今でもそれは変わりません。自分の作品は自分でプロデュースしたいのです。

私の創作の次の段階は、再び上演の方に向かっていきます。おそらくここにいる皆さんの多くがご覧になった通りです(『哲学的実演1&2』)。今朝、ヤン・マールテンスと話していると彼がこう言いました。「どうして美術館でダンスなんだ? どうしてギャラリーで踊るんだ?」。個人的には、上演時間の長さや観客の出入りのことを考えた場合の自由度の高さがあると思います。これを念頭に置いて、美術館やギャラリーで上演する3時間の作品『Wall Dancing』を作りました。色々な意味で、これは私の作品の長さと動きの遅さが耐え難いという批評への応答でした。つまり観客は退屈したら途中で出て行けるわけですし、同時に、私は3時間をかけて思うさま空間に深く分け入ることができました。始まりも終わりも不明瞭になって、むしろ何か果てしない時間の感覚へと変容し、その中で、イメージと実演の狭間にある、また演者とモノの狭間にある、身体の位置というものと改めて向き合うのです。5分ごとに新しいチャプターが始まっては終わるので、そこで観客はさらに見続けるか、立ち去るかを決めることができ、あるいは場所を移動して違う角度から見ることもできます。そして3時間の終わりに近くなってくると、作品の極端な遅さが、居残っている人々のくつろいだ体に入り込んでくるのです! 作品には価格表も付いていて、振付の一部を購入することができます。なぜか買う人は一人もいませんでしたが。しかし私が指摘したかったのは、美術の経済と上演芸術の経済のギャップでした。入場料を取ることをギャラリーに納得してもらうのには苦労しましたが、私たちは彫刻家や画家とは違った経済の論理で生きているわけです。突き詰めれば、皮肉なのは私たちが「価格表」を持っていないことなのです!

作品Wall Dancingの写真
写真No.pc6Wall Dancing』(2012)写真:SAF

そろそろ終わろうと思いますが、この後もさらに美術の文脈で、映像作品を作ったり、美術館のキュレーターと協力するなどして活動を続け、同時に上演作品も作っています。委嘱を受けることもありますが、一緒に仕事をする相手はとても慎重に選びますし、意外な場所でラディカルな発想への寛容さ、余裕に遭遇し、そこではキュレーターが自分の研究に何年も取り組んでいて、私が応じられないような期待を押し付けてくることなどはありません。今日ここで、作品の枠組を構築したりプロデュースしたりすることに関してお話ししたことはどれも、ある一つの問題に関わっていることをお伝えして簡単に締め括りたいと思います。すなわちパドミニ・チェターの、振付の形をとった主張はいつも挑戦的であって、それは不出来だからとか、厳密さや正統性を欠いているからとかではなく、安易に箱詰めされて売買されることを拒むがゆえなのです。何の系譜にも属していませんし、オリエンタリズムの規則に沿ったものでもありません。防御の固いコンセプチュアルな空間に堂々と踏み込んでいくので、傍からは「西洋人」と見なされるかもしれませんが、それでも「インド人」がもつ美学的特殊性に深く根差しているのです。この問題はどうすれば解決できるのでしょう? 思うに結局これは、理解しやすくない作品を作るアーティストという存在のジレンマなのでしょう。日頃よく考えていることが今日のレクチャーを通してまたはっきりしてきたのですが、つまり美学的な判断にしても、空間の選択にしても、どれほど市場の力が、さまざまな形で芸術活動を左右しているかということです。しかも対等な交渉が成立していないこともよくあります。むしろ大抵は一方的です。私が学んだのは、常に疑問を投げかけ、成功を疑うことでした。自分たちの作品がグローバルなアートの鍋に放り込まれる時、いったい何が損なわれているのでしょう? 誰の操り人形になっているのでしょう? 魔法の絨毯はいつでも足の下からするりと引き抜かれてしまうと知ることです。そしてただ立っているのではなく、踊り続けるべきです。

最後に、皆さんの中には、なぜ今こういうレクチャーなのかと思っている方もいるでしょう。部分的には歴史、それも世界に打って出ようとしている若いダンサーには相応しくない歴史のお話だったかも知れません! しかし他方でこれはまさに、生存戦略と節操についての少々シニカルなお話でもありました。最近インドで教えていると、歴史が軽視されていて驚かされます。「過去の重荷」を避ける現代的なやり方なのでしょうが、私たちはおそらく過去を振り返るのとは違う新たな参照項を必要としています。皮肉なことですが、昔の話から目をそらしていると、同じことを繰り返す危険を避けられません。インドを例にとれば、バラタナーティヤムの若い踊り手たちは、それが50年も前に、実質的かつ根本的に作り上げられたものだと理解しないまま、「現代的」な処理を加えられないかと思案しているのです。広く見渡すと、アジアの振付家たちはとても危なっかしい綱渡りをしていて、片側ではネオ・オリエンタリズムの罠が、反対側では「オリジナリティの欠如」が待ち受けています。私たちは自分にまとわりつくこうした大きな政治的状況をどれだけ意識しているでしょう? どれだけ共犯関係にあるのでしょう? 「王様は裸だ」と誰も言わないなら、どうやって気付けばいいのでしょう?

【付属テキスト】

「パドミニ・チェターに聞く——身体による攪乱」ヘリー・ミナルティ


翻訳:武藤大祐