ウティット・ヘーマムーン――ひとりの物語から、拡張する芸術へ

Interview / Asia Hundreds


ASIA HUNDREDS(アジア・ハンドレッズ)」は、国際交流基金アジアセンターの文化事業に参画するアーティストなどのプロフェッショナルを、インタビューや講演会を通して紹介するシリーズです。 文化・芸術のキーパーソンたちのことばを日英両言語で発信し、アジアの「いま」をアーカイブすることで、アジア域内における文化交流の更なる活性化を目指しています。

作家としての出発点:美術、映画、そして小説へ

福冨渉(以下、福冨):タイにおいては、「ウティット・ヘーマムーン」が現代文学を代表する作家であるということに異を唱える人はあまりいないと思います。一方日本では、ウティット・ヘーマムーンという名前の作家に興味を持つ人がいても、日本語はおろか英語すら、きちんとまとめられた情報がありません。今日のインタビューは、日本向けの「手引き」といった側面も含めて、あなた自身のことを聞こうと思います。
どういう経歴と動機から、作家という仕事を選んだのか。これまでの作品、いま取り組んでいる作品、現在考えていること、あるいはこれからどんな作品を書きたいと考えているか。過去、現在、未来とすべて聞ければと思います。
そもそもいつ頃から文章を書くことに興味を持っていたのですか?

ウティット・ヘーマムーン(以下、ウティット):子どもの頃は、絵を描くことの方に興味がありました。小学校4年生くらいからですかね。宿題用のノートに落書きをして、宿題にはちっとも手をつけませんでした(笑)。よく怒られていました。小学校5、6年に上がる頃に、郡の絵画コンテストの学校代表になって、奨励賞かなにかをもらいました。
中学の頃には、絵を描きたいとはっきり意識していました。美術の成績だけはとても良かった。それで、美術の授業も選択できる、工業芸術コースというようなところを選びました。エンジニアとしての基礎を学びつつ、美術も学びました。美術の成績はどんどん良くなって、今度は県の絵画コンテストに作品が出品されました(笑)。その頃には、芸術を学ぶんだと確信していました。
実家の方には芸術を学べるところがなかったので、中学を卒業して、東北地方のコーラートにある職業高校に進みました。そこで3年間、芸術を専攻しました。職業系の高校を出ると、次は高等専門課程に進学して、もう2年勉強するという選択肢があります。さもなければ、大学に進学ですね。高校の先生が、「ウティットはもっと行けるはずだよ」と言ってくれました。大学に進学した方がいいと。コーラートで職業高校を出て、陶芸の工房やギャラリーで働く人は多くいました。でも、それだけだったのです。だから、シラパーコーン大学*1 を受験しました。
最初の年は落ちました(笑)。それで元の学校に戻って、ひとまず高等専門課程に上がりました。翌年、シラパーコーン大学の絵画学部を受験して、今度は合格しました。そこで高等専門学校を退学して、大学に入学しました。それが多分1994年のことだと思います。
シラパーコーンは5年制の課程でした。5年のあいだ、大学で学ぶ以外にも、アルバイトをしていました。広告の撮影にアシスタントで入って、小道具を作ったりして。その収入で生活することができました。

*1 タイ最高峰の国立芸術大学。

福冨:実家から仕送りはもらわなかった?

ウティット:ぼくの家族はそこまで裕福ではありませんでした。そもそも、ぼくが芸術を学ぶことについて、実家では不満に思っていました。職業高校に進もうとしたときも、父と口論になりました。父はぼくに、エンジニアになってほしかったのですね。とはいえ高校の頃は、母がこっそり仕送りをしてくれました。
だけどシラパーコーンに入学してからは、その必要はなくなりました。ぼくも自分の収入があったし、大学の校舎に住み込んで、そこで食事も寝泊まりもしていたし。シラパーコーンは第2の家とも言えます。同じ学部の学生がそこで集団生活をしていました。作品を大学に置いておいて、そこで生活して、昼だろうが夜だろうが、そこで作業をしてしまった。その時期の政策で、教育融資基金というものが設立されました。それに応募して、政府からの奨学金を借りました。それで生活費と学費を賄うことができました。
その時はまだ、執筆ということを真剣に考えてはいませんでしたが、職業高校の頃、15歳の頃から、本を読むようになりました。重めの純文学を。ドストエフスキーとか、マルケスの『百年の孤独』とかを買って、読んでいました。

インタビューの様子の写真

福冨:家族が読書好きだった?

ウティット:関係ありません。家族は本を読まなかった(笑)。読書も、芸術の創作とつながっていたのです。詩を読んだり、芸術家の生涯について学んでみたり、そういうことですね。その頃に日記を書くようにもなりました。独り言のような詩も。
職業高校の頃、校舎の中にいくつか掲示板があって、ぼく専用の掲示板もありました。詩を書いてそこに貼り付けて、自分で挿絵も描いて貼りました。そこを他の学生が通って、立ち止まって読んでいた。そこが、なにかを書いて表現するということの出発点でしたね。
視覚芸術から解放されたのは、大学の卒業制作の時期でした。その頃は、インスタレーションの作品を作って、芸術の境界や可能性について問いを発していました。二次元、三次元的な空間に存在するだけではない芸術作品にはどんな可能性があるのか、ということを考えていました。思想そのものを対象とどう接続させるか、とか。当時のぼくは思想的な事柄ばかりに興味を持っていて、コンセプチュアルな作品をたくさん作っていました。自分の思想を表現するための形式をはっきりと見つけられていなかったのです。絵画ではない、ということはわかった。インスタレーションやビデオアートはその問題に応えてくれましたが、ぼくは貧乏でした(笑)。
こういった作品は、自分の思想や想像力の受け皿として使うためには、莫大な資金を必要とする。貧乏なのに、大仰なものが作りたい。創作を続けるために、まずお金を稼ぐ必要があった。そこで、あるタイ映画の制作現場に、芸術監督として参加して、お金を貯めました。戻ってきてから卒業制作を完成させて、卒業しました。
その頃は映画に興味がありました。自分の映画も作りたかった。助成金の申請で、映画会社とか、アリアンス・フランセーズみたいな文化交流団体に、自分の書いた脚本を送りもしました。
真剣に執筆を始めたのはこの時期です。ぼくは自分の物語を元にした映画を作りたかった。そうすると脚本を、物語を書かなければいけない。その前にも、雑誌に映画批評のコラムを書いていました。おそらくそれが、執筆からお金を得た最初のものじゃないかな。

インタビューに答えるウティット氏の写真

福冨:その時期は、映画館で映画を観ていたのですか?

ウティット:アリアンス・フランセーズ、ゲーテ・インスティトゥート、国際交流基金など、文化交流団体のイベントで観ていた方が多かったです。その頃にdk filmhouse(filmvirus)のソンタヤー・サップイェンさんとも知り合いました*2 。彼らが上映イベントをしているところで映画を観て、みんなで大騒ぎして。アピチャッポンさんにも会いました。『真昼の不思議な物体』(2000)の撮影チームを探していました。全員がキャリアの駆け出しの頃でした。
芸術作品を創作したいというぼくの欲求は、だんだんと大きなものになっていました。それが常に、自分の持っていた予算を越えてしまっていた。映画となると、もう100万バーツとかいう単位になってしまう。そんなものを実現できるわけがないんです。その時期が、99年か2000年くらいです。卒業して、奨学金も止まって、すかんぴんでした。家賃も4~5ヶ月滞納していました(笑)。
芸術を続けて、自分の欲求に到達するにはどうすればいいのかと、考え込んでいました。実現しそうなようすが全くない。もしかしたら異なる生き方を選ばなければいけないかもしれない。当時はすごく悲しかったです。
あまりに悲しくて、それをノートに吐き出して記録するようになりました。そこから物語を書くようになり、それを雑誌に送ってみました。送ってみたら、うわ、載ったぜ!という(笑)。それが自信になって、そこから短編を書くようになりました。送ったところには全部掲載されて、そこから自信がついていった。
創作に対する欲求が実現不可能な大きさになっていたところで、ペンを持って物語を書くという行為によって、かえって自分を近くで見つめることになったのです。遠くの方を眺めて、あれもこれもやりたいと思っていたのに、ふと下を見ると、鉛筆やペンを握って物語を書いている自分がいる。書くという行為は、15歳の時からもう何年もぼくと共にあったのです。そこで気がついたのは、書くことで、どんなことでも伝えることができる、ということでした。ここにある短いメモを、インスタレーションとか、映画に変化させる必要はない。書くというプロセスだけで完結するのです。
芸術を通じて語りたいと思っていたものは、時間を通して連続している感情のありさまでした。絵画ではそれを伝えることができない。映画では、時間の流動性を伝えることができます。本を書くことでも、また異なる方法でそれが可能でした。100万単位ものお金を使う必要もなく、1本のペンと1冊のノートがあればよかった。それだけで、紙の上に大きなものを創り出すことができます。これが、創作の欲求を表現するために、執筆という手段を使うようになった出発点です。

*2 1995年頃に設立した、映画上映団体兼出版社。タイで上映機会の少ない映画の上映会を開催していた。ソンタヤー・サップイェンはその代表で、現代タイの代表的な映画批評家のひとり。

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小説における「父」