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ウティット・ヘーマムーン――ひとりの物語から、拡張する芸術へ

Interview / Asia Hundreds

現代の政治と性:欲望を描くこと

福冨:2017年に発表したばかりの最新長編『欲望の輪郭』(仮邦題)では、ケンコーイという場所から離れていきましたね。2016年のバンコクに暮らす一人の芸術家が体験した過去三度の政治的混乱と、彼がその都度誰かと結ぶ性愛の関係が重なって語られています。それは意図的なものでしたか?

ウティット:「もういいや」と思ったんです(笑)。『転生』では伝説や歴史、事実を新たに作り出した。そこで終わっておくべきだろうと思って、別の物語、別の土地の方を向くことにしました。それがバンコク、つまり、近距離にある、現代の歴史の空間です。これまでは、遠距離にある歴史の空間について語っていました。今回はそれが近くなった。それが、現代の歴史、特に政治的な歴史が生まれた、実際のバンコクの土地に重なります。ぼくたちは、その歴史と時代を共有してきました。これまでは、祖先の歴史を理解しようとしていた。だから今回は、自分自身の歴史と向き合い、それを理解しようとしました。

福冨:これまで、自分自身の歴史と向き合っているとは感じていなかったのですか?自分の話を中心にして書いていたにも拘わらず?

ウティット:今回は、焦点がもっと近距離の歴史に置かれたということです。現代のタイで起きている出来事は、何を語ろうとしてもナイーヴになって、脆さをはらむものばかりです。まだ「現代」から解き放たれておらず、遠距離の歴史の中に含まれていません。2006年にクーデターがあり、2010年に多くの人が命を落とす事変があり、2014年にもクーデターがあった。とても近く、ぼくたちに息を吐きかけている近距離の歴史です、まだその歴史の残した結末が連続している歴史、絶対的な浄化という絨毯の下に潜んでいる対立の歴史です。
こういったものは、『追憶の形象』とは違います。あの作品は、王室の右筆が記録した国王の年代記など、史料を元にしていました。上流階級や王が自らの勝利の歴史を記録していた時代には、敗者は声を持ちえなかったのです。
『欲望の輪郭』のコンセプトも同じです。敗者はいつも消去され、捨てられて、勝者、現代の統治者によって歴史が書かれる。だけど今回は、それが近距離にあって、ぼくたちと時代を共有している。だからぼくたちが、この国を支配する大きな声に抵抗する、小さな声となることができます。失い、傷つくことを余儀なくされた小さな人々も歴史を持ちます。この作品はそういった声を代弁するものでもあるし、権力によって歴史の舞台から追い落とされてしまった、記録されえない小さな命の記録でもあります。

インタビューに答えるウティット氏の写真

福冨:あなた自身がさまざまな政治的出来事に直面してきた故に、それを小説の形にして残そうとしたということですか?

ウティット:本当は、もともとぼくが持っていた思想から発展したものです。これまでの作品では、人が人を支配するその形式を見つめてきました。それまで描いた父親像もそうです。個人としての父について述べましたが、その形式が展開して、市民として生きる人々を縛る支配権力に姿を変える。だから、同じ思考の枠組みなのでしょう。
ただこれらは、ぼくたちの時代に起きた出来事です。王や権力者の年代記を読むよりも、多くの側面からその時代を見ることができます。新聞、ソーシャルメディア、テレビ、友人の言葉から。状況と出来事を整理して、それを取り囲んであらゆる方向から眺めることができます。すべての素材は、ぼくたち自身が実際に、さまざまな側面から目にしたものであり、よりぼくたちに近いのです。ぼくたちの時代に起きたのだから、ぼくたちに大きな影響を与えるし、ぼくたちはそこに共感を覚えることになります。

福冨:『欲望の輪郭』では、主人公と他の登場人物が持つ性的な関係、アダルトビデオの歴史など、性的なものごとについても多く語られていますよね。その中で人間の身体や、さまざまな身振りや姿勢についての細かな描写がなされています。ただ、今までの話を聞いた限り、性的なテーマは副次的なもののようにも思えますが?

ウティット:人間の恋愛やその関係は、あらゆる人の感情的な基礎ですよね。だから、愛とか惑溺とかそういったものの表現として生まれる、もう一つの営みを否定することはできない。それが性です。それも、愛や充足というものの一つの身振りです。そういった身振りは、ぼくたちにその形式や身体の中身を見せてくれます。性的な行為における身振り、姿勢、反応といったものは、何らかの慣習的なもの、伝統的なもの、あるいは文化を伝えてくれます。
政治社会のことも、性的なことも、どちらも、歴史において長く存在してきました。しかし現代では、性的なものごとが、下品で不潔なものだと見なされます。女陰が豊穣を意味して、男根が善美の源泉であり、神聖なものであった時代もあったというのに。それが近代に至って汚らしいもの、禁じられたもの、検閲の対象に変えられてしまった。
一方で、社会の人々を統制する規律や習慣が、人々を脅しつけ強制するような身振りや姿勢をとるということは幾度もありました。それは、性行為のときの身振りと変わりがないと思い、その二つのイメージを併置したのです。それらが差異を持たない身振りであり、互いにオーバーラップしているということを示そうとしました。
『転生』の第1章で世界の誕生について書かれた場面があります。大地が揺れて火山から溶岩が吹き出し、地の割れ目から水が溢れ出し、それが海になりますね。そして海面が波打つ。もちろんそれは世界の地理が生まれるようすを描いているのですが、それがすべて性行為を思わせる語彙で叙述されている。まるでその瞬間に世界が交わっているかのような言葉を使っています。
『欲望の輪郭』では、そういったことが再び起きます。性的なニュアンス、性行為を思わせる言葉を使って、現代の政治と歴史を描写しているのです。

福冨:そこで比較されている二つのイメージというのが、どちらも人間の原初的な欲望だということでしょうか?だからこそ、身振りや姿勢だけでない部分まで、それらを重ね合わせることができる?

ウティット:統治者や支配者も、規則やルールを定めるという意味において、その支配下にある人間に対して欲望を持っています。彼らは飴と鞭を使い分ける。機嫌を取り、愛を示し、こちらに夢中にさせて、敬愛すべき対象としての自身の姿という幻覚を見せる。それから近づいて、関係を持ち、結びつきと愛欲を生む。そういった方法は、個人としての人間たちが持つ関係であれ、国家統治における政府と市民の関係であれ、同じ形をしています。
誰かを口説こうと思ったら、良い恰好をして、もう一方がこちらに感銘を受けるようなアピールをしなくてはいけない。選挙に出馬する政治家も、人々の心目を欺く政策を提示しなければいけない。こちらに恋に落ちてもらって、投票用紙に印をつけてもらい、選挙に勝利する。
そこで働いているのは、同じ推進力、すなわち、結びつき、欲望する感情です。そしてそれが、性行為に至る。ここでいう性行為というのは、実際の裸体同士で交わるという意味でもあり、政治的、政策的、プロパガンダ的にむき出しの状態で、互いの欲求や性欲を生むために機嫌を取ったり、刺激を与えたりするという意味もあります。互いの利益が共通しているから、関係を持つ。ぼくはそういう風に見ているのです。
その意味で、この小説は、なぜそういったものが猥褻なのか?と問い返す形にもなっています。権力が人を管理し支配するのに用いる伝統的、文化的、慣習的な理想は、人々に乱暴をはたらいていることにはならないのか?それが「美しき伝統」だとか「国家の安寧」という言葉に基づいて現れるという理由だけで、猥褻ではなくなる?そういう言葉を使っているという理由だけで、市民と関係を持とうという欲望を示しているということにはならない?結局それも、市民とまぐわっているのと変わりないのに。
だからこの小説は、政府や権力者の使う美しい言葉、理想、慣習は、人々を欺き、飴を与えて、あとから彼らを犯すためのものなのだ、ということを伝えています。そういう物事にまっすぐ、真摯に向き合わなければいけない、こういったものに、ぼくたちは犯されているのだ、ということを示したかったのです。ぼくたちにも、支配者に対して何か行動を起こしたり、そういったものを拒否したりする交渉の力や権利があるということを知っておかなければならない。現代の状況というのは、権力がぼくたちをどのように、どんな体位で犯してもいい、というような状況なのです。政府の欲望というものが非常に猥褻であるにも関わらず、その猥褻さは隠蔽されます。

写真
『欲望の輪郭(仮)』カバー

福冨:この『欲望の輪郭』には、さまざまな派生プロジェクトがありますね。まず、主人公であるカオシンが描いたという設定の、あなたが描いた絵画の展覧会があります。それから文中に少しずつ挿入されていく特殊なフォントがありますね。あなたが人間の身体の形を元にしてフォントをデザインし、そこから新しいフォントを開発した。さらに日本の演劇作家、岡田利規さんとコラボレーションする、演劇化のプロジェクトも進行している。
金沢21世紀美術館で開催された岡田利規さんとあなたのトーク、「国民国家と芸術‐タイについて考える」を聴きました。そこで、演劇化プロジェクトの話もされていました。聴衆からのコメントに次のようなものがありましたね。ウティットさんの話していることはタイという空間に極めて限定されているが、岡田さんの語っていることはもう一つ別のレイヤーにあるのではないか、というものです。あなたがこの小説で描写しようとしているのは、タイの国民国家性かもしれないし、その地理的身体かもしれないし、その国の支配者の欲望かもしれないし、あるいはそこに住む人々の欲望かもしれない。しかし岡田さんの目指しているところは、そもそもそういった国家間の領域というようなものを脱構築するところにあるのかもしれない。
ここでお聞きしたいのは、あなたがその欲望を描写し終わったあとに、どこを目指しているのか、ということです。つまりこの作品を書いたのは、ただ現代のタイという限定された空間で起きている出来事を読者に伝えるためだったのか、どうか。

ウティット:この作品は、極めて強い暴力を内包しているようにも、政治的、性的なことを含んだ危険な小説であるように見えます。
ただ忘れるべきではないのは、これまでのぼくの小説で常に鍵となってきたものは、芸術家の芸術的表現の問題だったということ、頭の中にあることを、創造的な方法でどのように表現して伝えるかということでした。先ほど語った、卒業制作の問題につながりますね。その時の疑問が現在でもぼくの中に残り続けているのです。
たとえば『転生』では、異なる五つの語りの声を用いて、さまざまな文芸ジャンルや方法論への理解を深めようとしました。年代記的なもの、ロマンス小説的なもの、探偵小説的なもの、メタフィクション的なものなどを。こういったものが、自らの能力と理解を推進して、新たな空間や、より拡大した創造的表現に向かわせてくれるものでした。
『欲望の輪郭』もそうですね。この作品は、夢を現実のものにする作品でした。卒業制作の頃には、まだ不可能でした。芸術的領域はどこまで、どうやって拡張できるのかということが、ずっと心にありました。だからこそ『欲望の輪郭』は、一人の芸術家が、自らの芸術的活動の中で問題に突き当たるという作品になりました。政治的な物語というのは、実際のところ、この作品における副次的な空間に過ぎないのかもしれません。主たる空間というのは、一人の人間と、彼の経験と愛、それがどう変化し、どう展開するかということ、その喪失や傷がどのように芸術的形式に変化していくかということなのです。
その意味では、この作品は別に危険なものでも、政治的に過激なものでもありません。芸術家とその物語を通して、芸術的領域に問いを立て、それを拡張していく作品です。『欲望の輪郭』は、自分が24歳とか25歳の時にできなかったことを、そこに書き加えているのですね。

福冨:だからこそ、文学としての作品テクストだけではなく、絵画や演劇といった領域にまで作品を拡張させていった?

ウティット:『転生』を終えて、この作品に移るまでの間、もう一度絵を描きたいという欲求が生まれました。絵も描きたいし、小説も描きたい、ただの挿絵という形にせずに、どうしたらそれらを融合させることができるだろうか?そこで、登場人物による絵画の展覧会を開催してしまおう、となりました。あるいは、フォントを自らデザインしてそれをテクストに忍ばせることで、読者に「なぜこの語がこのフォントなのか」ということを考える余地を与えます。小説の中に意味を忍ばせることもできます。こういったものが、自分のできることの範囲なのです。ぼくは絵も描けるし、本も書ける。フォントのデザインも一応絵画の範疇ですものね。もちろん、フォントのデザイナーにそれを発展させてもらいましたが。
これらはすべて、芸術の境界を拡張して、その理解を深めていく行為でした。卒業制作では、大きなコンセプトを実現させることができなかった。それが今回は可能になって、いま考えられる上でできることはやれました。
現代ではあらゆる芸術領域の境界が曖昧になり、接続していますよね。ただそれらが、「芸術」という言葉の下にまとめられているだけで、何も明確なものはないわけです。だからぼくもそういったことをしようと思いました。
岡田利規さんと出会った時に、ぼくの今取り組んでいることについて話しました。岡田さんはそれを演劇にしたいと言ってくれた。その提案は、大学時代から現在まで続いていたぼくの思考のど真ん中に、ぴたりとはまったのです。演劇はぼくの力では作れません。そこに岡田さんが現れた。「おい、これだ!」。
さまざまな形式にどんどん発展していきます。小説から、芸術作品に、演劇に。もしかしたらそのうち音楽にも、映画にだってなるかもしれない。あるいはそれを見た建築家が何かをアイディアに取り入れるかもしれない。そうやってどんどん自らを拡張していく。だから、この話をもらったときはとても嬉しかったし、喜んでコラボレーションしようと思ったのです。この作品が発展していく姿を見ることができると。

写真
撮影:株式会社precog
ウティット・ヘーマムーンと岡田利規(バンコクにて)

福冨:つまり、「タイ」という地域性を持つあなたの作品について、「日本」の作家とコラボレーションするという事実は、あなたにとってはそれほど重要ではないということでしょうか?

ウティット:この作品のおかれている空間がタイという場所に限定されすぎている。その作品をもって日本の作家とコラボレーションすることの意味とは?という話ですが、それは極めて細部に過ぎないと言わせてもらいます。小説の最も主たる部分は、芸術について語っています。芸術とは普遍的な言語です。それを使って、とある出来事と直面したときにもたらされる、人間の感情の状態について語る。それもまた普遍的なものです。その出来事というのは確かに、特定の空間や土地についてのものですが、感情の問題や芸術の問題、小説の登場人物がその限界を乗り越えて作品を創造しようとすること、それは非常に普遍的なものです。どんな芸術家だってそうなるでしょう。
むしろこちらから聞き返すとすれば、どうしてぼくたちは、日本人は、『ドリアン・グレイの肖像』[オスカー・ワイルド作]を読んで、そこにある思想を理解できるのでしょうか。ロシアの文学を読んで、それを皇帝暗殺の話と結びつけることができる。ミシシッピをモデルにした場所を舞台としたアメリカ文学を読んで、どうしてそれが理解できるのでしょう?
この作品も同じです。タイという空間を舞台にしていて、そこには固有の条件、状況、歴史がある。わずか20年のうちに三度も起きた軍事クーデターだとか。でもそれらは、世界中で起きているのではないでしょうか。人々の行為を禁止したり制限するさまざまな規則や、国内の融和を目指すと標榜したり、あるいは国を閉じて周囲を無視したりするようなナショナリスティックな政策。こういったものが存在したのは、別にタイが最初ではありません。歴史上、他の地域でもこういったものは存在した。その意味では、外国人が理解できるかどうか、というところが問題になるとは思いません。世界中さまざまな地域の事例から学んで形成された、集合的歴史とも言っていいと思います。
だから、ぼくと岡田さんのコラボレーションは、とても心踊るものになると思います。岡田さんとぼくの見ているものが、同じだからです。ぼくたちは同じように、芸術を通じて世界を見つめている。だからこそ互いに惹きつけられています。岡田さんがぼくに惹きつけられるのは、別にタイという国の政治の問題のおかげではなく、一人の芸術家が、自らの創作形式を探求するという問題が共有されているからです。だからこそ、ぼくたち二人の話が通じるわけです。そこから互いに協力して、芸術の形式を異なる場所へと押し進めていくのです。これこそが、ぼくたちが共通して理解しているものだと思います。

インタビューの様子の写真

【2017年6月23日、precogオフィスにて】

岡田利規・タイ国際共同制作プロジェクト『欲望の輪郭(仮)』
タイの気鋭の小説家ウティット・ヘーマムーンによる新作『欲望の輪郭(仮)』(日本語訳が河出書房新社より2019年初出版予定 )を、岡田利規が舞台化。 1990年代初頭から2017年現在のタイに生きる芸術家の半生と性愛遍歴を描きながら、同じく芸術家であり同世代でもある岡田とウティットが自身の半生を投影し、日本とタイの<今>を映し出す。
2018年夏バンコクにて世界初演の後、日本および欧州で上演予定。国際交流基金アジアセンターおよび株式会社precogによる共同製作。

特設ウェブサイト
『プラータナー:憑依のポートレート』


インタビュアー: 福冨渉(ふくとみ しょう)
1986年東京生まれ。鹿児島大学グローバルセンター特任講師、タイ文学研究者、タイ語翻訳者。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社、近刊)。プラープダー・ユン「新しい目の旅立ち」を批評誌『ゲンロン』に翻訳連載中。共著書に『タイを知るための72章』(明石書店、2014年)や『アピチャッポン・ウィーラセタクン:光と記憶のアーティスト』(フィルムアート社、2016年)など。

写真(インタビュー):竹久直樹